『おんな二代の記』

山川菊栄著 『おんな二代の記』




山川菊栄の自伝。不勉強ながら今になって初めて読んだがこれが滅法面白い。面白さという点では夫の山川均の自伝『ある凡人の記録』を圧倒しているかもしれない。日本の社会主義史、フェミニズム史などに興味がある人はもちろんのこと、明治、大正、昭和初期の社会史としても秀逸で、このあたりに関心のある人にとっても非常に面白く読めることだろう。

「おんな二代」となっているのは菊栄の母青山千世の前半生についても詳しく語られているからで、1956年の発表された本書は、1947年に千世が90歳で亡くなるまでが描かれている。


千世の父青山延寿は水戸藩の儒者であった。千世が生まれた1857年頃の水戸藩といえば、佐幕派と尊皇攘夷派とが文字通りに血で血を洗う争いを繰り広げていたが、延寿はファナティシズムに染まることはなかったようで、東京で職を得て千世もここで育つことになる。

千世は水戸にいるころから一日も早く東京に出て英語を学んで留学したいという願いをもっていた。延寿は教育者としての経験から、子どもたちはなるべく広く学んで、そこから自分の得意なものを見つければいいという考え方を持っており、娘のために学校を探して、千世は上田女学校に入学する。入学初日にアメリカ人のローザル夫人から地球儀を見せられて日本の位置や地球の自転について教えられたことは、一生忘れられない体験になったという。もっともABCも習わずにいきなり先輩たちと一緒にリーダーの中途から教えられたために、何もわからなかったそうだが。

どういう問題があったのかはわからないが、生徒の一人だった宮木少佐の妻のお信さんという人が、こんな学校にいてはいけないと言い出し、千世も一緒に報国学舎に移る。ここでアルファベットやスペリングの初歩から習い、会話や地理、アラビア数字に四則などを学んだ。

男女共学であった報国学舎では十代半ばから後半の男の子たちがさかんに女生徒をからかっていた。
ある日お信さんが「何をッ!べらんぼうめ。おたんちん野郎! 女だろうがおたふくだろうがてめえらのお世話になるかってんだ。女に英語が読めてくやしいのか。男のくせにケチな野郎だ。くやしけりゃあ遠慮はいらねェ。てめえらも負けずにペラペラッっと読んでみせえ」と啖呵を切って男の子を黙らせたそうだ。
このお信さんの母は芸者で父は水戸藩の鳥居瀬兵衛。父は水戸藩の内紛に巻き込まれ切腹、母に育てられ芸者となっていたが維新によって身分制度が崩れ少佐夫人となり、好きな学校通いを始めていたのだそうだ。


母は婚期が遅れることを心配したが千世は学校がすむまではと縁談を断っていた。不幸にも兄が亡くなり跡取りとなったために嫁入り話はなくなった。
中村正直が設立した同人社女学校に通い始め、授業は英語で行われリーダーも進んだが、会話中心であることが物足りずに、すぐにこれも中村の関わった教師を養成する小学講習所に移ることになる。
同人社にはまだ十歳ほどだった徳川家達も通っており、お供を二人だけ連れて千駄ヶ谷の自宅から徒歩で通学していた。千世はここでカクラン夫妻から初めてクリスマスに招かれる。プレゼントを貰うとき皆は呼び捨てだったが、家達だけは「ト・ク・ガ・ワ・サマー」と妙なアクセントで様づけで呼ばれたのがなんともおかしかったそうだ。

中村は1866年に35歳にしてイギリス留学し、会話と発音の練習のために小学生と机を並べて勉強を始めた経験を持つ(中江兆民もフランスに行ったときに似たようなことをした)。中村は読み書きは十分にできたはずだが、雨はどうして降るのか、雷はなぜ鳴るのかといった科学的質問にはまるで答えられなかった。ところがイギリスの子どもはすらすら答える。どうしてそんなことを知っているのかとたずねると、母親から聞いたのだという。こうして女性教育の重要さに気づき、帰国後は熱心に取組むが、新政府も頭の固さは変わらなかった。
女子も学校に通うようになったとはいえ、女性教師不足は深刻で、これから学ぼうとしている千世のもとにまで教師にならないかという誘いがくるほどだった。

1875年に千世はお茶の水の女子師範に入学する。合格者は15歳ほどの少女からすでに教師を務めている経験のある人まで、年齢も様々だった。またここでも女性教師不足は深刻で、自宅で漢学の手ほどきを受けた程度の多田という30歳ほどの教師がいた。多田は自分の学力不足を認め、生徒に編入してくれるよう頼み、親子ほども年齢の違う生徒にまじりながらもいっこうに苦にせず勉学に励んだという。

この時入学試験で一番目立っていたのは、上手とはいえない化粧に不器用な島田まげに「父親のおふるらしい大きな五つ紋のもめんに黒紋付に桃色もめんの太いふきを出した、見るからに田舎田舎した若い娘」だった。まるで「田舎芝居の娘仇討ちそっくりじゃありませんか」と、後々まで「佐方さんの娘仇討ち」と笑い話になった。この佐方さんとは、後に女子教育家として知られることになる佐方鎮子である。

この佐方家にはこんな逸話がある。ある日主人が縁戚の家の出産祝いに行き、ほろ酔いで帰ってくると、「さあいいおみやげを貰ってきてやったぞ」と言った。ふところから取り出したのはなんと赤ん坊。男と女の双子が生まれたので、うちには子どもがいないからと女の子を貰ってきたのであった。この後佐方家には次々と子どもが生まれたものの維新となり、録も何もがふっとんでしまった。そこでひぼしになる前にと勉強好きのお鎮を女子師範に入れようと鳥取から出てきたのであった。

さらにこの話のすごいのは、この双子の男の子の方は森家の養子となり、近衛師団に勤める陸軍大尉となり、千世の妹のふゆと結婚することになるのである。千世かお鎮が間に入ったのかは書かれていないが、その関係だったのだろうか。

後に菊栄は子どもの頃から森家によく出入りするようになり、この軍人一家とよく議論をしたが、森家の人々はファナティカルな軍国主義者などではなかったからできたのだろう。日露戦争後軍人の地位が下がると、これからは金だ実業だという雰囲気になり、秀才は士官学校に入らないといわれるようになった。従兄弟の秀雄が、将来は大臣か大将間違いなしと見られていた友人の井上砲兵大尉を家に連れてきたことがあった。井上は軍に入ったのは失敗だった、大学に行った人が羨ましかったが、軍人の家系なのでいやだとは言えなかった、自分の子どもは軍人にはしないと言い、その後実際に自分も軍服を脱いで会社員になった。井上はさらに「こんどの桂〔太郎〕のやり方なんか、僕たち軍人でもイカンと思いますな。あれじゃ軍人が国民から憎まれますよ」とも語っている。
菊栄はこれを大正2年の初め、第一次憲政擁護運動のころの出来事だったか、としている。これからわずか十数年後には軍への一切の批判が封じられるようになるとは、菊栄はむろんのこと、井上にも秀雄にも想像できなかったことだろう。


西南戦争のころは反新政府、親徳川の雰囲気が東京にはまだ色濃く残っており、「こんなばかくせえ世の中がいつまでもつづいてたまるもんけえ、どうせ徳川さまがいまにまたお帰りになるにきまってらァな」といった会話が湯屋でも繰り広げられていた。反政府から西郷贔屓が多く、お茶の水の寄宿舎でも「西郷さんに勝ってもらわなければ」「西郷さんが負けたらどうしよう」と言い合っていたという。もっとも千世は醒めたもので、晩年には西郷が勝ったらどんな政治が行われるかなんて誰も考えていなかったらしいと笑っていたそうだ。千世は西郷が帰郷する前の薩摩屋敷周辺の「野蛮」さについても語っており(猫の受難!)、その後も一貫して薩長に否定的な感情を持っていたので、政府だろうが西郷だろうが所詮はどちらも薩摩という感じだったのかもしれない。徳川時代への郷愁といえば勝海舟の息子と結婚したクララ・ホイットニーの『クララの明治日記』でも触れられていた。青山家にしろ勝家にしろ幕臣であったというバイアスはあるかもしれないが、新政府の不人気という現象は東京では広く見られたのだろう。


松江の足軽の次男坊だった竜之介は数え九つから家老の家に奉公に出て、殿様の鷹のための小鳥の世話係の森田家の養子となる。維新が来て兵隊に取られ、東北平定後は藩の奨学金で横浜の外国語学校でフランス語を学び始める。しかし廃藩置県のあおりで奨学金が途絶え、貧乏書生であった竜之介は勉学を断念しなければならなかった。
ちなみに竜之介は語学学校時代から中江兆民と友人で、兆民が仏学塾を開いた際にはこれを手伝い、兆民の晩年まで交遊があった。

陸軍がフランス式を導入したために竜之介は通訳に任命されるが、まだABCとアラビア数字を習い始めた程度で、フランス人教師の怒りを買って床を踏み鳴らされたり怒鳴られたりと散々だったが、猛烈な努力でフランス語を身につける。しかし普仏戦争でフランスが負けると陸軍はドイツ式に切り替えられたので用済みとなってしまう。しかし竜之介は軍で研究されていたハムやベーコン、かんづめなどの保存食の研究に興味を持ち、その技師として一生を送ることになる。
そして千世はこの竜之介と結婚することになる。

竜之介は兆民と交遊があったように民権にシンパシーを寄せる一方で、貧しい生まれだったこともあってか資産家の派手な生活にも憧れるという分裂した面を持っていたが、この当時にはよく見られた現象だったのだろう。保存食の技師としてはそれなりの能力を持ちつつ、商才はまったくなかったようで、森田家は経済的には苦労のし通しとなる。

結婚した後、竜之介はハムやかんづめの製造法を学ぶためにヨーロッパ、アメリカを視察する。ここで白人の横暴を見ると同時に、欧米では職業を持つ女性が多いことや大学教授の家ですら女中を置かずに、夫人が家政をとりしきり教授もそれを手伝っているといったことも発見する。それまでは家のことなど一切やらなかった竜之介だが、帰国後は人がちがったように身の回りのことは自分でするようになった。

千世はぐずぐずしている人ががまんできないタチで、子どもたちにもイヤならイヤとはっきり言え、それが言えないのはいくじなしだ、と教育していた。このせいもあってか、菊栄の少女時代のエピソードもなかなかワイルドなものが多い。


姉が東京府立第二高女に一期生として入学したこの頃から、女性が袴や靴をはきだしたそうだ。この頃には鹿鳴館時代の洋装の普及は失敗に終わり、逆に国粋趣味が流行し始めていた。菊栄も上は「筒袖の和服、下は共ぎれの袴から成るツウピース」を着せられそうになったが、千世がそれではみっともないからと、もっと洋服に近いものを縫ってくれたという。

小学校は女性の教師が少なく、男性も冴えない中年が多く陰気な雰囲気であったが、最後の年に教室の空気をがらっと変える先生が現れた。「桃われにあずき色の紋付の羽織を着、紫がすりの着物にえび茶袴、薄化粧、赤いフリをちらるかせるという、目をみはるほど新しい気分の若いお嬢さんがまいこんだ」。
府立第二高女の補習科を出たばかりの18,9歳で、「私なんかビリッコで、お情けで卒業さして貰ったんだから、大きい顔はできないけれど」と生徒を叱るにも型破りなことを言う、「よくしゃべり、よく笑い、無遠慮で無邪気で、若い娘というより男の子のようにさっぱりした、あけっ放しの人」だった。
生徒たちをピクニックに連れて行くという「前代未聞」の催しを開き、作文や写生を型にはまったものではなく自由にやらせてくれたそうだ。


姉は女学校を卒業すると女子英学塾(津田塾)へ入る。「母は姉のため職業的知識を身につけさせたいと思ったのと、原書の一冊でも読めなくては困るだろうと思ってこの学校を選んだ」。兄は井上円了の京北中学に一年だけ通ったが、ここで藤村操と知り合った。操と直接知合いだったのは兄だけだったが、操の母は千世とはお茶の水時代からの知合いで、よく家に顔を出し話はよく聞いていたし、操は直接知らない姉に毛筆で書き込みをしたトルストイの「個人的キリスト者についての手紙」というパンフレットを送っていた。この藤村操とは、もちろん華厳の滝から身を投げたあの一高生である。


菊栄は女学校を出ると、津田塾にも日本女子大にも魅力を感じず、周囲の反対を押し切って国語伝習所に通うことにする。しかし最盛期はとうに過ぎており、まったく活気のない様に失望し後悔する。そこで知り合った女学生の話を聞いて、与謝野夫妻や馬場孤蝶、上田敏、森田草平などが講師を務める閨秀文学会に行ってみることにした。そこには「すべて特徴的で人目をひく人があり、誰かときくと女子大の平塚さんという方だとのこと」だった。
この会は夏休みとともに立ち消えになったが、有志の者は来るようにと孤蝶から手紙が届く。最初の日にいっしょになったのは大貫(岡本)かの子だったが、かの子は初日にしか姿を見せなかった。
当時の知的なサークル、とりわけ女性も参加できるものは限られていたとはいえ、世界はなんと狭いことかと思ってしまう。

菊栄は結局女子英学塾に入り、卒業後は就職せずに翻訳などのアルバイトをこなす。
ある日、神近市子に誘われて大杉栄のフランス語の夏期講習に参加する。しかし下読みをしていくのは菊栄ひとり、大杉にこれでいいのかときくと、居眠りからさめてどこだどこだという始末で、すぐに行くのをやめてしまう。また神近に誘われ、大杉と荒畑寒村らの平民講演会という研究会に行くが、神近と大杉は二人ですぐにどこかへきえてしまったという。しかし菊栄は二人の関係にはまるで気づいていなかったようだ。

『青鞜』に伊藤野枝の廃娼運動批判への批判を投書すると、大杉から「いちど野枝さんと会ってごらんなさい、いいお友達になりますよ」と声をかけられ、辻潤宅に行くこととなる。菊栄は野枝に会いにきたはずなのに、野枝はかいがいしく家事をするばかりでまともに話ができなかった。
数日後に劇場で野枝に会うと、あの日とは別人のようだった。野枝は「愛くるしくチャーミング「で、「田舎の女学生そのままの、野生的で健康で、野花のような新鮮」な魅力を放っていた。
「大杉氏は野枝さんをあんな境遇におくのはかわいそうだ、みじめでみてられないと同情していましたが、そのとき大杉さんにとっては、公娼よりも、野枝さんの解放の方が問題になっていようとは、勘の悪い私のしらないことでした」。


平民講演会の二月の例会があり、運動から離れていた山川均が上京し顔をだした。この日手入れがあり、菊栄らは警察署に連行される。留置場の前に並ばされると、菊栄の隣にいた均は「あそこへ入れて保護してくれるんですよ」と皮肉な微笑を浮かべた。これが菊栄と均の出会いであった。

菊栄はこの頃、津田から姉を通してコロンビア大学から奨学金をうけられるよう推薦してもいいという話をもらっていた。姉からも背中を押されるが、菊栄は研究したいのは社会主義であり、アメリカにいるより日本のほうが有利かもしれないとこの話を断るのだが、これが均と出会った後のことだと考えるとほんとにそんな理由だったのかといぶかってもしまう。この話に触れた直後に、自宅に均が原稿の依頼に初めて自宅にやって来たことを書いている。菊栄と均は間もなく結婚することになる。

この新婚家庭の最初の客は千葉の百姓だった。均が千葉監獄時代に知り合った、根はまじめだが約束していた女に裏切られて事に及んだ元放火犯である。均のことを気に入り獄中ではいろいろ目にかけてくれていて、結婚の知らせを聞いて売文社に祝いにきたのを家に連れて帰ったのだった。それから数日して、野枝がくだもの籠を持って現れ、これから大杉と旅行に行くのでとすぐに帰った。さらにこの数日後、大杉が神近に刺されるのであった。この件について、菊栄は、「私の見た限りでは、あの妙な事件は、大杉氏に魅力がありすぎたのではなく、金がなさすぎたからのことにすぎなかったと思うのです」としている。

しかし菊栄と大杉の関係が悪かったわけではない。新婚間もない菊栄は肺を病み、田舎で療養生活を送ることになる。さらに妊娠がわかり、医師は中絶を勧めるが、夫婦は危険をおかして出産を決意し、一人息子振作をもうける。売文社の給料では立ち行かなくなり、均も田舎に引っ込んで鳥の飼育や農業を始める。
その年の暮れにはマコを連れて大杉と野枝が年末年始を過ごした。ロシア革命についてなどについても話し合ったが、年が明けると大杉一家の三人は「また陽気に笑いさざめきながら帰って」いった。山川家のお手伝いは野枝を「おもしろい奥様ですね、私あんな方はじめて見ました」と、こちらも笑いころげていたそうだ。
また山川が再び逮捕されたときも、大杉はふらりと現れ菊栄を見舞っている。


1923年9月1日、気持ちの悪い生ぬるい風が吹いており、均は「こんな日に外へ出るもんじゃない」と冗談を言ったが、菊栄は息子と岡山から送られてきた白桃を母などに届けに出かけた。昼にレストランに入り、振作が好物のチキンライスを食べようとした瞬間に大きな揺れが起こる。家にいたらそのまま潰されていたかもしれず、後に毎年送られて来るくるこの桃を「命びろいの桃」と呼ぶことになる。ほうほうのていで家に戻ると、在郷軍人風の男が朝鮮人が迫ってくるぞ、避難しろとふれまわっていた。

3日になり大火事がおさまると、「鮮人」狩りと「主義者」狩りが吹き荒れた。山川家を尾行していた若い刑事は家がつぶれた時もよく働いて均も感心していたが、この刑事が4日になってまた現れ、世間が非常に殺気立っている、山川を出せ、山川の住所を教えろとうるさい、わからないと言ってあるが何があるかわからないので一刻も早くよそへ行ってくれ、と真剣な顔で繰返した。
警察が追い出したがっているのかと半信半疑だったが、知人を頼って避難することにした。二手に別れ、菊栄と振作は高橋亀吉の家に世話になった。この頃には普通の姿では外を歩けず、避難民でなくともそのような恰好していなければ自警団に取り囲まれるようになっていた。自警団の若者たちの持つ抜き身が、ちょうちんの火影にチラチラしていた。
この若い刑事がいなければ、山川一家は大杉らと同じように虐殺されていたかもしれない。

新婚間もない菊栄が療養のために鎌倉に移ったとき、身の回りの世話をしてくれたのが村木源次郎だった。
この「大人と子供のあいのこ」のようないつもニコニコ笑っている青年は、革命歌をうたいながら掃除をし、料理も得意、「親切な人で、子供や年寄り、病人の世話はお手のもので、誰にも親しまれ、どこでも重宝がられていた」。
村木は職も家もない「天成の風来坊」で、「ゆくさきざきをわが家とし、誰でも彼に一宿一飯を惜しまず、電車賃タバコ銭には事欠かず、季節の変わりめには誰かしら、そのときどきのきものを着せてくれるので、いつも小ざっぱりとして貧乏くさくなく、しかしちょうどいいあり合わせがないと、私と同年でありながらあのツンツルテンの紺がすりの筒袖のような、十五、六歳の少年の着物でも平気で着て歩くような人」だった。
この村木は大杉虐殺の復讐を試みるが逮捕され、獄中で肺患が悪化し死去するのであった。


時代は厳しさを増していく。執筆は禁じられ、山川はうずらの卵の生産などで糊口をしのぐことになう。人民戦線事件で山川が検挙された後、刑事がやってきて、数字がぎっしりと書き込まれたノートを発見して菊栄を問い詰める。しかしこれは単なるうずらの産卵表であった。刑事は苦笑いをして、「山川さんは実に綿密なんですね。だがこれでは商売になりますまいね」と言った。

実際山川は商売は苦手で、その後も毛皮用にとイタチや狸の養殖が流行りだすとすぐに手を出そうとするのだが(まさに取らぬ狸の皮算用)、「山川は、自分では生活のために考えている気でも、実は動物を飼うことそれ自体も好きなら、とりわけ珍しいものがほしいたち」だった。これらはあくまでペットではなく家畜だったので、「動物好き」としていいのかは微妙だが、均も菊栄も野良仕事を含めこういった生活が苦にならない性質ではあったのだろう。

うずらを飼いはじめると、近所の子どもが巣から落ちたカラスの雛などを次々と持ち込むようになる。犬などのペットも増えていったが、均が獄中にあり、振作も東大に入学し週末しか来られなくなると、手放さなくてはならなくなる。カラスは人気者となり、松竹映画にも出演したほどの「名優」であったが、畑のタネをほじくったということで空気銃で撃たれてしまったというエピソードは、かろうじて残っていた牧歌性の完全なる消滅を暗示しているかのようだ。

一匹だけ残ったのは「学者犬」という綽名をちょうだいするほど頭のいいマルだった。このマルは菊栄が差し入れのために東京へ向かうときには跡をついていこうとはせずに、門のそばに坐って見送り、菊栄が夕方に帰ってくるとそこでじっと待っていた。獄中の均はこの話をきくと、そのいじらしさに涙をこぼした。

1945年、相模湾に米軍が上陸予定だとの話が広まり、妻が10月に出産予定だった振作の頼みで、夫婦は均の従妹のいる広島県国府村に先に疎開する(均はすでに保釈されていた)。広島県の穀倉とされたこの地域でも食糧難は深刻で、おまけに従妹は平和な村に「国賊」を入れたと周囲から白眼視されてしまった。

8月6日、この地域からも勤労奉仕などで多くの人が広島市に行っており、原爆の被害者は多かった。無事に帰ってきたと喜ばれた人々が、間もなく苦しみぬいて死ぬという光景のなか、終戦を迎える。9月には上告中であった山川は東京へ向かう。菊栄はあとしまつをしてから帰るつもりが、地元では原爆のせいだとされた長雨のせいで大洪水が起こり、この村だけで60人以上が死亡した。孫の出産のために用意していた服なども全て水浸しになってしまい、その洗濯に一月余りかかってしまう。10月末に菊栄がようやく藤沢に戻る前日、初孫が生まれていた。
これらを見届けるようにして、千世は1947年、90歳でその生涯を閉じるのであった。


山川均の伝記も出たし、こちらもそのうちに。





プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
カテゴリ
twitter
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR