『ダーチャと日本の強制収容所』

望月紀子著 『ダーチャと日本の強制収容所』




「ダーチャ」とはダーチャ・マライーニのこと。ノーベル文学賞候補にも挙がる作家であり、やはり作家のモラヴィアのパートナーとしても有名だろう。そのダーチャは幼少期を日本で過ごし、第二次大戦末期に両親がサロ共和国への忠誠を拒否したことで、マライーニ一家は名古屋の収容所で過酷な日々を送ることとなった。

タイトルにはダーチャとあるが、本書はダーチャはもちろんのこと、父フォスコの邦訳もある『随筆日本』、母トパーツィアの日記、末の妹のトーニの回想なども参照し、記憶の違い(例えばフォスコは収容所で抗議のため自ら指を切り落としているが、その状況については各人で微妙に異なっている)やその後の一家の辿った道など、それぞれの心理状態などが立体的に浮かび上がるようになっている。


フォスコの父はフィレンツェの有名な彫刻家であり、またファシスト党の幹部でもあった。ファシストの父と反ファシズムの息子は反目し合い、大学卒業後も定職に就いていなかった息子のためによかれとファシスト党員証を用意すると、フォスコはそれを父の目の前で破り捨てた。フォスコは父の元を離れ、遠くに行きたかった。
トパーツィアはシチリアの貴族の家系であり、父親は開明的で戦後は王制の廃止に一票を投じたという。母は歌手を目指していたチリ人で、結婚後も家庭の枠に収まることはなかった。トパーツィアもまた、母から逃れたかった。

フォスコは結婚の許可を得るためにフィレンツェからバゲーリアまで、未舗装の道路を三日かけてバイクでやって来た。庭で仏教の本を読んでいた公爵はすぐにこの若者を気に入った。フィレンツェで絵画を学んでいたトパーツィアは、結婚通知として「海辺でキスする自分たちのヌードの後ろ姿のスケッチをいれたカードを配り、双方の親族の顰蹙を買った」。

フォスコは日本の外務省の国際学友会の奨学金を得て、アイヌの人種的起源の研究のため、彼曰く名誉助手、実態は無給の助手として北海道大学医学部解剖学教室に迎えられる。「国際学友会側は彼の研究テーマとして日本の伝統文化をつよく推奨したが、彼は屈しなかった」。
トパーツィアも夫の決断を喜んだが、これは彼女に画家としてのキャリアを断念させることでもあった。これはその後の二人に影を落とすことになったのかもしれない。
1938年10月、マライーニ一家は日本へ向けての船旅に出る。フォスコ26歳、トパーツィア25歳、ダーチャはまだ2歳に満たなかった。


神戸に着き、札幌へ向かう途中東京に滞在した。トパーツィアは日記にこう書いている。
「日本人はみな子どもにやさしい、ダーチャにはとくに――やさしすぎるほど――という気がする。/注目されるのは変な感じだ。人通りの多い銀座はDにとって戦場だ。スカート(キモノだ!)と草履のあいだをまるで分水嶺のようにかき分けては<カワイイネ!>を浴びる。困惑しているようだ。誰もが私に微笑みかける。まるで二列に並ぶ市民のあいだを通り、笑顔をふりまいて礼を返さなくてはならない王家の人間にでもなったみたい」。

子どものしつけという点では、かつては欧米のほうがはるかに厳しく、日本を含むアジアに来た欧米人は子どもがあまやかされているのにとまどうことが多かったが、マライーニ夫妻もこれには困惑したようだ。帝国ホテルでもダーチャなど子どもたちが走り回っていても誰も注意しなかったという。

「昔の日本では大人が子どもをきちんとしかってしつけていた、それにひきかえ今は……」などと言う人がいるが、これは完全に偽の記憶とすべきだろう。それにしても、ダーチャが多くの日本人にとっては見慣れない白人の子どもであったこともあるのだろうが、<カワイイネ!>と声をかけられてあまやかされるのを現在と比較すると、今の日本人の子ども(とりわけ幼児)の扱い方はなぜこうなってしまったのだろうと思ってもしまう。

一方でフォスコは出征兵士の壮行会と出くわし、「天皇陛下万歳!」の叫び声に恐怖を感じ、「それまで観察した日本人は極端なまでに自生的だったが、この若者たちは明らかに御しがたい暴力に支配されていた」としている。数ヶ月前までは南京虐殺をアメリカやイギリスの大げさなプロパガンダだろうと思っていたが、この時これを「ふと、事実だろうと思った」という。フォスコは日本の社会構造を「平等性は存在せず上下関係だけ」と分析し、「耐えがたいまでの男性優位」やいばりちらす軍人の姿を見て、「自国のファシズムの暴力を逃れてきたはずの日本で垣間見たもうひとつの国のファシズムの暴力性」に恐怖したのであった。

青森から函館への連絡船では四人の士官とテーブルをともにしたが、ダーチャは「全員の膝につぎつぎとのぼり、彼らは彼女を抱きしめたり揺さぶったりし、子どもが人形で遊ぶように笑顔で彼女と遊んだ」。そして函館から札幌までの道中では、食堂車などで次々とダーチャにお菓子が届けられ夫妻は困惑したが、ダーチャはにっこり微笑んで当然のように全てを受け取ったそうだ。
ファシズムのむき出しの暴力性と子どもへの甘やかしが両立していたのが1938年の日本なのであった。1941年に東京に来たときも、ダーチャが何をしても日本人は笑って<カワイイ>を連呼し、軍人やホテルの泊り客やエレベーター・ボーイまでがダーチャに物をあげることに、トパーツィアは苛立っている。


札幌でマライーニ一家の力になったのが北大の英語教師、ハロルドとポーリンのレーン夫妻だった。後にレーン夫妻は「宮沢レーン事件」に巻き込まれるが、著者はこの事件を、レーンをスパイにでっちあげることによってアメリカで拘束されていた日本のスパイとの身柄交換に利用した可能性があるのではとしている。
レーン夫妻やマライーニ夫妻など当時の札幌の外国人たちがリベラルな共同体を築いていており、そこには日本人も出入りしていた。レーン夫妻と一緒に逮捕された宮沢弘幸もその中の一人だった。もっとも宮沢は陸軍に好感を持つ皇室崇拝者でもあるナショナリストでもあり、確かに日米開戦でパニックに襲われた官憲が暴走したというには少々不自然な事件である。ハロルドはアメリカに帰国した際には廃人のようになっており、また戦後になってフォスコは宮沢と再会するが、このフレームアップによって傷つきボロボロとなった宮沢の姿は痛ましい。


ダーチャはトイレにまで母親について回ったように、異国での生活にとまどいも多かったのだろうが、しかし日本の子どもとも遊び仲間になる。当初は「バカ」を褒め言葉だと教えられそれをしきりにつかっていたのだが、かつがれたのだと気づいた。また男性器と女性器もあべこべに教えられ、「ワタシノオチンチン」と言っていたそうだ。マライーニ家ではそれから女性器を「オチンチン」、男性器を「チンボ」と呼んだそうだ。こうしてダーチャは日本語を覚えていき、イタリア語や英語よりも日本語のほうが流暢になるほどだった。


1941年に奨学金が切れてしまったが、京都大学からイタリア語の講師として誘いを受け、フォスコはこれに応じる。ユキ、トーニという妹たちも誕生したが、戦争は暗い影を投げかけ、夫妻が反ファシズムであることを知ってか知らずか、日本人は「ヒトラー、ツヨイネ」と「称賛と恐怖の入り混じった顔」で言うのだった。42年にトパーツィアは日記を書くのを一端中断する。後にダーチャがなぜなのかと訊くと、「たぶん、空気が変ったから」と答えた。トパーツィアにはこの雰囲気に耐えることができなかったのだろう。再び日記を書き始めるのは、強制収容所に入れられる直前になる。


1943年9月8日、イタリアは連合国と休戦を発表する。これによってイタリアは日本にとって「友邦」から「敵国」となる。9日には避暑のために軽井沢にいたマライーニ家の人々のもとにも警官が来て、翌日には京都に帰るよう命令され、軟禁状態に置かれる。12日には罷免されていたムッソリーニはドイツに救出されるとサロ共和国の樹立を宣言し、日本はこれを27日に承認する。10月には日本在住のイタリア人に「ファシスト新政府に忠誠を誓ひしや否や」を問うことが決定され、フォスコもトパーツィアもこれを拒否する。二人は別々に尋問され、フォスコは「自分はアルプス歩兵旅団の兵士ゆえ王に逆らうことはできない」と答え、トパーツィアは「ナチス・ファシズムは私の思想と相容れない」と答えた。トパーツィアは「忘れないで書いてね、私は夫に従うために強制収容所に行ったのではないということを」とダーチャに念を押すことになる。

こうしてマライーニ一家などイタリア人16人が、元は名古屋の坂屋デパートの社員保養所で接収されていた「天白寮」に収容されることになる。またマライーニ家の秘書、家庭教師、乳母を務めていた森岡一家も特高に逮捕され、マライーニ夫妻がスパイだったと認める調書にサインしろと拷問を受けたが、森岡夫妻はこれを拒否し続けた。

収容所を監視するのは4人の特高で、2人ずつ交代した。粕谷という30歳くらいの小柄なインテリは、おそらくはイタリア語と英語をある程度は理解し、声を荒げることこそないものの、冷酷で誰よりも恐れられた。部下の西村は最初のころは食料を余分に与えるなどしてくれたが、空腹で泣いているユキにサツマイモをあげたところを粕谷に見つかり一喝されてしまった。別の班の長が青戸という50歳くらいの男で、「愚直で庶民的」なところもあり、大声で怒鳴るかと思えば機嫌がいいときには無愛想ながら親切心を見せることもあった。その部下の藤田は最も軍国主義に染まっており、「つねに杖を振りまわしてはぞっとするような叫び声」をあげていたが、4人のなかで一番愚かだったため「恐怖の度合いも一番少なかった」。

天白について最初の頃、トパーツィアは「マライーニ、オマエ」と呼ばれたことに驚いたが、次には「オクサン」と呼ばれるようになり、だんだん厳しさがやわらいでいくように思えたのだが、これは幻想だった。

食料不足のための栄養失調で、常に体調が悪くすぐに病気になった。1944年に入ると、戦局の悪化もあってか理不尽さは増していく。昼間は読書も寝るのも禁じられていたが、ついには壁にもたれることさえ禁止された。背中合わせに座るとそれは見逃されたように、まったくの気まぐれによる運用であった。特高にとっては捕虜は「劣等な敵国人」として支配せねばならないが、また死なれても困るのであった。医師の往診のあとには一時的に卵や牛乳が増やされたが、「生かさぬよう、殺さぬように、最小限の食事」に限られていた。

天白寮では他の収容所と比べても食糧事情が悪かったが、これは特高が食料の横流しをしていたためだった。特高は差し入れのパンを転売目的なのか収容者に与えずに保管していたが、高温多湿の日本であるからすぐにカビまみれになってしまった。肥料にするためにそれを畑に埋めると糞尿をその上からかけたが、収容者は秘かにそれを掘り起こすと、糞尿にまみれたカビのはえたパンから、なんとか食べられる部分をより分けた。そこまで追い詰められていたのである。
特高の監視をかいくぐって食料庫から盗みだしたり、野草を人体実験を繰返して食べられるものを見つけ、蛇なども貴重な栄養源としなければならないほどだった。ある日いつになく豪華な食事が出たが、赤十字が視察に来たその日だけのことで、翌日にはまた粗末な食事に戻った。

こうした中で、フォスコの「ユビキリ」事件が起こる。小さな犬を見つけ、後で食べるためにつかまえていたが、犬は糞を残して逃げていった。特高は糞を嫌がらせだと思い込み激怒すると食事を抜きにし、藤田は狂ったようにイタリア人を罵った。収容者たちはこれに抗議してハンストに突入すると、粕谷は不吉な笑みを浮かべて名古屋警察署の武装隊を呼んだ。そのアズミという連隊長がイタリア人を嘘つき、裏切り者と侮辱すると、フォスコは抗議のために斧で自らの小指を切断し、それを粕谷に投げつけたのであった。
ちょうどサイパンが陥落し東条内閣が総辞職したときだったため、これと連動した動きだと疑われた。また切断された指はどこだと訊ねられると、フォスコは アルコール小瓶に入れていた指を差し出し、「どうぞ、スキヤキにでも」と言った。イタリア人たちは知る由も無かったが、この頃はまた連合国による日本が人肉食をしているとの「新聞攻撃」があったため、特高たちは激高して殴打した。フォスコはただの冗談だったと主張し、それが受け入れられたのか解放されたが、二人のイタリア人が連れ去られ、一人はよれよれに姿で数日後に、もう一人は血まみれになって二週間後に戻ってきた。


イタリア人のあいだには「共同体」ができあがっており、読書が禁じられていたことから議論だけが唯一の楽しみとなった。しかしトパーツィアは一人孤独をつのらせていくこととなり、1944年9月に「私は三十一歳になった――若さが奪われた一年だった――悲しみ」と書いて、ノートをつけるのもやめてしまった。
戦後、フォスコは日本に戻ったが、トパーツィアは二度と日本に来ることはなかった。トーニはフォスコが日本の軍国主義に甘すぎると批判的な眼差しを向けることになる。収容所から解放されて10年ほどで二人は離婚し、フォスコは日本人と再婚する。

東南海地震が起こり、名古屋への空襲も激しさを増す。収容者は広済寺に移された。住職は親切で、フォスコは畑仕事を手伝い英語のレッスンも行うが、特高に見つかりこれは禁じられてしまう。住職の孫娘とダーチャは仲良くなったが、こちらは黙認された。混乱状態に規律は緩み、外を出歩いても警官たちは見てみぬふりをするようになった。農婦たちは子どもを見ると遠くから声をかけ、卵などを置いていってくれた。
フォスコは広済寺での生活を感動的に書くことになるが、トパーツィアは後に、連帯感が壊れ、「奇妙な心理的分散と屈折にとって代わられた」としている。「私は、自分が失われた。不在の、もう自分ではない人間のような感じがしていた」。
「自分をまるで外から見るように見ていた」と語っていることからうかがえるように、過酷な体験から離人症となっていたのだろう。「お寺のなかで私は孤立していた。与えられた部屋は寒くて陰気で、がらんとして、暗かった」。

8月のはじめに、広済寺の近くに収容されていたオランダ人捕虜の一人が監視の網の目をくぐり、広島への原爆投下を告げた。ソ連参戦の報も入り、戦争の終結が間近になっている実感がわく。そして8月15日、「村から少年が駆けてきて、天皇のラジオ放送があると伝えた」。放送を聴いても、特高も広済寺の人たちも内容を理解することができなかったが、日本語が堪能なM神父が、「戦争は終わった!」と叫んだ。

その後連合国からラジオで、飛行機から見えるように収容所の周辺に目印を置くようにとの放送があり、トパーツィアは緑色のワンピースをほどき、シーツを赤く染めてイタリア国旗を作った。やがて偵察機が来ると、気前良く山のように物資を投下していった。子どもたちは板チョコを手にすると、「この黒いもの何? 食べられるの?」と訊いた。ほんの数年前にあれほどお菓子をもらっていたダーチャも、チョコレートが何なのかわからなくなっていたのである。


2000年に刊行された随筆でも、ダーチャはこう書いている。「私が二年間過ごした日本の強制収容所は私の記憶の暗い領域である。記憶が欠落しているというのではない。それを容易に文章にできないのだ」。幸せそうにぷりぷりと太っていた幼いころの自分、しかし「あの子は死んだ」、「彼女はほとんど遠い敵のような感じがする」のであった。

マライーニ夫妻の離婚が収容所体験のせいなのかどうかは、当人たちにとってもわからないことなのかもしれない。しかしあまりに過酷な体験は確実に心をえぐり、それ以前とは別の人間にならざるをえなかったことは確かだろう。それはダーチャ、ユキ、トーニの三姉妹にとってもそうであっただろう。そしてイタリア語よりも日本語のほうが流暢になっていたダーチャ、日本で生まれたユキとトーニにとっては、イタリアへの帰国はまた別の苦難に満ちた物語となるのであった。


収容所体験にも触れているフォスコの『随筆日本』は邦訳が出ている。自伝的小説であるCase, amori, universiは英訳も出ていないようだが、これも読んでみたい。




ダーチャは邦訳のある『帰郷 シチーリアへ』の他にLa Nave Per Kobeも書いているが、こちらはいつか翻訳されるのだろうか。




森岡夫妻については『フォスコの愛した日本』で取り上げられているとのこと。




宮沢レーン事件については『ある北大生の受難』 『人間の絆を求めて』に詳しいそうだ。




またレーンの娘である日本文学研究者、アール・マイナーの『日本を映す小さな鏡』も邦訳が出ている。



プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
03 | 2017/04 | 05
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -
カテゴリ
twitter
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR