スティーブ・エリクソンによる『風の歌を聴け』『ピンボール』評

デビュー作の『風の歌を聴け』と続く『1973年のピンボール』を村上春樹は習作と見なし、アメリカの出版社から英訳が出ることはなかった。「アメリカの出版社から」というのは、英訳そのものは講談社からアルフレッド・バーンバウム訳で刊行されてはいたためだ。言葉を変えると、英訳は存在していたがアメリカの普通の本屋で気軽に手に取ることはできなかったということである。前にこちらに書いたようにパティ・スミスは『多崎つくる』の書評で『ピンボール』に触れているが、これはかなり気合の入ったファンであることの証だろう。

心境の変化なのか何なのかはわからないが、村上はついに『風の歌』と『ピンボール』のアメリカの出版社からの刊行を決め、テッド・グーセンの新訳で発売されることとなった。

ということでニューヨーク・タイムズにスティーブ・エリクソンが書評を寄せている(こちら)。
春樹とエリクソンというのは意外な組み合わせのように思えなくもないが、春樹が1949年生まれ、エリクソンが50年生まれの同世代であり、共に映画好きで一時は映画製作の道に進むことを考えていたし(春樹は早稲田の演劇科に入り将来は映画の脚本を書きたいと考えていたし、エリクソンはUSLAで映画を学んでいる)、ざっくりいえば二人ともポストモダン系にくくられ、映画をはじめとする各種(大衆)文化のハイブリッド性という点でも共通項は多いとすることもできる。

この書評の書き出しはいかにもエリクソンといった感じでちょっと「幻視」しすぎじゃないかとも思ってしまったのだが、中盤以降はどちらかというとオーソドックスな村上春樹論になっているのではないだろうか。


'Crossing Kafka and the Beatles with Kenzaburo Oe (not an early Murakami fan), adding dashes of noir and science fantasy and creating an irresistible amalgam of East and West'とあるが、春樹と大江健三郎との微妙な関係などはジェイ・ルービンの『ハルキ・ムラカミと言葉の音楽』あたりを参照したのか、それとも作品を読むうちに辿りついたのだろうか。
『風の歌』について'Tokyo-located 'となっているが、あれは基本的には神戸あたりをモデルにした架空の町なのだが、ルービン本にはそのあたり説明してあったかは失念してしまった(本の山の奥深くに埋まってしまっているもので、そのうちに引っ張り出して確認してみる)。


後半でエリクソンは主として『ピンボール』を『1Q84』と対比して小説家村上春樹を論じているが、三部作(個人的には『ダンス・ダンス・ダンス』は外伝的なものと思っているので、四部作ではなく三部作とする)なので当たり前すぎてあえてそうしなかったのかもしれないが、初期二作品は『羊をめぐる冒険』について考えるうえで必須であるという点がもっと強調されていてもよかったかもしれない。

'Tellingly, Murakami’s early narrators are all Nick Carraways on the sideline of their own narratives.'と、「僕」がフィッツジェラルドの『ギャツビー』のニック・キャラウェイ的な造型になっているとしている。ついでにいうと、ここでのエリクソンの書き方だと比較的近年になって春樹がフィッツジェラルドを訳し始めたように読めてしまうが、『ギャツビー』を訳したのが最近であって実際にはデビュー後に最初に手がけた翻訳は他ならぬフィッツジェラルドであった。ちなみに大江はフィッツジェラルドなどアメリカ文学からの影響という観点から初期の春樹作品を一定の評価をしつつも懸念も抱き全体としては否定的に評価しているが、デビュー間もなくの春樹論はピント外れのものが多いなか、鋭い批評眼を発揮している。

確かに『ギャツビー』のニックも春樹の「僕」も受動性が強い消極的な語り手ではあるが、やはりニックと「僕」では物語世界の立ち位置は大分異なるのではないかと思う。そして'In the thrall of some more charismatic central figure like the Rat'としているが、これはギャツビーとニックとの関係には当てはまっても鼠と「僕」との関係では少々ずれているのではないだろうか。

ギャツビーと鼠には確かに共通点はある。ギャツビーは成金であり、鼠は成金の息子だ。ギャツビーは芳しからぬ方法によって財を築き、鼠の父親は戦中・戦後の混乱期に怪しげな方法で一儲けした。しかしギャツビーは貧しかった過去を捨てることによって過去の欠落を埋め合わせようとするが、鼠は成金の息子という過去を捨てることによって再出発を図るものの結局は……という展開になっていく。しかしまた、その過去によって運命が変転するという点も共通項としていいだろう。

鼠が父/金持ちを憎むのは(「金持ちなんて・みんな・糞くらえさ」)、戦争によって儲けた人間への嫌悪でもあり、また戦争で死なず(殺されず)に生き残った人間の子どもであることへの罪悪感であり、またその親の世代によって安楽な生活を営めるようになったことへのアンビヴァレンスの表れでもあろう。8,90年代の村上作品のほとんどが父親は影が薄いどころか影すらないが、『風の歌』では例外的に「僕」が父親の靴磨きを習慣としていることが語られ、しかも必ずしもそれを否定的には捉えていない。ギャツビーとニックとの関係と比べると、鼠と「僕」との関係はより分身的であり、戦中世代への戦後世代からのアンビヴァレンスを一人の人物の葛藤としてではなく鼠と「僕」の対比で浮かび上らせている。これは「僕」が約十年前を振り返るという作品の時間設定を映したものともなっているだろう。

『限りなく透明に近いブルー』で春樹より若干年少の村上龍は、「基地」文化を享受しつつ同時に「ヤンキー・ゴー・ホーム」的でもある若者を描いたが、ここに葛藤は見られない。春樹と龍の微妙な年齢差のせいなのかは慎重に論じるべきだろうが、二人が描く戦争は、優劣の問題ではなく、大きな差異がある。

また記号としての金持ちの表れ方では、『ギャツビー』と初期二作品の違いも大きい。『ギャツビー』(あるいはフィッツジェラルド作品全体)では本物の金持ちと成金とが峻別され、本物の金持ちへの憧憬が見え隠れにするのに対し(ゆえにギャツビーの悲劇が召喚される)、鼠にとっては金持ちとは成金か否かに関わらず嫌悪感を抱く対象に他ならない。

春樹は父親との関係がうまくいっていなかったことを隠していないし、一方で中国戦線に送られた経験を持つ父が戦後も毎朝お経をあげ続けていたことに強い印象を受けていたことも明かしている。
鼠は金持ちを憎んでいるが、これは春樹自身のものでもあろう。こちらに書いたように、83年に行われた五木寛之との対談で高度経済成長を謳歌する日本社会への違和感を表明している。鼠は父親と金持ち一般とをイコールに結んでいるが、春樹の父は教員なのでもちろん金持ちではなく、金持ちへの呪詛は戦後日本社会への嫌悪感とするべきだろう。鼠の父は戦線が南方に広がったことで効果の怪しい虫よけの軟膏で一発あて、戦後は洗剤でこれまた儲けたが、原材料は同じだったとも噂される。これは朝鮮戦争による「特需」によって経済復興の足がかりをつかんだ日本社会の隠喩のようにも見える。
一方で、新たに身につけた習慣を守り続けることへの敬意ともとれる「僕」による父の靴磨きのエピソードや、これを家父長的な横暴とはせずに父を「律儀な人」とするあたりもまた春樹自身の心理でもあろう。

「僕」の叔父は終戦の二日後に上海郊外で自分の埋めた地雷を踏んで死んだ。これは擬似的な父殺しのようにも見えるし、また無意味な戦争によって命を落さざるをえなかった父の世代の日本人への哀歌のようでもあるが、また中国人からすれば、日本人による紛れもなき暴力の表れともなる。そして「僕」と鼠の精神的な父、あるいは守護天使ともいえるジェイは中国人であり、『風の歌』で「僕」は「チャイナ」と呼ばれる夜行バスのC席に乗って帰京するするのである。

このアンビヴァレントな混乱した世界を世界を生き抜くための知恵が、「クール」になることであったが、口数の少なさに少々矮小化された「クール」さもまた、両義的なものとして語られる。
とりあえずは、世界からしかるべき距離をとることが「クール」であるとすることができるかもしれないが(エリクソンが指摘するように、『ピンボール』においては'seduction'に屈することはない)、しかしその「僕」の元に鼠からある依頼があり『羊』という物語が駆動し、「僕」はまた世界と対峙することとなる。

『羊』は大陸で羊にとり憑かれた、戦後日本を支配する右翼の大物をめぐる話になっているが、これは三部作の最後になって突拍子もない設定を思いついたということでは必ずしもなく、デビュー作において陰に陽に響いていた、戦中と繁栄した戦後の日本社会との連続性への嫌悪感と困惑とを拡大し、それとの対決を試みたものだとすることもできる。


このように『羊』を読むうえで『風の歌』と『ピンボール』はやはり欠かすことのできないピースなのであるが、春樹がこの二作品の海外での流通を積極的に望まなかったのはどういうことなのだろうか。
一つには、もちろん作品の出来に満足していないということがあろう。『風の歌』は手法としてヴォネガットから、雰囲気としてブローディガンからの借用があまりにも目立つし、『ピンボール』は本人曰くリアリズムに挑戦したがうまくいかなかったとのことである。
またすでに書いたように、登場人物の心理と作者の伝記的背景とが直接にリンクし過ぎていることも、未熟さを表すもののように感じられたのだろう。

もう一つ想像できるのが、後年の作品のイメージがすでに使われていることかもしれない。「僕」の自殺したガールフレンドは昔の写真で「ジーン・セバーグ風」、あるいは「アウシュヴィッツを連想」させる「短く刈り込」んだ髪型をしているが、これは『ノルウェイの森』のミドリで使われることになる。また小指のない女の子は幻聴らしきものを聞いていることを告白し、精神に変調をきたしていることを窺わせるが、これは直子となる。『ピンボール』ではそのまま「直子」が登場し、吃音の青年も顔を出す。『ノルウェイの森』は村上作品としては異質なものとすることもできるが、これらを読むとデビュー当時(あるいはその前からずっと)この物語への強烈なイメージを見ていたことがわかるのだが、しかし『風の歌』や『ピンボール』の物語世界からするとこういったイメージが少々浮いていいて、その分このあたりがあまりに生のままに出すぎているように思えたのかもしれない。


と、エリクソンの書評からすっかり脱線しながら『風の歌』と『ギャツビー』をパラパラやっていたら、あることに気付いた。
『ギャツビー』と『風の歌』との類似と差異という点でいえば、戦争のイメージがあるだろう。ギャツビーは第一次大戦中に従軍し、その時にデイジーに出会っている。しかしすでにジェイムズ・ギャッツを捨て、半ば生まれ変わった後のことで、戦争そのものが強く影を投げかけてはいない。これはやはり第一次大戦中に従軍しながら前線に送られることはなくアメリカ国内に留まり、そこでゼルダに出会ったフィッツジェラルド自身の体験の反映でもあろう。『風の歌』は戦争の影というのが実は色濃い作品となっている。

しかしまた、語り手のニックは「僕は三十歳になった」と言っているのである。三十歳の時点で、過去に出会ったギャツビーのことを回想していたのである。ニックが過去を回想しているということは意識していたが、年齢については今まで考えていなかった。そして『風の歌』では、語り手の「僕」は「現在」は二九歳で十年近く前を回想しており、これはまた当時の春樹自身の年齢でもあった。二十代の終わりはつまりニックの年齢になるということでもあり、春樹がついに小説を書こうと決意したのには、こういった理由があったのかもしれない。

エリクソンはピンチョンの『スローラーナー』のイントロダクションを引き合いに出しつつ、春樹がよく触れているあの伝説的な、神宮球場で野球を見ていてふと小説を書きたいという欲求に捉われたというエピソードを本書でも改めて語っていることを取り上げているが、毎度繰返すだけにかえって'behind the curtain of a mysterious creative process'を覗かせているようでいて、その実秘密のベールに包んだままにしておこうとしているようにも思えてきてしまった。もしそうなのだとすれば、『ギャツビー』との関連についてもう少し考えてみるべきだろうし、エリクソンはそのあたりを作家の感性によって「幻視」していたのかもしれない。


なにはともあれ、作者本人がどう評価しようとも『風の歌を聴け』を手に取った時、瞬く間に魅入られた経験を持つ人間としてこの訳書の刊行を歓迎したい。
さて、久しぶりに「焼きたてのホット・ケーキ」を「ナイフできちんと4つに切り、その上にコカ・コーラを1瓶注ぎかける」あれでも食べてみますかね、もっともこれはあまり勧めないけど……






プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
カテゴリ
twitter
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR