『ピンポン外交の陰にいたスパイ』

ニコラス・グリフィン著 『ピンポン外交の陰にいたスパイ』





僕が初めてアイヴァー・モンタギューという名前を意識したのは、『ナチを欺いた死体』(ベン・マッキンタイアー著)を読んだ時だった。奇想天外な「ミンスミート作戦」の立案、実行の中心的人物であったユーエン・モンタギューの弟がアイヴァーであるが、この映画製作者であり卓球狂の風変わりな人物は、ソ連のスパイでもあった。

「初めて知った」ではなく意識したというのは、おそらくその前にも映画の本などでこの名を目にしていたことはあったのであろうからだ。意識した後に1920年代から60年代頃までを扱った映画関連の本を読むと、しばしばこのアイヴァー・モンタギューという名にぶつかった。多分、それ以前にも目にしていたが通り過ぎていただけなのだろう。

例えば『ヒッチコック』(ドナルド・スポトー著)には、若きヒッチコックの窮地を救うプロデューサーとして登場する。『チャップリン』(デイヴィッド・ロビンソン著)ではチャップリンのコックニーを見抜きあわてさせ、また友人であるセルゲイ・エイゼンシュタインと共にチャップリン宅を訪問し、そこでルイス・ブニュエルと出くわしている姿が描かれている。また『レニ・リーフェンシュタールの嘘と真実』(スティーヴン・バック著)ではナチのプロパガンダを担ったリーフェンシュタールへの抗議者として顔を出している。





とにかくまあいろんな意味ですごい人物な割りにその全体像が知られていないのがアイヴァー・モンタギューであるので、本格的な伝記が読みたいと思っていたところ本書の邦訳が刊行された。しかしそういった点からすると少々物足りないかもしれない。確かに前半部分ではモンタギューの半生が詳しく語られているが、「訳者あとがき」にもあるように著者はもともと中国の「ピンポン外交」への興味から取材をスタートさせているように、本書の中心的なテーマはモンタギューではなくピンポン外交とすべきだし、後半に行くとモンタギューは主要登場人物ではなくなっていく。邦題はややミスリーディングな感じもするが(原題は「ピンポン外交」で、サブタイトルは「世界を変えたゲームの背後の知られざる歴史」であり、スパイ云々は原題にはない)、逆にアイヴァー・モンタギューに関心のある人にとってはその卵を彼が生み落としたともできるピンポン外交について、またピンポン外交について関心のある人にとっては知られざる卓球の歴史について、興味深い物語と出会うことができるようになっている。


モンタギュー家はユダヤ系で、祖父のスウェイリング卿は「英国でも五本の指に入る大富豪」であった。アイヴァーは次男であり爵位こそ継げないものの、莫大な遺産を相続することができるはずだったが、彼は左傾するのみならず階級的にモンタギュー家から受け入れられない結婚をしたために、ほとんど財産を受け取ることはなかった。もっとも熱烈な共産主義者であったアイヴァーからすれば望むところだったのかもしれない。

アイヴァーは頭脳明晰ではあったが近視で身体は弱く、ラグビーなどのスポーツに打ち込むことはできなかった。その彼が唯一得意だったスポーツ、それがピンポンだった。ピンポンは一時は大ブームが起こったが、アイヴァーが生まれた1904年は「ピンポンが死んだとされる年」とされるように、その人気は下火となっていた。ケンブリッジ大学進学後はピンポンチームを結成しオックスフォード大学との対抗戦を行うなどした。そんな彼に未整備だったルールを作るのを手伝ってほしいとの声がかかる。こうして「彼が作ったルールの基本部分は、その後四十年のあいだ形を変えずに、各国語に翻訳される」。

ピンポン協会が結成されるが、ここで問題が起こる。「ピンポン」という名称は「ジェイク&サン」というゲーム用品メーカーが商標登録していたのである。「ジェイク&サン」はすべてのイベントで自社製品を使うよう要求してきた。するとアイヴァーは驚くべき行動に出る。話し合いのその場でピンポン協会を解散すると、即座にイギリス卓球協会を結成したのであった。

アイヴァーが卓球に惹かれたのは、「政治的な理由だった」と自ら語っている。「卓球とは、まさに低所得者層にうってつけのスポーツであり……金儲けの要素はほとんどなく、大々的に宣伝しても、それに見合う見返りはないし、新聞ネタにもなりにくい……私は改革運動としての卓球に身を投じたのだ」。

こうしてアイヴァーは映画製作者という顔とともに、卓球の中興の祖として卓球界に世界的な影響力を持ち続けることとなる。
映画がプロパガンダともなるように、アイヴァーが純粋に卓球のことのみを考えてこのスポーツに入れ込んだのではないのかもしれない。スポーツ界の国際的な名士という地位はスパイの隠れ蓑にとっては望ましいものだった。しかし、これも映画と同様、彼が政治的な打算のみによって卓球に入れ込んだのかといえばそうではなかっただろう。アイヴァーは本気で卓球というスポーツを愛してもいた。

