『ムーミンの生みの親、トーベ・ヤンソン』

トゥーラ・カルヤライネン著 『ムーミンの生みの親、トーベ・ヤンソン』




トーベ・ヤンソンといえば、本書の邦題にもあるようにムーミの作者という印象が強いだろう。いや、印象が強いというよりも、そのイメージしかないという人も多いかもしれない。しかしヤンソンは職業を尋ねられると「画家」と答えていたという。
著者はもともとヤンソンの伝記を書くつもりではなく、第二次大戦下のフィンランド美術史についての研究が膨らんで、この伝記となったようだ。あの愛らしいムーミンの造形はヤンソンによって生み出されたものだが、それ以外にも優れた絵画を残している、紛れも無い画家でもあった。
フィンランド人の著者の手による本書は、ムーミンの誕生や世界的な成功についても詳述されているとともに、ヤンソンの芸術家としての全体像を捉えた伝記となっており、多数収録されている図版を見るだけでもヤンソンの画家としてのキャリアがどのようなものであったのかを追うことができる。


ヤンソンの父はスウェーデン語系のフィンランド人、母はスウェーデン人であった。本書でも繰り返し言及されているようにムーミンが世界的な成功を収めた後もフィンランドではなぜか冷遇され続けたのであるが、北欧の歴史もなかなか複雑なもので、あるいはこのあたりの事情も関係しているのかもしれない。
父は彫刻家で母も芸術を学び、二人はパリで出会い、そこでトーベを身ごもる。トーベが生まれたのは1914年、つまり第一次世界大戦が始まった年だった。

北欧というとリベラルで先進的というイメージを持っている人も多いかもしれないが、当時のフィンランドは極めて保守的な国であった。女性が男性に尽くすのは当然のこととされ、従属的に扱われ、抑圧されていた。トーベは父を残し、母を連れて外国に移住することを真剣に考えたこともあるように、母親が自身のキャリアを追及できずに父に従うというのはいろいろと考えるところもあったことだろう。さらにこの父娘は政治的にも対立することとなる。父はユダヤ人嫌いの保守派のナショナリストであったが、トーベの若い頃の友人のほとんどが左翼的な人で、その中にはユダヤ人もいた。そればかりでなく、父は彫刻家として大きな成功を収めたわけではなく、経済状態も厳しいもので、そのフラストレーションもあったことだろう。一時は父と一緒にいるだけでトーべが嘔吐してしまうほど二人の関係は悪化し、一家の友人から別居を勧められるような状態であったが、それでも決定的な断絶にはいたらなかった。

両親はその経済状態にも関わらず、トーベが美術を学ぶことを支援し続けたし、娘が画家としてのキャリアを歩みだすと、芸術家同士としての結びつきも生じていたようだ。トーベは自ら画家となることを選ぶ。これはトーベの言うように自分に立体芸術への素養が欠けていたためなのか、それとも父と同じ道を歩むことを避けた結果だったのかはわからないが、父娘が全く同じ道を歩まなかったのは二人の関係にとってはよかったのかもしれない。

母は挿絵画家としても活躍していたが、トーベも早くから母と同じ仕事を行うようになる。経済的事情もあって早く稼げるこの仕事をしなくてはならなかったということもあるが、トーベはこの分野でも才能があった。常にユーモアを忘れず、またスターリンのソ連とヒトラーのドイツに挟まれ、両者への批判を控える空気が生じても臆することなくソ連やナチスをネタに揶揄する絵を描き続けた。
すでに述べたようにトーベの友人には左翼が多かったが、トーベ自身は左翼的であるというよりは自由主義的といった方が正確かもしれない。スターリンのそれであろうがヒトラーのそれであろうが全体主義的なものには我慢がならず、絵筆でそれらと戦い続ける覚悟があった。

しかしまた、政治と向き合うと疲弊する感覚に襲われもしたことも事実だろう。1930年代からヤンソンは署名代わりなどに絵の端に不思議な生き物を描くようになっていたが、これを物語化して生まれたのがムーミントロールであった。初期の作品には空襲や貧困といったヤンソンの直接の戦争体験、さらに原爆のもたらす終末的イメージなどが反響しているが、同時にまたムーミン谷の物語は政治からの逃避の物語でもあった。

ヤンソンは戦後も左派的な友人と引き続き交遊を持ち続けたが、自身が政治に深く関わることはなかった。ムーミンは左派から、ムーミンパパの発言の封建制性やそのブルジョワ的雰囲気、そして政治からの逃避が批判をされることになるが、これは容易に想像がつくだろう。面白かったのは左派以外からの反応だ。大人の読むものと子どもの読むものとをはっきりと区別すべきだという立場の人からは、大人も読むことができるという、現在なら肯定的に使われるであろう言葉でムーミンを批判した。これでは大人が読むべきものなのか子どもが読むべきものなのかわからず、そんな本を子どもに読ますとは何事かと怒ったのである。そして保守派は、キャラクターたちの飲酒や喫煙、そして言葉使いの悪さが非教育的であるとして批判した。現在ならむしろ子ども向けの情操教育として使われそうな作品であるが、当時はモラルの破壊だと受け止める人がいたのであった(さすがに保守派もムーミンパパの全裸にシルクハットというファッションのクィア性を批判したりはしなかったようだが……)。

ムーミンは世界的に注目を浴びるようになっていくが、その理由の一つにキャラクター展開があるだろう。そのお話の内容を知らなくとも、キャラクターの愛らしさは抜群であるし、広告業界などではそれを商売に使わぬ手はないと映ったことだろう。このようなキャラクターの生みの親は、商業化されることを嫌ったり、アニメ化のように命を吹き込まれることに抵抗を覚える人も多いのだが、ヤンソンは必ずしもそうではなかったようだ。まず行われた演劇化にあたっては自ら脚本を手がけ、長期に渡って関わり続けた。そしてこれが後のアニメ化にもつながっていくこととなる。これはあるいは、ヤンソンがあくまで自分の本職は画家であるという意識が強かったが故に、副業には寛大であった可能性もあるかもしれない。

ヤンソンは戦後、壁画なども手がけ評価されるが、しかし経済的には依然として厳しい状況が続いていた。そんなヤンソンにとって、ムーミンがもたらしてくれる安定した収入は魅力だった。フィンランドの新聞はまったく興味を示さなかったが、他の国では関心を集め、新聞にコマ漫画の連載も始め、ついにイギリスのイブニング・ニュースと七年間の契約を結ぶことになる。内容は基本的には自由だが、性や死や政治に関する描写など禁止事項もあった。ヤンソンは普遍的な人間の姿を描こうとしているので政治に口を挟むことはないとし、また「ムーミンの体型ではもともとエロティックな描写など難しい」とユーモアを交えて答えたそうだ。

しかし漫画の連載は次第にヤンソンの負担になっていき、契約を更新することはなかった。またある新聞がヤンソンについて、「ムーミンママは、本当は画家だった」という見出しの記事を掲載するなど、ヤンソンといえばムーミンというイメージの固定化や、ムーミン(産業)の肥大化には複雑な思いも生じていたことだろう。コナン・ドイルがホームズを殺そうとしたほどではないが、ヤンソンは比較的早くにムーミン一家の物語を終え、ムーミン一家不在のムーミン谷を描き、その後は執筆は小説などに移行していくことになる。


またヤンソンといえばセクシャリティについても関心が集まることだろう。ヤンソンは若い頃には男性との恋愛を数多く経験している。時代は戦争へと向かっていく。ヤンソンの恋人は芸術関係者や左翼が多く、時代に抵抗するとともに理想に燃えていた。こういった人がヤンソンと距離ができてしまうのはしょうがないことなのかもしれない。長く継続した恋愛は少なかったが、しかし別れた恋人とその後友人関係が続いたことも多かった。
ヤンソンが書き残していないだけなのか実際にそうであったのかはわからないが、ヤンソン自身にはセクシャリティをめぐる葛藤に苛まれたということはなかったようだ。男性との恋愛に違和感が生じ、女性と付き合うようになるが、このこと自体にもがき苦しんだ経験は綴られていない。むしろ問題は内面的なものよりも社会との関係であった。保守的であったフィンランドでは同性愛が受け入れられることはなかった。迫害とまではいかないが、様々な嫌がらせを受けることともなる。

ヤンソンは1955年にトゥーリッキ・ピエティラと出会い、生涯生活を伴にすることになる。二人の関係を隠すことはなく、公然たるものであった。保守的なスキャンダル新聞ですら、これをセンセーショナルに書き立てることはないほど周知のこととなる。しかし、レズビアンであることについて積極的に語ることもなかった。事実上「カムアウト」していたのと同時に、「クローゼット」の中にとどまり続けたとも解釈できる。

ヤンソンの作品を精神分析的に解説したある博士論文に全面的に協力したことがあった。この論文の執筆者はヤンソンの従姉妹のパートナーで、この従姉妹は自分がレズビアンであると自覚したとき、「トーベを強力な擁護者として求めた」。この従姉妹を支援する意味合いもあったのだろう。
このようにヤンソンはレズビアンであることを否認することはなく、またこのように同じセクシャリティを持つ人を支援もしたが、また自身のセクシャリティについて積極的に語ることもなかった。これはもちろん時代状況もあっただろうか、また私生活を大切にしたいという面もあったことだろう。
トゥーリッキとは小さな島で平穏な生活を営み、またムーミンの世界的な成功も拒絶することなく受け入れ、その生涯を閉じた。


僕はムーミンについてほとんど知らなかったもので本書で初めて知ったのだが、ミムラは「スナフキンの父と出会ったときには複数の夫との間に約二〇人の子どもがいた。そのうちのひとりがミイである。ミムラ夫人は自分が大好きで、いつも楽しげだ。人生を楽しみ、満足し、寝たいときに寝て、起きなければならないときに起きる、それが彼女なのだ」とのことである。これはヤンソンの人生についての態度なのかもしれない。

「なにがすてきだといったって、たのしくすごすことぐらいすてきなことは、ほかにないし、また、わけないこともないんです」。


ムーミンといえばヤンソンの原作よりもアニメに親しんでいるという人も多いだろう。本書でも日本でのムーミンのアニメ化についても触れられている。最初のアニメ化は日本国内では人気を博したものの、ヤンソンはこれを国際的に配給することを禁じた。「ムーミンパパがムーミントロールに体罰を与えたり、ムーミン谷で戦争が起こったりと非暴力を尊ぶムーミン谷の哲学に反していたからである」。
ヤンソンはこのアニメシリーズに失望したが、日本での二度目のアニメ化を受け入れ、その際にフィンランドの子ども番組のプロデューサーで日本人とも仕事をしたことのあるデニス・リプソンをコンサルタントとして日本に送り込み、ヤンソン自身も監修した。テレビシリーズのみならず『ムーミン谷の彗星』のように映画版も製作される。今回はヤンソンも満足のいくものとなり、「世界中の多くの人々は、小説ではなく、日本のアニメシリーズやその登場人物を見てムーミン一家を知ることになった」。

僕自身は日本での最初のアニメ化のときには生まれていなくて、新版のときにはもう大きくなっていたのでこれを見ることはなかったもので、どちらが好みということもないのだが、あの主題歌とともにムーミンというの声というとまず岸田今日子が浮かんでしまう。ヤンソンの意向はわかるけれど、最初のアニメ版のほうにすっかり馴染んでいるので新版はどうもなぁなんて人は今でもいるのかもしれない。
もちろんムーミンがアニメ化、あるいは人形劇化されたのは日本に限ったことではないので、日本の新旧版の比較だけでなく、世界中のムーミンの映像化の比較なんてことをしてみるのもまた面白いのだろう。


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佐藤太郎(仮)

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