『市川房枝と「大東亜戦争」  フェミニストは戦争をどう生きたか』

進藤久美子著 『市川房枝と「大東亜戦争」  フェミニストは戦争をどう生きたか』




市川房枝が戦時中に戦争協力をしたことはよく知られているだろう。と、「戦時中」、あるいは「戦争協力」と書いたが、これは具体的には何を指すのだろうか。市川はいつから、どのような形で戦争協力を始めたのか、そしてそう至った状況がいかなるもので、市川としてはどのような意図を持っていたのかを、「戦時中の戦争協力」と十把一絡げに断罪するのではなく、丁寧に追ったのが本書である。


教師、ILOの職員を経て、市川は「婦選」運動に専念するようになる。市川は総合的な政策ではなく、女性参政権に同意してくれる候補者を支援するという方針をとった。これには当然無産政党の支持者からは不満が出るし、吉野作造なども婦選さえ唱えれば誰でもいいのかと、これを無定見であると批判した。しかし市川からすれば、確かに無産政党は婦選に賛成しているが、何よりも大事なのは議会での多数派の支持を得ることであり、無産政党のみを支持することはそこから遠のくことだと映ったのだろう。

市川は基本的には平和主義者であり、満州事変以降も反軍拡を主張した。女性参政権を要求しているのであるから当然民主主義者であり、近衛文麿のファッショ的体質を早くから喝破し、軍部独走やファシズムの台頭に警鐘を鳴らした。しかしズルズルと日中戦争が深みに入り込むうちに、フェミニストたちもある選択を迫られる。戦争の拡大を支持せずに沈黙するのか、逮捕、入獄を覚悟して反戦を訴えるのか、ある程度の妥協をしてでも発言の機会を保ち、社会への影響力を持ち続けるべきなのか。

盧溝橋事件により日中は前面戦争へと突入する。市川は最早後戻りする道はないのだと考え、発言の機会を確保し続けることで女性や子どもの立場を少しでも守ろうと、消極的な協力へと移っていく。この時点では市川はファナティカルな日本主義には陥ってはいないように見える。すでに幾人ものフェミニストがファナティシズムにおかされていたことを思えば、様々な国策委員を務めつつも、良識をぎりぎり保ち続けていたとすることもできるかもしれない。一方で市川は、中国東北部での日本の権益保持については当然視してもおり、山川菊栄が早くからこれが帝国主義によってもたらされた侵略戦争であるという見方をしていたことと比べると、当時としても状況認識は非常に甘かったとすることもできるだろう。

そして市川は「大東亜戦争」へと突入する直前、つまり中国のみならずアメリカをはじめとする連合国との戦争に入らんとする時期には全面的な戦争支持へと転じ、ついには婦人義勇隊及戦闘隊構築への関与までしていくことになる。
本書でも取り上げられているように、中国との戦争についてはこれは侵略であるとの疚しさを感じていた人も、英米との戦争ならば「解放」のための戦争だと正当化できると感じ、それまで戦争に反対していたり疑問を覚えていた人までもが雪崩を打ったように戦争賛成へと転じていった。これは市川のみに見られる現象ではないが、しかしまた、市川の足取りはそれだけではないようにも思えてしまう。


市川の「現実主義」的な面を、著者は必ずしも否定的にのみ評価しているのではないだろう。しかし本書を読むと、この「現実主義」の陥穽に市川はどっぷりとつかってしまった結果あのような行動まで取るようになってしまったのではないかとも思えてくる。

理想に頑なに固執した結果現実を少しも変えられないよりも、現実を少しでもマシなものにするためには多少の妥協もやむを得ないという「現実主義」は、現在でも(あるいは現在の方が)肯定的に使われることが多いだろう。しかし「現実主義」の結果単なる現状追認に堕し、権力からいいように使われるだけに終わるというのもよく目にするところである。ここでやっかいなのは、「現実主義者」には、当人の主観的には「無責任に理想を頑なに振り回す連中と違って自分はこの世界を少しでも良くするためにやっているのだ」という自己正当化の意識が強く働くことだろう。

著者は自民党から民主党への政権交代を好意的に評価し、その流れを生みだしたものの一つに市川の政治的遺産をあげている。しかし2015年に本書を読むと、むしろ民主党がこの括弧つきの「現実主義」へと陥り、その結果として壊滅的な状態に陥ったことに市川の負の遺産を見出したくもなってくる(まさにこの「現実主義」へと舵を切ったのが、市川と縁の深い管直人であったこともこの連想を強めてしまう)。

本書の中で最もグロテスクに思えるエピソードは、フェミニストであり平和主義者でありインテリでもあったはずの市川が「大東亜戦争」期にファナティシズムに染まってしまったことではなく、1976年にもなって、『石原莞爾全集』の刊行にあたって推薦文を寄せ、石原を「偉い軍人」だと称えていることだ。市川が消極的ながらも戦争協力の道を歩み始めると、多くの軍人とも会見するようになる。石原もそのうちの一人で、市川は石原の頭脳や胆力に魅了されたようである。そして満州事変をはじめ、石原こそが日本を泥沼の戦争に引きずり込んだ張本人の一人であることが明らかになった後にも、市川は石原への評価を改めることはなかった。

市川は戦後、ある程度は自らの戦争協力とその責任とを認めているが、それは「ある程度」と留保をつけざるをえないだろう。市川は日本と中国の女性たちが相互理解を深めることによって日中に平和をもたらすことができると考えたが、平時ならともかく、日本が中国奥深くにまで攻め入っていてもまだこのように考えていたのである。このように自らの加害性についての認識は極めて薄く、またこれは市川のみならず多くの日本人に共通するものだろう。

市川はその「現実主義」によって戦争協力へとたどり着いてしまったとすることもできるのだが、その結果として、女性や子どもたちのことを考えれば仕方がなかったのだという意識がどこかに残り続けたのかもしれない。そしてこの「仕方がなかったのだ」という意識こそが、日本が加害性と向き合えない大きな要因の一つでもあろう。


著者は市川の戦争協力について、従来の「告発」型の言説とは距離を置こうとしている。無論市川を救い出そうとしているのではなく、市川の歩みを丁寧にたどることでその実相を描こうとしているのであって、本書は労作と呼ぶにふさわしいものでもあろう。しかし著者の市川への評価はやはりいささか甘いのではないかという印象も否めなかった。僕自身がどちらかというと括弧付きの「現実主義」に流されやすい人間であり、そうであるからこそこれに対して警戒的であらねばという思いがあるので、そういった読み方の結果としてそのような印象が強まってしまったのかもしれないが。
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佐藤太郎(仮)

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