『GIRL IN A BAND  キム・ゴードン自伝』

キム・ゴードン著 『GIRL IN A BAND  キム・ゴードン自伝』




2011年10月、キム・ゴードンとサーストン・ムーアの離婚が公表された。仲のいい夫婦というイメージのみならず、ミュージシャン同士のカップルという枠を越えて、ある種の象徴のように仰ぎ見ていた人にとってはかなりの衝撃を受けた出来事であったろう。

本書には「サロン」に載った、「まさかキム・ゴードンとサーストン・ムーアが離婚するなんて」という記事が引用されている(これかな)。この記事に「彼らが私たちとは違うなんてことがあるだろうか」とある。
キムはこう書いている。「いい質問だ。私たちは違っていなかったし、そこで起こったことはといえば、おそらく史上最高によくある話だった」。

キムといえばまず浮かぶイメージが「クール」だろう。クールという言葉がこれほど似合う女性はそうはいない。しかしこれはキムの真の姿であったのだろうか。
「超然としている、無表情、人を寄せつけないといった多くの人が私に抱いているイメージは、私が感情を示すとそれがどんなものであろうとからかわれることになった日々に由来する仮面〔ペルソナ〕だ」(p.41)としている。キムの「クール」さとは防衛反応でもあったのだ。それは彼女の幼少期の体験に由来しているのかもしれない。


父はUCLAの教授で教育社会学を専門とし、母は専業主婦だった。かつては詩人を目指したこともある父はどこか浮世離れしたところもあり、母はそれとは対照的に実務的であった。専業主婦とはいっても仕事をしていなかったわけではなく、大恐慌時代をほぼ母子家庭で生き抜いた経験を持つだけに裁縫が得意でお針子もしている。子どもの頃の服は全て母のお手製だった。キムは次第に母の作る服に満足がいかなくなるが、母は実用一辺倒のコンサバ趣味であったわけではないようだ。60年代に入るとヒッピー風の服も作るようになるし、また「ニューヨーカー」の表紙を使ってコラージュを作ったりもしていた。これは「油汚れ対策だと彼女は私たちに言ったが、しかし実際のところそれ以上のものだったし、気の利いた、ありがちでないアート作品だった」。幼い頃にすでにアーティストになるという夢を持ったキムにとって、「専業主婦」に収まっている母と「アーティスト」という面を持つ母はアンビヴァレントな存在に映っていたのかもしれない。

キムとサーストンの間にココが生まれると、母はただ一人の孫を可愛がったが、抱きかかえて離さないといった溺愛の仕方ではなく、何時間も眺めて見守った。母は「彼女は大丈夫、あなたは本当に彼女とよく遊んでふれあっているから」と言った。「それこそ彼女が私に決してしなかったことだと言わんばかりに」。キムは独立心旺盛な子どもであったが、同時に母との親密な関係も求めてもいた。ある時には「なんで私はもうお母さんの膝に座っちゃいけないの? なんでお母さんは私を抱きしめたりしないの?」と感じたこともあった。
「両親はふたりとも考え込む人だった」。キムの兄のケラーは母に「神経質すぎるよ!」と言った。キムも「なんでそんなに悲しそうなの?」と続けると、母は「だってこの世界はすごく気が滅入るところだから――戦争、とか」と言うのであった。

両親の不安はヴェトナム戦争という時代のみにあったのではない。このケラーの存在も、家族を暗くさせることになる。
キムは幼い頃には兄の傍若無人な振る舞いに苦しめられる。しかし次第に、ケラーの大胆不敵な行動や知的な面に魅力を感じるようになり、兄から文学や音楽を学びとっていく。しかしケラーのエキセントリックな言動は、彼の個性の問題ではなく精神の病であったことが明らかとなっていく。ケラーは大学をドロップアウトし、トレーラーに住み着くようになる。ヴェトナム戦争の最中のこと、徴兵されるのではないかという不安も病気に輪をかけたのかもしれない。ヒッピーとしてうろつくうちにチャールズ・マンソンファミリーから誘いを受けたこともあったが、幸いにもこれに加わることはなかった。ハンサムで女性にはよくモテたが、元ガールフレンドの一人がマンソンファミリーに殺されたという話もあるそうだ。

キムは兄の異変に気づき、両親に医者に見せるように訴えるが、当時は精神科への偏見もまだ根強く、両親は手に負えなくなるまで息子を病院に通わせることはなかった。結局ケラーは施設に入るより他ない状態にまで悪化し、現在にいたるまで完全には回復していない。兄を見舞いにいくと、薬のおかげもあって暴力的になることはなく優しい性格になっているものの、「現実とファンタジーの間を軽快に行き来し」、文明から隔絶したかのような生活をしている。面会に行くとき以外は電話をかけることはない。兄が「どこにいるんだ?」「いつ会いにくるんだ?」と言い出すことは避けられないし、期待を持たせてそれを失望に変えることをしたくないためだ。キムは「もし私の兄が彼でなかったら、私はどんな人間になっていただろうか」と考えるのだった。

父は若くしてパーキンソン病を患い、身体が衰えていく中医療ミスで死亡する。母はヘルパーの運転する車に乗っていて事故に合い、後遺症を抱えたまま亡くなる。貧困や虐待といった不幸な生い立ちではなかったものの、また幸せ溢れる家庭であったともいえないだろう。

人前に出る仕事をする人は(もっといえばあらゆる人間は)多かれ少なかれペルソナをかぶっているものだ。しかしキムの場合、この「クール」なペルソナは強いられたものという面もあり、当人も知らず知らずのうちに負担になっていたのかもしれない。
リチャード・ヘルの自伝についてこちらに書いたが、ヘルを名乗る前の幼少期から、彼の顔立ちは見間違えようもなくヘルそのものだ。内容的にもヘルのパブリック・イメージを裏切る部分はない。その演技性も含めてリチャード・ヘルというペルソナを引き受け続けているようにも読めた。一方、本書に収録されている写真を見ると、ティーンエイジャーの頃になっても、少しぽっちゃりとした少女らしいその姿はあのキムとはなかなか結びつかない。キムがあのキム・ゴードンの姿となるのは、家を出た二十歳前後の頃からだ。ここでいう「ペルソナ」というのはもちろん内面的なものであるのだが、外見においても、キム・ゴードンというあまりに強烈なパブリック・イメージのペルソナはどこか負担になっていたのかもしれない。

この回想は、すでに離婚を発表していたが契約上出演しなければならなかった南米のフェスを巡る、ソニック・ユース最後のツアーの模様から始まる。サーストンのロック・スター然とした振る舞いにキムは苛立っている。サーストンはまるで「僕は帰ってきた。僕は自由。僕はソロ」と叫んでいるかのようだった。これは裏を返せば、この時にはもうサーストンは自身のペルソナを脱いでふっきれていたということなのかもしれない。そしてキムは、「クール」なペルソナを脱ぎ捨てるにはこの回想を書くという作業を必要としていたということなのだろう。

多分これだろうが、確かにキムの表情は冴えないし、この時のサーストンにイラっとくるというのもなんとなくわからなくはない(キムも書いているように、特に最後の振る舞い方)。



本書はソニック・ユースのファン、そして8、90年代のアメリカのオルタナ・シーンなどに興味のある人にとっても貴重なものになっている。
サーストンとの運命的な出会い(キムがたまたま貰って家に置いてあったギターを見て、この日初めて彼女のアパートに来たサーストンはこのギターを知っていると言い張った。これは嘘ではなく、このギターの持主だった女性は二人の共通の知人で、サーストンは以前にこのギターを弾いたことすらあったのだ)。ソニック・ユースの結成、各アルバム製作秘話、ニール・ヤングなどとのツアーの様子や、娘のフランシスが生まれたがコートニー・ラブともどもドラッグに溺れ、「どうしたらいいのかわからない」とキムに訴えるカート・コバーンの姿なども語られる。

コートニーは自分のことしか考えられず、カートはコートニーよりも長い時間娘のフランシスと過ごしていたが、安心して助言を求められる相手が他に誰もいなかった。ちょうどこの瞬間を捉えた写真も収録されている。R.E.M.とツアーに出た際に、マイケル・スタイプと一緒にウィリアム・バロウズを訪ねると、バロウズは「あの子はどうしたんだ?」とマイケルに尋ねた。マイケルは「残念です……」と言うと、少し気まずそうにその場をキムとサーストンに譲った。「私たちはカートとニルヴァーナの歴史の一部みたいなものだったから」。




またフリー・キトゥンなどのサイド・プロジェクトや、ファッション・ブランド、X-girlにまつわるエピソード(キャンペーンのために幼いココと一緒に日本に来た時にソフィア・コッポラが撮った写真も収録されている)や、2001年9月11日の混乱をニューヨークで迎えた生々しい経験も語られている(当時ソニック・ユースにいたジム・オルークもこの時は大変だった)。


サーストンは世間で思われているよりも自己中心的で傲慢なところがあった。サーストンがキムに乱暴に口をきくのを初代ドラマーのリチャード・エドソンは諌めたが、リー・ラナルドやその後バンドに加わったスティーヴ・シェリーは口をつぐんだ。これはどこまでがバンド内のもめごとで、どこからがカップルの問題なのかが見極めにくかったためだろう、としてある。バンド内にカップルがいるとこういう少々ややこしい事態は避けられないのだろう。
「パワー・カップル」の「片割れの女性」という印象を与えないよう気を配り、またリーやスティーヴの前ではサーストンと口論しないよう気をつけた。

「私は生涯ずっと、他の人たちの感情を気にして、順応しようとしてきた――私の一見強そうな個性についてプレスがどれだけ頻繁に語ってきたかを思うと、皮肉な話だ」。

バンド内で「紅一点」であることや子どもを持つことに対するメディアの反応は旧態依然たるもので、苛立たせられた。子育てのためにニューヨークを離れたせいもあってバンドの力関係なども変化が生じざるをえなかった。

とはいえ、サーストンがいい父親であることは間違いなかった。家族の不幸も乗りこえ、ココも順調に育っていった。バンド内の力学もうまくいくようになっていった。全てが理想通りとはいかなくとも、これで文句を言ったらあまりに贅沢というものだろう、そう思えていたのかもしれない……あの事件が起きるまでは。


ある日、キムはサーストンのメールからある女性との関係を発見してしまう。当然ながら、キムはこの女性を極めて否定的に書いている。本書を読むと、ソニック・ユースの関係者なら誰でもいいといわんばかりのグルーピーに(なにせキムにも近づいてきた!)サーストンは年甲斐もなくひっかかってしまったかのようだ。しかしサーストンがその後もこの女性との交際を継続していることを考えると、サーストン側からは違った光景が見えていることだろう。

サーストンは関係を一旦は否定したものの、すぐに謝罪して問題は収まりかけたが、また同じことを繰り返す。二人はセラピーを受け、結婚カウンセラーとも面会する(あまり想像したくない場面だ)。サーストンがすぐに関係を断てば結婚生活やバンドを続けることも可能であったのかもしれないが、彼女への思いが断ち切られることはなかった。キムは裏切られた人間としてラップトップを見る権利があると主張した。「ごみ箱」から彼女への未送信メールが間もなく見つかった。「彼女というドラッグは彼を嘘つきに変えてしまった」。二人の共通の友人がサーストンの「暗闇」に不快にさせられ、彼にはもううちに来てほしくない、と語るほどだった。

しかしここでふと思うのは、そんなにヤバいものをなぜきちんと(という言い方もアレだが)処理しておかなかったのだろうかということだ。サーストンはそれが露見すれば結婚生活が破綻することは当然ながらわかっていたことだろう。サーストンは「ごみ箱」に入れただけで完全に消去されたと思うほどのコンピュータ音痴だったのだろうか。おそらくは、少なからぬ浮気の露見がそうであるように、意識的にか無意識的にかはともかくとして、二人の関係がキムにバレることをサーストンは望んでいたのだろう。サーストンの意識の中では、すでに夫婦関係はすでに終わりを迎えていて、あとは「何か」が背中を押してくれるのを待つばかりという状態だったのではないだろうか。

この騒動はベックをプロデューサーに迎えてサーストンがソロ・アルバムを製作する前後に起こっている。サーストンはベックとのセッションのためにLAへ向かう機上で情緒不安定であり、涙を浮かべたかと思うと心ここにあらずという感じになったというが、この直後に自らまた彼女と会っているということを告白している。そしてキムはサーストンの迷惑メールの中から、「信じられないぐらい不快な彼女の写真を見つけ」ることになる。サーストンはこの写真はずっと前に撮られたものだとしょうもない言い訳をするのだが、やはりこのあたりも結婚生活の終わりを望んでいた結果のように思えてしまう。

離婚の前後に泥試合を展開していてもおかしくはなかったのだろうが、サーストンは結婚の終わりもバンドの終わりも受け入れると新たな生活をすんなりと始めているかのようだ(キムにとってはそれはより一層腹立たしいことと写っただろう)。見ようによっては身勝手さを表しているとすることもできるのだろうが、サーストンの腹がすでに決まっていたことの表れだとすることもできるだろう。もちろん、だからといってサーストンの行為が正当化できるというのではないが。


事前の評判なんかを聞くと、二人の関係についてもっとどぎついことが書かれているのかと思ったのだが、まあきついといえばきついのだが想像していたほどではなかった。これはキムが「赤裸々な告白」をするようなタイプには思われていなかったために広まった評判だったのだろう。

浮気を発見して「泣くまいと震えながらニューヨークをさまよ」ったり、セラピストに電話をしたが何を言われたのかすら覚えていない、最後のツアーに向かう前のリハーサルは抗不安薬を飲んでなんとか乗り切った、といったようなことは、いずれもキムのパブリック・イメージが強烈に植えつけられている側からするとあまり知りたくないような出来事であるが、逆にキムからすると、であるからこそこれを書かなくてはならなかったのだろう。そう考えると、一人の女性が傷つきながら解放され、自由を獲得する物語としても読むことができるし、意味深にも思えるタイトルはこのあたりに由来しているのだろう。


その他に面白かったエピソードをいくつか。

高校時代に仲のよかった友人の兄が後にテレビドラマ『アンジェラ 15歳の日々』を製作することになるが、この撮影が行われたのはキムが通っていた高校なのだという。キムは当時のボーイフレンドとよく学校を抜け出して鉄条網を乗り越えて彼の家に行ってはマリファナをキメてはマイルス・デイヴィスの『ビッチェズ・ブリュー』を聴いていちゃついていたということだが、そんなことを想像しながらこのドラマを見てみるのも一興かもしれない。

1972年にキムはサンタモニカ・カレッジに通い始め、ヴェニスに引っ越した。ここの家主のギレルモはクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングのローディーもやっていて、ツアーから帰ってくると夜通し大騒ぎをして、キムもその一団に加わっていた。ギレルモにはブルース・ベリーという友人もいたが、90年代にソニック・ユースがニール・ヤングとツアーをしたときに、オーバードーズしたローディについてのヤングの「トゥナイト・ザ・ナイト」がこのブルースのために書かれたものだと気づいたそうだ。ブルースは73年に亡くなっている。



キムはそのブルースらと、夜通しドライブしてまったく関係なさそうな人の家を訪れるということをしていた。ハル・ブレインやプライマル・スクリーム療法の考案者のアーサー・ヤノフの家も訪れたという。何か応対したのか無視されたのか、その反応は書かれていないが、いい迷惑だったことは確実だろう。この時代のカルフォルニアに住んでいた有名人はよくこういう目にあっていたのかもしれない。

ニューヨークといえばゴキブリはその代名詞みたいなもの(?)で、キムもこれに悩まされた。「私の考えでは、小さなゴキブリ駆除装置コンバットを発明した人々こそ都会人のヒーローだ」。
僕は虫が苦手なもので、ニューヨークのゴキブリ話を見聞きする度に絶対にあそこには住めないわ~、と思ってしまうのだが、コンバットでなんとかなるものなのだろうか。
またキムがニューヨークへ出てきた頃は、鋪道を歩く時は建物から少し距離をあけておかなければならなかったそうだ。そうしないと巨大ネズミが……といのはうぎゃ~という感じで、キムより少し早くニューヨークへ出てきていたサーストンが、テレヴィジョンやリチャード・ヘルなんかをCBGBで生で見てたんだぜ、と自慢するのだが、あの時代のCBGBに行けるものなら行ってみたいものの、「やっぱり無理!」とも思ってしまう。

フェスでの簡易トイレの汚さに年をとると耐えられなくなってくることなどにも触れられていているが、不潔さといえばCBGBのそれはやはり別格という感じで、便座のないトイレで床に服や荷物をつけないように用を足すというのは男性にとってもそうだが、女性にとってはさらに大変だったろう。写真で見たことあるけれど、あんな所では出るものも出なくなるだろうなあ。


嗚呼!









プロフィール

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

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