『陰者の告白』

平野威馬雄著 『陰者の告白』




「わけを知っている友だち」は、「きみの十五年間はちょっと謎めいているね」、「転落のスリラーだね」と言う。事情を「あまり知らない人」は、「あなたは、あの十五年間、どちらか、海外にでもおいででしたか?」と言う。「パリーだったそうですね。あちらでは、さぞかし、ずいぶん御さかんだったことでしょうね」などと水を向けられると、「いいや、大したことはありません。どこへ行っても、日本にこしたところはないですね」などとこたえてしまう。しかしこのようにして、二重三重にうそをかさねていくことは、重苦しい負担にもなっていった。

「この、誰もしらない、従って、誰にも明かさなかった、かなしい、いまわしい十数年の空白を、ぼくは今、静かに反芻してみる」。幾度も筆を取り、その度に筆を捨ててきたが、「どの程度まで、ほんとうのことを書けるか」、「一寸自信がない」ものの、やはりあの日々を振り返らねばならない。


平野威馬雄はフランス文学者であり、自身が「混血」として差別された経験から「レミの会」を主催し「混血児」の救済運動を行い、また「競輪廃止運動、麻薬追放運動、空飛ぶ円盤の研究、お化けを守る会など既成の枠にとらわれない活動でも知られた」(文庫カバーの著者略歴より)。現在では平野レミの父親というのが一番通りがいいかもしれない。

あの十五年間、平野はコカインをはじめとする麻薬中毒に苦しみ続け、前妻をはじめ数多くの人に多大な苦しみを与えてしまったのだった。「息子や娘たちが、この文章を読まないでくれるように、出版されてもこの本だけは、かくしておくことにしよう。装幀をしたりさしえをかいてくれるレミの旦那である和田誠くんにだって、よませたくない。だが、和田くんは、急がしい人だからこの原稿なんか、こまかに読むことなしに、いそいで、さしえだけかいて、編集に渡してしまうだろう……そうあれかしと祈りながら、書きつづけることにする」。
あの日々から数十年たってもこう思うほどの、凄まじい体験だった。ちなみに「こまかに」読んだのかどうかはわからないが、和田誠のドラッギーでシュールな挿絵も多数収録されていて、これも楽しめる。



はじまりは大正11年だった。平野はひどい蓄膿症と涙腺縁の手術をした後遺症か、「すこし風邪をひくと完全に鼻孔がふさがり、顔面が猿のようにまっ赤」になってしまう。文壇に名を馳せていた評論家Tを兄に持つ級友のSから、兄が常用しているいい薬があると言われた。Tは「くせがついたら一寸やそっとでやめられなくなる」ので「あまりすすめたくない薬」だとしつつ、綿棒の先に脱脂綿をつけ、壜の液体に浸けると、鼻の孔に入れてくれた。鼻づまりがたちどころになくなり、「生きかえったように爽やかな気持ち」になると同時に、「異物が気道に粘りついた」ような感覚もあった。

コカインだった。
Tは「ほんとに恐ろしい」、「一度でやめるんだね」とこんこんと忠告したが、Sは「このくすりを使ったら、字引がいらなくなるぜ」とにこにこしながら言うのだった。この言葉の通り、「鬼門中の鬼門」であったスタンダールの原書がすらすらと読めるようになっているではないか。「字引がいらない……という表現がそのままあてはまるわけではないが、忘れていた文法や繋字や単語が、なんの抵抗もさわりもなく、円滑によみがえってくるのだ……たった一度の吸引で、この奇蹟は何ということだ!」。
こうして平野はコカインにはまっていくことになる。

関東大震災が起こり、平野家の近所でも「朝鮮人の夫婦と二人のかわいい子が、竹槍でさし殺され、むごたらしい屍」となり、平野とファーブル昆虫記などを共訳していた大杉栄も、震災後の混乱に乗じて殺害された。しかしこの震災の結果、薬局でコカインを買うことができなくなり、また昆虫記の訳を続ける勇気もなくなってしまったことから、コカインを吸うこともなくなった。妻や母は「ほんとによかった……うちでは大地震様々だ」とよろこんだそうだが、これは麻薬中毒となってしまった夫/息子によってどれだけつらい生活を強いられるようになったかということの裏返しの言葉だろう。

しかし平野はこれを機にコカインをきっぱりと断つことはできなかった。「コカインは人をめちゃめちゃ孤独にする」。性格も変わり、収入も減る。「コカインだけが、ぼくのすべてになった」平野は、家にある書画や骨董を売り払い、妻は子どもたちのために内職をするようになった。
一念発起、この状況を何とかしようと精神病院への入院を志願するのだが、本当の地獄はこれから始まるのであった……。

と、以降壮絶な麻薬中毒体験とそれがもたらした様々な悲劇が語られることになる。
本書はいくつもの読み方ができるが、まずなんといっても麻薬体験記としての面だろう。こういった本は数多く書かれており、平野は文学者らしくその中からボードレールをはじめいくつも引用している。予備知識なく本書を読んだなら、本書はこれらを基にしたフィクションのように思えてしまったかもしれない。平野は麻薬を断って数十年してから執筆しているので事後的に記憶が刷り込まれてしまったということもあるのかもしれないが、麻薬がもたらしてくれたかのように思える驚異の体験というのもしょせんは人間の脳が作り出していることには違いなく、そこには限界があり規定されたものに留まるということを表しているのだろう。

本書はまた社会史としても読むことができる。平野は処方箋を偽造してコカインを薬局から買うことになるのだが、これはつまり、当時はコカインが薬局で買えたということでもある。その他にも様々なドラッグを試み、無意識に万引きをしてしまうなどして何度も警察に捕まり、ブラックリストにも載せられているのだが、いずれもせいぜい数日で釈放されている。コカイン等の使用を当時は法的に取り締まることはなかったようだ。
皮肉な現象として、法改正は戦時色が強まることによってなされた。「政府は麻薬が近代国家建設の精神をむしばむことをおそれ、西欧なみの法律を決めた」。一方で「満洲事変から日華事変にまで突入した日本では、戦争とは別に、華僑や人民をあやつるテクニックとして、軍属たちが、しきりとアヘン窟を保護した」。そして「軍夫狩り出しに一役買った町のやくざとその親分たちは、ひそかに麻薬のルートを条件として軍部に媚を投げた。/だから、あらゆる種類の麻薬が、おもてむきは輸入杜絶と取り締まりの厳しさにかくれて氾濫していった」。
平野は1930年代をまるまるジャンキーとして過ごすことになるが、言葉を変えれば当時の日本では麻薬の入手を含めそのような生活が可能だったということでもある。軍部と結びついたやくざはヒロポンの横流しなどによって儲けたようだ。

そして本書は、奇跡的に麻薬中毒から帰還をはたした男の物語でもある。
放浪生活を送り、カネもなく、当然家族関係は崩壊する。そんな平野に、暴力団的な団体の機関誌から原稿の依頼がある。右翼の雑誌に書くなど気は進まなかったが、背に腹はかえられなかった。ある日、平野にこの仕事を持ってきてくれた青年がトラブルに巻き込まれて困っていると相談にきた。ここは恩を返そうと平野はトラブルの元となったバーに行く。そこで智子と出会った。この女性こそ、レミたちの母となる人だ。妻に二人の関係が露見し、夫婦は別れ、平野は智子と新しい生活を始める。しかし相変わらず麻薬は止められず、やくざからは智子を「お座敷」に貸してはもらえませんか、と脅迫まがいのことをされるようになる。

「コカインさえしなければ、ほんとにいい方なのに……」と耐えに耐えてきた智子は、ついに意を決する。平野に泥棒をするように勧めるのだった。智子の兄は医者で、その薬局からならコカインが盗めるというのだ。平野の頭にもそれがよぎったことはあったが、身内に迷惑はかけられないと抑えていたのだが、ついに決行することにする。あっさりとコカインを盗み出した。いつもは1グラムだ0.5グラムだというのに、1オンスが3壜も手元にあった。平野は夢中で、大量のコカインを溶かして吸い込んだ。そして意識を失う……。

智子は捨身の賭けに出たのだった。もし過剰摂取で死んだら、後を追おう。もし生き返ったら、全ては解決するだろう。大量のコカインを手にすれば無茶をすることを承知で、見てみぬふりをした。平野は死線を彷徨い、智子の兄は何度も匙を投げかけたが、ついに平野は意識を回復し、そして目の前にあったコカインの壜を庭に投げつけ、叩き割るのだった。


と、すごい体験であるのだが、また別のところに目がいかなくもない。智子からの手紙がうっかり発見されてしまった時、妻は「いくじなしのくせに、女のことだとすごいウデなのね」と嫌味を言うのだが、確かにあの状況でよく新たに女性と付き合えたものだと思う。そして前妻とのあいだに6人の子どもがおり、さらに麻薬中毒の最中にも智子とのあいだに3人の子をつくっているというのはどういうことなのか(レミは平野が麻薬を断った後の、戦後生まれである)。

また医者である智子の兄は最後に、「さあ……たばこをすわないか?……これからは、たばこの味も、一段とさえてくるよ」と言うのだが、ようやく麻薬を断つ決意を固めた人にそれを言うか? という気もしてしまうのだが、当時はたばこの中毒性というものがあまり考えられていなかったのか、あるいは害の比較的少ないものに依存させることでハードドラッグから逃れさせようとしたのだろうか。現在では麻薬中毒だった人はたばこや酒というのはどういう扱いになっているのかな。

戦間期の日本の麻薬事情についての研究は当然探せばあるのだろうが、論文をあさるほど深く興味があるわけではないので、新書あたりで気軽に読めるものでもあればいいのだけれど。



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佐藤太郎(仮)

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