MONKEY vol.7

MONKEY vol.7




特集は「古典復活」。
村上春樹・柴田元幸による、絶版やその危機にある、あるいはそこから復活した翻訳小説をめぐる対談は、翻訳小説ファンにとっては非常に面白く読めるし、若い読者にはブックガイドとしても使えるだろう。なお新潮文庫から出る予定の『村上春樹・柴田元幸 新訳・復刊セレクション』の一環として行われたとのことだが、対談の行われた日付が一年前になっているのだけれどちゃんと刊行されるのだろうか。

注では橋本福夫についてふれられている。橋本は原著刊行の翌年の1952年に「サリンガー」の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を『危険な年齢』という邦題で刊行しており、その冒頭部分が引用されている。

橋本は「諸君がほんとうに僕の話を聞きたがっているとしても、諸君の知りたがるのは……」と「you」を「諸君」と訳している。ここだけを取り上げるとすさまじいものになっているかと思うかもしれないが、「最初の「諸君」はちょっとなあと思うけど、全体としては、しっかり声の定まった、いい訳じゃないでしょうか」とあるように、今読んでもそう違和感のないものになっているのはなかなかすごい。サリンジャーはやっぱり野崎孝訳という人も多いだろうが、橋本訳も読み比べてみると面白いのかもしれない。それにしても1952年、つまり昭和27年にこれを読んだ日本の読者はどんな反応を示したのだろうか。




村上・柴田両人による「復刊してほしい翻訳小説」が50作ずつあげられている。対談と合わせてみると、これが絶版なのかと嘆息してしまうものもあれば、不勉強ながら翻訳が出ているのを知らなかった作品や(『ヘンリー・アダムズの教育』って邦訳あったんですね)、存在そのものを知らなかった作品もある。
絶版になってはいても今でも古本屋でよく見かけるために絶版となっていることを意識しない作品もあるが、これが10年後、20年後もそうであろうか、と考えてしまう。僕が知らなかった作品でも、僕より年が上の読者にとっては古本屋でおなじみのものであったのかもしれない。逆に僕よりも若い読者にとっては、数十年後には僕が当たり前のように読んできた作品の存在自体を知らないということになるのかもしれない。ネットで古書が気軽に探せるようになったとはいえ、こういう出会いの場を確保するためにも店舗型の古書店というのも大事であるし、もちろん新刊書店で文学史に残るような作品から一部に偏愛されるような癖のある作品まで幅広く出会えるという環境は絶対に残しておかなければならない。
それにもちろん復刊もいいが、対談で言っていたジョン・チーヴァー傑作選とかも実現してほしい。




またこの対談では村上はカーソン・マッカラーズをかなり推しているのだが、昔はマッカラーズについて積極的に言及していたという印象はあまりない。近年になって評価をあげたということなのだろうか。『結婚式のメンバー』も訳すということだから結構入れ込んでいる。




訳者交換で、柴田訳でマッカーラーズの「無題」(というタイトルではなく、生前未発表なので文字通りに無題なのです)と村上訳のジャック・ロンドンの「病者クーラウ」も収録されている。

不勉強を告白しておくとマッカラーズは未読なのだが(昔に伝記は読んだ気がするのだが、ほとんど忘れてしまった)、この「無題」の雰囲気は結構好き。やはり南部の作家だなあと思わせるところも含め、二十歳そこそこでこれを書いたというのは技術的な部分でも驚きのようにも思えるし、むしろその若さが書かせたものという面もあるのかもしれない。

ロンドンの「病者クーラウ」は、1893年にハワイのカウアイ島で実際に起こったハンセン病患者の隔離政策に対する武装蜂起を扱ったもの。現在ではPC的には微妙な作品となっていることも否めないが、ロンドンが銃を持つのもままならなくなりながらも抵抗を試みるクーラウの姿に強いシンパシーを抱いていることは確かだ。そして村上の指摘している通り、この93年というのは「ハワイの王制がアメリカ人の手によって覆された年」でもある。もちろんロンドンは圧倒的な暴力によって追い立てられる人々のことを二重写しにしているのだろう。




川上未映子による村上春樹へのインタビューは『職業としての小説家』を補完するものになっているので、同書を興味深く読んだ人はこのインタビューも必読だろう。とりあえずこんな村上の発言を引用しておこう。

「三人称に移ったことで失われたものというのは、昔は自然だったけど、もう自然ではなくなってしまった、ある種の状況ですね。そういうものに対する懐かしさというのはある。でもそれが可能であった状況というのは、あくまで一回性のものなんです。『グレート・ギャツビー』は、基本的に一人称小説なんですよ。チャンドラーも一人称だし、『キャッチャー……』も一人称。僕はそういう一人称小説がもともと大好きなんだけど、そうした小説の書き手はみんな、あるところでそれを切り捨てているわけ。まあチャンドラーだけは別ですが、なにせあれはシリーズものだから、途中でスタイルを変えられない。だんだん三人称に移っていかざるを得ないというのは、物語が進化して、複合化・重層化していくことの宿命化みたいなものです。ただ僕自身は、正直言って、そのうちにまた一人称小説をまた書いてみよう、書きたいと思っています。そろそろ当たらし一人称の可能性みたいなのを試してみたいですね」。

また中上健二と対談で初めてきちんと話したことにも触れていて(村上のデビュー前に中上が店に来たことがあるというのは有名なエピソードだろう)、帰りに飲みに誘われたが断ったことを思い出し、「そのとき一緒に飲みにいってたらどんな話したんだろう、とか思いますね。ひょっとして殴り合いになったとか(笑)」と言っている。もし中上健二と村上春樹の間で殴り合いの喧嘩が起こっていたとしたら、まさに「文壇」的伝説の一幕となったのだろうが、村上としてはそういうのが嫌だからこそ文壇的付き合いを好まなかったのでもあろうが。




あと村上春樹関連では、スティーブ・エリクソンによる『風/ピンボール』の英訳の書評の日本語訳も収録されていて(ややこしい)、これについては前にこちらに書いた。




「カズオ・イシグロ自作を語る」もなかなか興味深い。
イシグロが翻訳されることを意識して作品を書いているというのは割りと知られているだろう。アメリカのポール・オースターかイギリスのイシグロか、と言われているかどうかは知らないが、いわゆる純文学の作家としては両者は(表面的には)非常に読みやすい。誰だか忘れてしまったが、イシグロの小説のストーリーがどれだけ魅力的であったにしても原文のあの文体を見ただけで読む気をなくす、というようなことを言っていた人がいたように思うが、確かに一見するとシンプルな文章は英語の滋味というのが欠けているようにも映りかねない。このあたりの葛藤についてはこの「自作を語る」でも触れている。

ここでの「デンマーク人問題」とは何かは読んでいただければと思うが、イシグロの「自国へ帰って、書斎で机に向かって次の作品を書きはじめると、やはり背後の闇にデンマーク人たちがいるのを意識してしまう」という言い方はなんだかおかしくて、これをモチーフに小説が書けてしまいそう。


イシグロは『忘れられた巨人』のプロモーションで来日したのだが、この作品は記憶をめぐるものであり、記憶というテーマはイシグロの得意とするものである。しかしこの作品では……といいたいところなのだが、すいません、まだ読んでません。




「個人は、あるいは国家は、どこまで自分をだますべきか?」という記憶をめぐる「埋められた巨人」(原題)というテーマは、イシグロが言うようにどこの国にも巨人が埋められているという点では普遍的なものであろうし、世界中でアクチュアルな問題となっているのだろう。そして何よりも近年の日本ではそれがグロテスクな形で表出してしまっている。

村上は川上とのインタビューで「小説家だから社会的発言をしなくてもいい、というものでもない。(……)どっちかというと最近は、右翼っぽい作家のほうが物言っているみたいだし。(……)そのことに対する危機感みたいなものはもちろんある」と言っているが、あの村上がこういう発言を日本語で日本の読者に向かってするというのは、逆に日本の現状というのが浮かび上がるようでもある。バブルの崩壊や震災、原発事故を経て、「僕は、日本がもっと洗練された国家になっていくんだろうと思っていたわけ。でも今は明らかにそれとは正反対の方向に行ってしまっている。それが、僕が危機感を持つようになった理由だし、それはなんとかしなくちゃいけないと思う」としている。

村上はここで60年代の理想主義とへのシンパシーと、「それがあっさりと潰されてしまったことに対する幻滅」についても語っているが、このあたりについてはこちらに書いたように、83年に行われた五木寛之との対談でも詳しく述べている。




ところで、村上とイシグロの名前が出てきたのでちょっと脱線するが、イシグロがノーベル文学賞を取ったとしたら(作品の優劣の問題ではなく、ノーベル文学賞の傾向を考えると村上よりイシグロが受賞する方が可能性は高いのではないだろうか、というか評価と世界的知名度からすると取っても不思議ではないとはいえ、あの作風で村上が受賞するようにはあまり思えない)、日本のメディアはいったいどういった報道をするのだろうか。
アメリカ国籍を取得した南部陽一郎を日本のメディアはなんの留保もなく「日本人」として扱っているのだが、イシグロは4歳で渡英しイギリス国籍を持つが、南部と同様に「血筋」としては「純粋の日本人」(あえてこう言い方をしてみよう)である。イシグロを「日本人」としてカウントして、「同じ日本人として誇りに思います」などという街頭インタビューでも流すのだろうか。ここ数年十月初旬に繰り広げられる醜悪な馬鹿騒ぎを見ると、こういったことが起こらないとも限らないように思えてしまう。


などということを考えていると気分がくさくさしてきてしまったが、ゴーゴリの「外套」にインスパイアされたきたむらさとしの「外套」も面白かったし、その他にも読み応えのある号になっております。

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佐藤太郎(仮)

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