リチャード・ヘル自伝

リチャード・ヘル著 I Dreamed I Was a Very Clean Tramp




ニューヨーク・パンクの最重要人物の一人、リチャード・ヘルの自伝。生い立ちから80年代半ばまでが比較的オーソドックスに綴られている。ヘルのキャリアやテレヴィジョン、パンクに興味がある人はもちろんだが、70年代のニューヨークを中心とした芸術家志望のボヘミアン的生活の記録としても面白く読めるだろう。

(邦訳が出るのは厳しいかなあということで手に取ったが、いい加減に読んだところもあるので以下間違ってたらごめんなさい)


後にリチャード・ヘルを名乗るリチャード・マイヤーズは1949年、ケンタッキー州レキシントンで生まれた。両親はコロンビア大学で出会い、父は博士号を取ってケンタッキー大学で教鞭を取るため同地に引っ越してきた。母は家庭に入るために学業を中断したが、夫の死後に博士号を取り、ヴァージニア州の大学で教えることになる。

カウボーイに憧れ家出がお気に入りだったように、頭のキレるやんちゃな少年として育つ。8歳の時に父が急死するが、リチャードは父が死んだのではなく、ただいなくなったのだと考えるようにした。父の死はそれほど大きな心理的影響を与えたようには書いていないが、自伝のタイトル(直訳すると「自分がとてもきれいな放浪者だった夢を見た」といったところか)はこの年に書いた「家出少年」という作文から取られている。家出計画と父をめぐるこの作文を読むと、この出来事がその後の人生に少なからぬ影響を与えたことを示唆しているようでもある。

こういった少年が往々にしてそうなるように、リチャードも次第に学校になじめなくなり成績は急降下、デラウェア州に越しても素行は改まらず、警察沙汰も起こして奨学金を打ち切られる。祖母が学費を出してくれることになり、見つけてきた高校に転校する。ここでも相変わらずのリチャードであったが、ここでトム・ミラーという内気で変わり者の男と出会う。UFOや陰謀論や神秘主義といった話題を好むトムとは、学校のアウトサイダー同士として親友となる。

二人はヒッチハイクでフロリダを目指す旅に出るが、アラバマ州で車がつかまらないどころか、からかわれるような仕打ちを受ける。野宿することに決め火を炊くが、苛立ちもつのって野に火を放つ。気がつけば警察に包囲されており二週間の拘留、高校は退学処分となってしまう。トムは別の学校に通うことにしたが、リチャードはすぐにでも家を出てニューヨークに向かいたかった。しかし母は家を出たら警察に通報すると言い出す。そこで高校に通いながら100ドル稼いだら家を出てもいいかと訊くと、それで納得してくれた。怠け者のリチャードがそんなことできるわけないと思ったのだ。ところがリチャードはそれをやってのけ、ニューヨークへと出発する。ディラン・トーマスなどの詩を濫読していたリチャードは、詩こそがチケットなのだと思えた。


とはいえ事がとんとん拍子に進むはずもなく、本屋などで働きながら雑誌を作るという、貧乏生活を送ることになる。やがてトムもニューヨークへやって来て、二人の友情は再開した。

1972年にリチャードはバンドを始めることを思いつく。ロックを始めれば、歌、衣装、ステージ、髪型、名前、ポスター、インタビューと、様々な表現が可能になるではないか。リチャードは楽器ができないのが不安だったが、トムはリチャードが好きなこの手の音楽ならベースを弾けるようになるのは簡単だと言った。フリージャズのファンでもあったトムはアコースティックギターでフォーキーな歌を作っていたが、プライドの高い彼はそれをなかなか発表しようとはしなかった。リチャードはエレキに持ち替え二人で組もう説得した。こうしてネオン・ボーイズが誕生する。二人の音楽的嗜好の差はすでにこのころからあり、トムはリチャードの贔屓だったニューヨーク・ドールズをあまり気に入らず、ジョナサン・リッチマンの方を高く評価していた。
トムの友人のビリー・フィッカをデラウェアからドラマーとして呼び寄せ、セカンド・ギターを探し始め、「ナルシスティックなリズム・ギター求む――わずかな才能でも可」という広告を出す。これを見て後にラモーンズのディー・ディー・ラモーンとなるダグ・コルヴィンや、ブロンディのソングライターとなるクリス・スタインなどがトムのアパートに現れるが、採用には至らなかった。

バンドを始めたとはいえリチャードとトムはフルタイムで働いており、フィッカはトムのアパートに居候していたが金もなくやれることもないので一旦帰ることにし、その前にせっかくだからと数曲レコーディングをした。



リチャードはこの頃髪を短く切ってツンツン尖らせる髪型に服を切り裂いて安全ピンで止めるというファッションを始めるようになる。後にマルコム・マクラーレンによってセックス・ピストルズに導入されパンク・ファッションの代名詞ともなるあれである。
ちなみに髪型はランボーなどを参考にしたと言われていて、リチャードもインタビューでそう答えたこともあった。また『大人は判ってくれない』のジャン=ピエール・レオからもインスピレーションを得たともされるが、これらは後になって気付いたことだとしている。もっとも影響があったかどうかなんて誰にわかるか、ともしているが。また恋人が怒って服を切り裂いたが新しいのを買う金がなかったために安全ピンで止めたというのは完全な都市伝説で、そんなことなど起こらなかったとしている。

それにしてもリチャード・マイヤーズにトム・ミラーとはなんと平凡な名前か。ということで芸名を考えることにし、リチャードはすぐにヘルに決める。トムはいくつかの候補からヴァーレインを選んだ。こうして二人はリチャード・ヘルとトム・ヴァーレインとなる。
このようにいろいろとアイデアはあったのだろうが、結局セカンド・ギタリストも見つからずバンド活動は休止状態となる。


ヘルはシネマビリアで働き始めることになる。映画については何も知らなかったが、ここで勉強し、コロンビア大学生のレポートの代筆までしたそうだ。ここにはテリー・オークというヌーヴェル・ヴァーグに精通している男も働いていた。このオークこそがバンドのスポンサーとなりマネージャーになる。

オークはギタリストのリチャード・ロイドを見つけてきて、フィッカもニューヨークに戻って四人組でバンドは再開する。新しい名前としてヘルは候補のリストを作り、その中にテレヴィジョンがあった。ヴァーレインは珍しくそれを気に入り、他のメンバーもOKを出した。トム・ヴァーレインのイニシャルがTVであることに気付いたのは後のことだったとしている。

これは本書で初めて知ったが、ヴァーレインは双子の兄弟をオーヴァードーズで亡くしており、そのせいでハードドラッグには手をださなかったそうだ。ヘルはたいてい酔ってリハーサルに現れた。リチャード・ロイドもいつでも酔っ払っていてドラッグも使っていた。ヴァーレインとフィッカはストレートで、ロイドはそうではなかった。後にテレヴィジョン解散の原因としてロイドのドラッグ使用があげられることがあるし、あるいは単にロイドがウザくなっただけとされることもある。ヴァーレインはバンド解散後にソロと言いつつもロイド抜きのテレヴィジョンのような形で再出発するが、ヴァーレインの心中にもいろいろあったのかもしれない。ヘルはといえば十代の頃からある種の人にはおなじみの咳止めシロップの盗難を始めるなどドラッグとの関わりは深く、これは後に影を落とすことになる。

オークは自分のロフトでバンドの練習をさせ、その様子を有名人にも見せていた。そのためポスターにはそのコメントを使うことができたが、その中には『理由なき反抗』などを撮った映画監督のニコラス・レイもいた。『ニコラス・レイ ある反逆者の肖像』を読んだ時に、レイがテレヴィジョンを見ていたと書いてあって驚いたが、オークが映画界のツテを使ってロフトに呼んで、それで気に入ったということだったのかもしれない。



定期的にステージに立てる場所を探し、CBGBを見つけ出す。このあたりの経緯については記憶が定かではないような書き方をしているが、CBGBがあのような場になるとはこの時は想像もつかなかっただろうからそれも無理はないだろう。

テレヴィジョンはCBGBに定期的に出演するようになり、すぐに注目を集めだす。ヘルはパティ・スミスを最初に知ったのがいつのことだったのかはっきりと憶えていないようだが、70年代前半にはレニー・ケイと組んでのポエトリーリーディングをすでに見ていた。ヘルは74年にはパティが詩集を出すのを手伝っている。その縁でパティはCBGBでテレヴィジョンを見に来るとたちまち惹かれ、絶賛する評論を書き、ヴァーレインと恋人となる。ヘルは二人のキューピッドだったのかもしれないが、皮肉なことに、二人の関係が深まることはヘルとヴァーレインとの間の距離が広がるということでもあった。元々音楽的嗜好に違いがあったうえに、長年ギターを弾いてきたヴァーレインに対しヘルのベースはドシロウト。ヴァーレインはヘルをバカ扱いするかのような時もあり、ぐっとこらえてきたが鬱積するものもあった。溝はどんどん深まり、ヴァーレインはヘルにステージで動き回るなと言い、セットリストからヘルの曲を消していく。75年にブライアン・イーノのプロデュースでデモを録ることが決まるが、ヴァーレインはヘルの曲を一曲も選ばなかった。



こうしてヘルはバンドを去ることを決める。そしてニューヨーク・ドールズを脱退したばかりのジョニー・サンダースとジェリー・ノーランが作る新しいバンド、ハートブレイカーズに誘われるのであった。

マルコム・マクラーレンはドールズのマネージャー時代からヘルを評価し、テレヴィジョンを脱退して組まないかと持ちかけたこともあった。マクラーレンはヘルがハートブレイカーズに加わることを知ると、これが時間の無駄になるのではないかと恐れ、ヘルがジャンキーになってしまうことを心配したそうだ。まあ確かにジャンキーだらけのバンドであるが、これは不気味な予言であったのかもしれない。

ヘルがハートブレイカーズを脱退したことについては、ジョニー・サンダースと両雄並び立たずといった言い方がされることがあるが、ヘルはサンダースへのリスペクトは強いし、人間としても好きだったとしている。ただサンダースやノーランがやろうとしていたのはあくまでパーティであり、目指すものが違っていたということだったらしい。



そこでヘルは昔からの知合いであったロバート・クワインをギタリストに向かえヴォイドイズを結成することになる。クワインというのもかなり個性的な人で、ヘルが書く様々なエピソードも面白いし、いつかきちんとした伝記が書かれてほしい。その中で思わず笑ってしまうのにはこんなものがある。クワインはCBGBでレニー・ケイにハゲをいじられたことがあったようで、このことをずっと許すことはなかったという。今となってみれば30歳を越えたハゲたおっさんがパンクバンドでかっこいいギターを弾くというのは逆にイカしてるようにも思えるのだが、当人としてはキャリアにしろ容姿にしろいろいろとコンプレックスもあったのだろう。

ちなみにこの映画についてはヘルは大層不満で文句タラタラであるが、資料的価値は認めている。



76年の夏にブロンディのレコーディングを見に行くと、クリス・スタインがドイツだかフランスだかの音楽雑誌をパラパラとやっていて、「リチャード、これ見ろよ。お前にそっくりなのが4人も写ってるぜ」と声をかけてきた。そこに写っていたのはもちろんセックス・ピストルズ。記事にはマルコム・マクラーレンという文字があった。

モロにパクられたわけだが、ヘルは気分を害することはなく、そればかりか「マルコムはほんとに俺をやりやがったな」と笑い、これをむしろチャンスだと捉えた。
このヘルの予感の通り、ヴォイドイズは高い期待を集めイギリスなどでのツアーも行うようになるが、しかしヘルはドラッグへとのめりこんでいくのである。

70年代後半から80年代前半にかけて、ジャンキーとなってしまったヘルは非常に混乱した生活を送ることになる。この自伝はヘルがヨーロッパからニューヨークへ戻り、ドラッグを断ち音楽をやめるところで幕を降ろすことになる(その後にさらにディム・スターで引っ張り出されたりとかするのだが、その頃については書かれていない)。

この表情と話し方で当時どういう状態だったかは想像がつくだろう。



これで終わればそれなりにきれいにまとめたということになったのかもしれない。しかしエピローグを読むと、これをどう受け止めたらいいものかという気分になってしまった。ある場所で偶然にもヴァーレインと出会い、7,8年ぶりに会話を交わしたエピソードが書かれている。ヘルは改めて、たとえ疎遠になろうがヴァーレインとの間の特別な絆を再確認しているのだが、しかしここだけを読むとヴァーレインは発狂でもしているかのようにも見えてしまうし、外見の描写にしても悪意が滲み出ているかのようでもある。この自伝でヴァーレインに対して恨み節を連ね続けたわけではないが、ここを読むとやはり特別な関係であるからこそ、引きずっているのだろうなあということも思わせてしまうかのような結びとなっている。

父のエピソードやこのエピローグを読むと、果たしてヘルがどれだけ率直にこの自伝を書いたのかということを疑う気持ちが芽生えなくもない。本書で描かれるヘルの姿は、幼少期から一貫してヘルのパブリック・イメージに添うもので、興味深いエピソードは多いとはいえ意外なものはほとんどない。あくまでリチャード・マイヤーズではなくリチャード・ヘルとして自伝を書いたのだとも考えてしまうが、一方で幼少期の写真を見ると、あの顔立ちが幼い頃にすでにできあがっていることに気付かされる。つまりヘルはヘルになる前からヘルであり、演技性も含めてこれこそがヘルであり、そういう点では非常に率直な自伝としてもいいのかもしれない。


そして言うまでもなく、自伝というものはありのままの真実を描いたものだと無批判に受け取るべきではない。当事者たちへのインタビューを重ねた『ルーツ・オブNYパンク』とう本を引っ張り出してきて少し読み返してみたのだが、ここでは当人たちが大分違う証言をしている部分もある。例えばクリス・ステインへのオーディションは、ヘルがここで書いたものとは大分異なっている。

同書によると、ヴァーレインを名乗る前のトム・ミラーはリチャードのベースの下手さに呆れ、この時点ですでにセカンド・ギタリストのみならずベーシストも探していたようなのだ。ヘルはクリスが募集広告を見てやって来たと書いているが、『ルーツ・オブNYパンク』でのインタビューではクリスはヴァーレインが「誰かベース・プレイヤーを知らないか」と電話をかけてきたとしている。つまりセカンド・ギタリストどころかベーシストとして誘われていたということだったのかもしれない。一方でヴァーレインはクリスがオーディションでギター弾いて、演奏力は充分だったがクリスがネオン・ボーイズの音楽性を嫌がったとし、「それでヘルがベースをやってみることになり、ネオン・ボーイズが生まれたんだ」としている。微妙な言い方だが、クリスがバンドの加入を承知していたらヘルはベースを担当していないと言っているようにも聞こえる。

ちなみにクリスはヴァーレインのことを「物笑いの種にしていたんだ」と言っている。「というのも、NYに来たばかりの頃のヴァーレインは肩まで届くような長髪で、アコースティック・ギターを弾いてはヒッピー・ソングをやってたからだよ。よくバカにしたもんだよ。彼は僕がベースをやれるかどうか知りたかったんだろうけど、その頃僕はデビーとバンドを作ったばかりだったから興味がわかなかったんだ」と、散々な言いようである。
ヘルもヴァーレインがフォークをやっていたことにはそれとなく触れてはいるが、「黒歴史」的な書き方はしていない。もちろんクリスが記憶を誇張している可能性も排除できないし、どちらの記憶が正しいのかはなんとも言えないが、同じ出来事でも人によって見え方が異なるという事例だろう。エピローグにはどこか悪意を感じてしまったが、ヘルがヴァーレインを恨みに思い続けているのなら長髪ヒッピー時代の彼をもっと辛辣に書くこともできたわけで、単なる悪意というよりも複雑な心理状態があのエピローグを書かせたとすべきなのだろう。十代で出会い、親友として十数年を過ごして、大きな成功の可能性を前にして袂を分かつというのは、そうたやすく整理できてしまう記憶ではないだろう。

それにしても、影で自分のことを物笑いの種にしていた人物をそうとは知らずにバンド入れようとしていたヴァーレインは、これを知った時どう思ったのだろう。
なにはともあれ、パティ・スミスの自伝第二段も刊行され、リチャード・ヘルもこうして書いたし、トム・ヴァーレイン、次はあなたですよと思うのだけれどね。お願いしますよ。



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佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
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