『カント先生の散歩』

池内紀著 『カント先生の散歩』




本書はコンパクトで肩の凝らないカントの伝記である。最大の特徴は、その「批判三部作」に代表される哲学者としてよりも生活者カントに焦点をあてていることだろう。といっても哲学的業績を無視しているのではなく、カントといえば難解なイメージが強いだろうが、著者も訳した『永遠平和のために』がなぜ、いかにして生み出されたのかを、平易に描くというのが最大のテーマであったのだろうし、そのために生活者カントを描かねばならなかったのだろう。


カントというと毎日決まりきった生活をし、同じ時刻に同じコースを散歩する姿を見て町の人が時計の針を合わせたという逸話は有名である。これを聞くと、カントは浮世離れした変人か、あるいは味気ない世捨て人のような無味乾燥な生涯を送ったように思えてしまうかもしれないが、実態は大分違ったようだ。カントには座談の才があり、友人や有力者と毎日のように食事の席を共にし、そしてそれを哲学にも生かしていたのである。

中でも特別な存在だったのがイギリス出身の商人グリーンである。カントは生まれ故郷を離れることはなかったが、旅行記が好きで読みふけり、ロンドンなどをまるで自分がそこを訪ねたことがあるかのように話したそうだが、読書から得られる知識だけではなく、世界をまたにかけるグリーンによって世界情勢を入手していたのである。グリーンとの刺激に満ちた会話はカントの哲学にも影響を与えたことだろう。

このグリーンは相当の変わり者でもあった。カントとグリーンは朝の八時に待ち合わせて馬車で遠出する約束をしたが、カントが少し遅れるとグリーンは待たずに出発。カントが手を振って止まれと合図をしても構わず通り過ぎてしまったということがあった。「定刻をズラすなどは主人の習慣になかったからである」。
このことからもわかるように、カントの逸話として伝わっているものにはこのグリーンのエピソードもまじっているようだ。そもそもカントがあそこまで几帳面な生活を始めたのにはグリーンの影響もあったことだろう。

本書で一番好きなエピソードにはこんなものがある。
グリーンが通風を病んで外出できなかったころの話。カントはいつものようにグリーンの家を訪ねると、グリーンは肘掛け椅子で寝入っていた。するとカントは、「そっとかたわらの椅子にすわり、友人をながめつつ自分もうたた寝に入った。つぎにおしゃべり仲間の銀行頭取がやってきて、眠り込んだ二人と同じ経緯をたどった。そのあと、ほぼきまった時刻にもう一人の友人がやってきて三人に声をかけ、それからにぎやかな談話になった」(p.79)。

カントが帰らずに、親友を起こしもせずそのまま一緒に寝てしまうところもいいし、決まった時刻にやってくる友人に起こされ、いつものように、にぎやかな談話になるところもいい。

カントの資産を運用し裕福にしてくれたのもこのグリーンであるが、これだけ馬が合った友人をカントは先に失うことになる。そして代わってその役割を果たした「東プロシア政庁高官にして、より抜きの知識人」ゴッドリープ・フォン・ヒッペルもカントより先に亡くなる。もちろん友人を失ったという心の痛手も大きかったことだろうが、刺激ある対話相手を失うというのは哲学的思考をするうえでも損失であった。
カントが、ついには訪ねてきた妹すら認識できない状態にまでなって亡くなるのはなんとも痛ましい。


「カントには、ひたすら思索の塔にこもっていた哲学者のイメージがあるが、まるきりちがうことがわかるだろう。理不尽な権力や迷妄に対して果敢に闘ったし、その際、あざやかな戦術でもって成果をあげた」(p.136)。

そのカントが、戦争の頻発した時代に『永遠平和のために』を書いたのは当然のことであっただろう。
「その並はずれた特徴は、二百年以上も前に生まれたものでありながら、おそろしく現代的であるということだ。たとえばカントは「行動派を自称する政治家」について論じているが、実践を誇りつつ彼らが考えていることは「現在支配している権力に寄り添い」、そして「自分の利益を失わない」ことだけ。そのためには国民を犠牲にするのも厭わない」(p.143)。

そしてその「信条は、つぎの三点にまとめられるという」。 

1 まず実行、そののちに正当化。
2 過ちとわかれば責任を転嫁。
3 ライバル同士を離反させて支配。

「直ちに身近なあの政治家、この政治屋が浮かんでくるだろう。カントは「のんきな夢をみている哲学者」を装いながら、おそろしくリアルに権力者をながめ、その典型をあざやかに書きとめた」(p.144)。

時代はたびたびこの小さな本を必要とし、節目ごとに再版されていった。「最後の「付録」に付された最終の一行は次のとおり」。

「永遠平和は空虚な理念ではなく、われわれに課された使命である」



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佐藤太郎(仮)

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