本書を読んでいると、卓球というスポーツの不思議な「魔力」が浮かび上がってくる。現在でも他のスポーツ経験者やファンが卓球を揶揄的に扱うことは少なからずあるが、実はすでに1920年代にイギリスの新聞などで、卓球をスポーツとして扱うことを嘲笑する記事が溢れていたのである。一方で、第二次大戦中には兵士たちが病院などで気晴らしとして卓球に熱中し、いい球を得るために卵との物々交換まで行われていたほどだった。そしてこの「魔力」に捉われたのは西洋人に限らない。中国奥深くで国民党と日本軍と対峙していた中国共産党の面々も、周恩来をはじめとして卓球に熱中していたのである。

アイヴァーが言うように、卓球には「政治的」な面があるのかもしれない。確かに卓球台とラケット、そしてなにより球を必要とする。しかしこれらさえ揃えることができれば、子どもから老人まで、負傷兵から病人まで、様々なレベルで万人が楽しむことができる。敷居は高くはないが奥は深い、軽い娯楽としても、ハードなスポーツとしても成立するものでもある。


1949年、当時17歳の少年荻村伊智朗は卓球台を磨き上げていた。好投手だったが小柄だったことから野球を断念し、卓球に求道的に打ち込むようになる。父を早くに亡くしていたため、母がパンを焼いて売るのを手伝い、そのパンをかじりながら練習を重ねた。
1954年ロンドンで行われる世界選手権に出場するための最大のハードルは資金だった。荻村は街頭募金に自ら立つなど資金集めに奔走し、なんとかこれを確保する。まだ戦争の記憶が色濃く、とりわけ日本軍による捕虜虐待のイメージからイギリスやオランダの日本に対するイメージは非常に悪かった。大会でも様々な妨害に合うのみならず、レストランなどでも嫌がらせを受ける。荻村は東京でアメリカ人の少年から英語を学び、通訳養成学校にも通い、日本チームでただ一人英語が堪能だった。彼は単なる選手ではなく、通訳でもあり、「一国の代弁者」でもあった。

荻村は世界選手権で優勝すると、アイヴァーの妻からトロフィーを受け取った。会場にいた労働者階級の観客からようやくまばらな拍手があった。優勝することを前提にあらかじめこれを包む風呂敷を日本から持参するほど、彼はこの大会に賭けていた。そして、カメラのフラッシュに満面の笑みで答えた。「タイムズ」などの新聞は荻村のこの姿を高く評価した。

その後の世界ツアーでも日本選手団は厳しい目にさらされたが、小児麻痺で右手が不自由だったハンガリーの選手がよろめいたとき、荻村ら日本人選手が身を投げ出してこれを受け止め、立ち上がるのを手助けした。会場からはブーイングに代わって拍手が起こった。
まさに荻村らは外交官とも、文化親善大使ともいえる働きをヨーロッパで成し遂げたのである。

日大芸術学部に在学していた荻村は、卒業制作として『日本の卓球』という短編映画を撮った。これを真っ先に購入したのは、中国政府だったのである。

中国政府は中ソ対立も深まる中、国際的な孤立状況の改善を模索してもいた。国内的にナショナリズムを高めつつ、国際的な交流もできる卓球の国際大会は中国政府にとっては理想的なものに思えたことだろう。
中国は荻村を詳細に研究したが、これは選手としてはもちろんのことだが、彼の「外交官」としての側面も含めてのことだろう。

1961年、ついに中国で卓球世界選手権が行われる。中国国内は実はこの時、大躍進政策の無残な失敗により大量の餓死者を出す非常事態にあったが、中国政府はこれを国際的には隠し通し、大会を成功させる。このような大会を成功させることがナショナリズムを亢進させるとともに、プロパガンダとしても有効なことを確認した。しかし周恩来は強烈なブーイングを浴びた日本チームに対してだけ特別なお別れ会を開いたように、広い視野に立ってこの大会を見てもいた。とりわけ荻村は周恩来から昼食会に招かれるなど、尊敬をもって手厚く遇されていた。

その後中国では権力闘争の激化、そして文化大革命の勃発と大混乱状態となり、再び国際的社会から引き篭もることとなる(ちなみにいつでも「忠実」なアイヴァーはもちろん文化大革命も熱烈に支持した)。一方でアメリカでは、台湾を「中国」として国連に代表を送らせ続けることの限界は明らかであり、その他の国際事情を鑑みても中国との関係正常化を模索し始める。これは反共タカ派のニクソン政権であるからこそ可能であったことだろう。キッシンジャーは秘密裏に中国に飛び交渉を行うようになる。

1971年、卓球の世界大会が名古屋で開かれることになった。「中国チームを出場させたいと真っ先に考えた人物は、荻村伊智朗かもしれない」。69年に周恩来に大会参加を勧める手紙を送ったが、返事はなかった。しかし驚いたことに、その年の国慶節パレードに招待された少数の日本人の中に、荻村は含まれていたのである。周恩来と話すことができ、直談判したが、周恩来は慎重だった。しかし荻村は同年にさらに中国を訪問する。すると北京での親善試合に招待されたのであった。そこには五千人の観客がいた。中国の卓球チームは復活していた。しかしそこにはいるべきはずの選手が何人かいなかった。これらの選手は死に追いやられたのだろう、と荻村は思った。中国指導層内では意見が割れていたが、最後は毛沢東が周恩来を支持する形で、中国チームの名古屋行きが決まった。

そしてこの名古屋大会のアメリカチームの一員には、ニューヨーク郊外に育ちカリフォルニアに住むヒッピー青年、グレン・コーワンがいた。中国チームはアメリカ人とは接触しないように厳重に注意されていた。しかしあろうことか、コーワンは「偶然」にも、「間違って」中国チームのバスに乗り込んでしまったのである(常識的に考えればこのような「偶然」や「間違い」が生じることは考えづらく、誰かが計画したものだと想像せざるをえないのだが)。中国チームの面々からすれば、アメリカ人との接触は文字通りに命にかかわるものであった。バス内に緊張が広がる中、卓球世界チャンピオンであった荘則棟がコーワンに近づくと、黄山を描いた錦織をお土産として手渡した。荘は35年後、コーワンの「あの無邪気な笑顔は、今でも忘れられない」と振り返っている。

こうして後はとんとん拍子に(というほど簡単ではなかったが)事態は進んでいく。
卓球アメリカチームは中国を訪問し、中国チームもアメリカを訪問、そしてついに米中国交正常化へとつながっていく、ピンポン外交の果実が実ったのであった。


アイヴァー・モンタギューは幸福な生涯を送ったのかもしれない。確かに彼は莫大な資産を相続そ損ね、一族のはみ出し者としてモンタギュー家の人々とほとんど交遊が断たれたまま生涯を終える。しかしもっと酷い目に合っていた可能性は十分にあった。40年代からイギリス当局はアイヴァーに疑惑の目を向け監視を続けていた。アイヴァーが単なる風変わりな共産主義者ではなく、ソ連のスパイであるとの結論を出した後も、王室とも交遊のある名家出身であることもあって、逮捕はあまりに副作用が大きいことから身柄の確保は見送られた。そしてベルリンの壁やソ連の崩壊が起こるのを目にすることなく、この世を去った。

一方、グレン・コーワンの生涯は陰鬱なものとなっていく。アメリカでは卓球はマイナースポーツであり、ほとんど注目を浴びることはなかったが、閉ざされた国、中国をアメリカ人が訪れるということで一躍時の人となる。中国では自由人コーワンは人気者となる。中国人にとってもっとも想像がつかないような人物であったからだ。コーワンはアメリカでもスターになることを望んだが、そうはいかなかった。アメリカでは所詮卓球は超のつくほどマイナーなもので、競技自体が人気となったのではない。他の選手達は本業への復帰するが、コーワンには卓球しかなかった。しかし「ピンポン外交」から本物の外交へと移り変わると、注目度はますます下がっていく。

コーワンは精神を病み(その兆候は中国訪問時にはすでに出ていたのかもしれない)、被害妄想を抱き、幻覚を見て、職を転々とし、薬を断っては病状がますます悪化するという悪循環を繰返し、ホームレス状態にまで陥る。2003年に死亡した時、あの「無邪気な笑顔」を浮かべ時の人となった元ヒッピーの卓球選手の死亡記事は、有力紙には一つも掲載されなかった。かつてのライバルで、一緒に中国を訪れたある選手はこう振り返っている。コーワンは「中国に行ったあとは、もう何もかも無意味に思えてしまった」のだと。


本書はアイヴァー・モンタギューという特異な個性を持った人物の半生記としても面白いが(後半生についてはあまり触れられていない)、また卓球史であり(アイヴァーの作ったルールの不備を突き、「カット」という手法を批判するためにカットを得意とする選手にカットで応え、「関節炎を病んだ老人のように」二時間も地味な打ち合いをひたすら繰り広げ、試合中に食事までしてしまう選手のエピソードは思わず笑ってしまうし、またラケットのラバーをめぐっては日本人選手も絡んでいるが、これを邪道だと拒否し続けた選手もいたそうだ)、そして何よりもピンポン外交の裏側やそれを成し遂げた、あるいは翻弄された人々の記録としても興味深いものとなっているだろう。

とりわけ日本の読者にとっては、荻村伊智朗という、日本ではまったく無名というわけではないが大きな注目を浴びているというほどでもない人物が、卓球を通して成し遂げたことを確認することにも意味があるだろう。
僕も偉そうに言えた立場ではなく、荻村についてはほとんど何も知らないもので、自伝を含めていくつか本が出ているのでいつか読んでみたい。




また荻村は、本書では扱われていないが1991年に千葉で行われた世界卓球選手権での初の統一コリアチームの参加にも尽力したとのことである。これについてはペ・ドゥナ出演の『ハナ 奇跡の46日』という映画があって、この作品はベタといえばベタではあるんだけどなかなか熱いスポーツ感動ものになっているので未見の方はぜひ。




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佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
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