『ジェネレーションP』

ヴィクトル・ペレーヴィン著 『ジェネレーション<P>』




ヴァヴィレン・タタールスキィはパステルナークを読み文学に惹き付けられるが、ソ連邦崩壊の余波もありキオスクの店員に収まっていた。大学時代の友人と偶然再会すると、その友人はタタールスキーを連れ出して広告業界へと引き込み、タタールスキーはコピーライターなるが……


この作品はこう書き出される。「その昔、ロシアには憂いを知らぬ若き世代が確かに暮らしていて、夏に、海に、そして太陽に笑みを送ると――<ペプシ>を選び取った」。

当時のソ連では「真理は一つしかないと考えられていた」。「そのため、<P>の世代にはいかなる選択肢もなかったわけで、ソ連の七〇年代の子供たちが<ペプシ>を選んだのはそっくりそのまま、その親たちがブレジネフを選んだのと同じであった」。

タタールスキィのヴァヴィレンといういささか珍しい名前は、「ヴァシーリィ・アクショーノフ」と「ヴラヂミール・イリイーチレーニン」を掛け合わせたものであり、タタールスキィは父親によってつけられたこの「心秘かに共産主義への信頼と六〇年代世代の抱く数ある理想とを結びつけ」られた名前をひどく恥ずかしがっていた。

ペプシが受け入れられたのは二匹の猿が登場する印象的なCMのおかげであることが多くの研究家から指摘されている。「どこにでもあるコーラ」を選んだ単純作業にあけくれる猿と違い、ペプシを選んだ猿は、はしゃぎながら女の子たちと海に向かってジープを走らせているのである。ソ連ではペプシを選ぶことが物質的な成功と結び付けられるイメージが流布された。一方アメリカでは、「進化を認めない」、「猿は猿のまま」というキリスト教右派の価値観を反映するかのように、コカ・コーラがペプシを蹴散らしたのであった。


この冒頭部分に本作のエッセンスがつまっているとすることができるだろう。人々の購買意欲を左右するのはモノそれ自体の価値ではなくモノに付随する(より正確に言うならばモノそのものと結びつく必要すらない)イメージであり、それは狭義の意味での商品の広告であるのみならず、政治すら動かすものであり、その最も効果的な媒介物(メディア)がテレビなのである。

「カウンターの上にはチェ・ゲバラの肖像と<Rage Against the Machine>の文字が入った黒いTシャツがぶら下がっていた。Tシャツの下には<今月一番の売れ筋!>という札があった。これは別に驚くことではなかった――タタールスキィは(これについては何かの企画案で書いたことがあった)過激な若者文化の分野で一番よく売れるのが、政治的な正しさに支配され、売り物はどれも小分けに包装されているような世界に対抗するお行儀良く包装されて政治的にも正しい叛逆ほどウケのいいものはない、ということは知っていた」(p.107)。

革命家や革命的なミュージシャンのイメージもまた、全ては「広告」を通してのイメージに回収されていき、その裏にはコピーライターをはじめとする広告業界の計算が働いているのである。


恥ずかしながらペレーヴィンを読んだのはこの作品が最初なのだが、一番近い感じとしてはドン・デリーロだろうか。デリーロもメディアを通しての「イメージ」によって形成される世界をよく取り上げる。これらは斬新な世界観というよりも、「晩期資本主義」によってもたらされる典型的な世界とすべきだろう。

ジョルジュ・ペレックの『物の時代』は、人々の行動を支配するはずの広告業界側の人間が、自身によって形成される物のイメージの世界に囚われていく。日本ではこのようなイメージに対するイメージは80年代に多く取り上げられることになる。

村上春樹の『羊をめぐる冒険』では、広告業界に首を突っこんだ「僕」の繰り広げる「冒険」が、実は掌の上で踊らされていたにすぎないことが明らかとなる。奔出するカネやモノによる欲望の先鋭化をドラッグやセックスを通して描くのはかつての村上龍の十八番でもある。80年代といえば過激派からコピーライターになった糸井重里の時代であり、またフランス現代思想とオカルトとを結合させた中沢新一の時代でもあった(ちなみにペレーヴィンはロシアでのカスタネダの翻訳出版と関わりを持っているのだそうだ)。そして糸井的世界と中沢的世界は相互に対立するものとしてではなく、むしろ手を携えあっているものとして受容された。

『ジェネレーション<P>』には企業名ブランド名、そしてコマーシャルによるイメージが溢れかえる。そしてこれらの最も効率的な伝達手段はテレビであり、タタールスキィは当然のごとくテレビとも関わりを持っていく。

本作には数多くの「偶然」の出会いが繰り広げられるが、その手触りはポストモダン的遊戯性という印象は与えない。フィリップ・K・ディック的現実溶解感覚が、まさに現実そのものがぐにゃりと溶け出していくようなものだとすれば、『ジェネレーション<P>』における現実から非現実への転化は、現実が書き割りと化していくかのようだ。「偶然」は演出された「必然」のようであり、タタールスキィが主体的に運命を切り開いているという感覚は皆無である。しかしまた、この「世界」を支配する明確な存在も見えてはこない。人々の欲望をコントロールするために人為的に作られたイメージの連鎖の起点が明らかにされることはないし、それを明らかにしようとする意識すらタタールスキィは抱くことはできない。


1999年に発表されたこの作品は90年代ロシアの現実をかなり取り入れているようだ。日本では「政治の季節」の終わりからバブルの絶頂、そして崩壊までは約20年かかっている。ロシアの場合はこれを10年間に濃縮したかのようなものだったのかもしれない。
また『羊』や『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』には世界を支配する強大な力に対してのアイロニーを通しての消極的抵抗/受容という面もあった。80年代の日本における「強大な力」は、広告業界を支配する死にゆく「先生」のモデルが児玉 誉士夫であるように「現実」を反映しつつも、「羊憑き」のように抽象化されたものでもあった(あるいはそうならざるをえなかった)。ところが90年代末のロシアでは、この「強大な力」は抽象化されたものではなく、まさに目に見え手で触れる形での「強さ」と結びついていく。タタールスキィが最後に辿り付く場所は、「晩期資本主義」や90年代ロシアを表すものである以上に、プーチン登場以降のロシアを予言するものとなっているのである。



プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
カテゴリ
twitter
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR