『トレブリンカ叛乱  死の収容所で起こったこと 1942-1943』

サムエル・ヴィレンベルク著 『トレブリンカ叛乱  死の収容所で起こったこと 1942-1943』




1943年8月、ポーランドのトレブリンカ強制収容所で叛乱が起こった。「訳者あとがき」によれば、鉄条網を越えられたのはわずか100名ほどだったため、生還者たちはこの蜂起を完全な成功とは評価していないようだ。脱出に成功し生き延びた数少ない一人が本書の著者、サムエル・ヴィレンベルクである。この手記はヴィレンベルクがゲットーからトレブリンカに送られ収容所で過ごした約一年と、その後ワルシャワ蜂起に参加、その敗北後パルチザンとソ連軍が合流するまでを綴ったものである。


ゲットーを追放されトレブリンカへ送られる列車が停車すると、「ユダヤ人だ。お前ら、石鹸にされるんだぞ」という声が聞こえた。
広場でユダヤ人たちが一箇所に集められると、依然どこかで顔見知りだったような気がする、華やかな色のネッカチーフを巻いた男が、「大工だって言わなくちゃだめだぞ」と言った。ユダヤ人たちは全裸にさせられたが、SSが「大工はどこにいる」と怒鳴ったためヴィレンベルクが前に出ると、小屋に蹴り入れられた。全裸にさせられ殴りつけられ血まみれになった人々が、「おれたちは殺されるんだ!」と絶望的な声をあげるのを耳にしても、ただ一人薄汚れた服を着たままだったヴィレンベルクはどうすることもできなかった。

一人小屋に残されたままになったが、そこに幼馴染の友人がやって来た。「ここでは何が起こっているんだ、いったいどこにいるんだ?」とヴィレンベルクがたずねると、「トレブリンカにいるんだ。死の収容所……」という言葉が返ってきた。ポーランド人から浴びせられた「石鹸にされる」「行き先はガス室で、皆殺しだ」といった罵声の意味がようやくわかった。「本当のこととして、とうてい受け容れられなかったことのすべてが、正しかったのだ」。
広場にいた人たちは皆殺しにされた。そしてヴィレンベルクは「移送囚から逸れ、生きる特権を得た」のであった。

収容所では班長やカポが「働け、働け、もっと早く急げ」とどなりちらした。「働けば自由になる」という言葉が多くの強制収容所で掲げられたが、これは働くことのできないない人間は即殺されることを意味する。囚人たちは生き延びるためには、なんとか体力を保ち、労働に耐えうることを証明しなければならなかった。囚人の監視にあたっていたのはウクライナ兵で、それをさらにSSが監視した。ウクライナ兵は残虐で反ユダヤ主義に染まっていたが、また買収することも可能で、彼らを通じて食料などを入手することもできた。

そんな状況でなぜ脱走を試みなかったのか。一見すると脱走可能なようだが、これは罠で容易に銃弾を浴びせられた。それでも脱走に成功した者もいたし、残りの者は発見を少しでも遅らせようと様々な工夫をしたが、後に脱走者一人につき十人を処刑するとされたことも脱走をためらわさせた。また仮に収容所から出ようとも、その後どうすればいいのかという問題もあった。


自身も囚人であるホロンジツキ医師はヴィレンベルクに青酸カリを渡すとこう言った。「お前がポケットから青酸カリをとり出して自分が使いたいと思ったときにそれを使うということが、お前に一層自信をもたせよう。自分の生命は自分が握っていると感じていると、ここでは生き延びやすいのだ。こうした錠剤持っていて、いざという時には、それを使おうと考えている人でも、最期に自分を待ち受けるものが何なのかを信じようとしなかった人がいることを知らなくてはならない。素裸になってガス室までの死の道をSSの棒で叩かれ走って来たとき、青酸カリは衣類の中に入ったまま広場に置かれている。毒をのみ干そうという精神力も勇気もなかったのだ」。
「自分はこの地獄を生き延びる」という希望を持ち続けなくてはならない。しかし偽りの希望にすがりついてもならないのであった。


ヴィレンベルクが送られた頃のトレブリンカ収容所の運営は混乱したものだった。42年9月に新たに所長に就任したシュタングルは新たな規則を作り、より「効率的」なものになった。つまり囚人たちの管理はより厳しくなり、またより大量の殺人が行われるようになった。同時にドイツ人は「トレブリンカにおける犯罪を隠蔽しようという決意」も持っていた。これはシュタングルらが単に命令に従っただけで善悪を判断する能力が麻痺していたのではなく、許されざる悪業をなしているとわかったうえで収容所を運営していたことを示すものだろう。


43年4月のある日、「風変わりな移送車がトレブリンカに到着した」。監視にあたっているウクライナ兵たちは武装し、車輌のどこかから覗くだけで銃撃を浴びせた。このユダヤ人たちは「監視兵と途中で正々堂々戦ったのだ」。移送者の一人が手榴弾を隠し持っており、ピンを抜いた手榴弾を上着に入れ受け取り役の囚人に投げつけた。この爆発に「一番驚きあわてたのはドイツ兵たちだ。すべてのSSはその場からさっと逃げた。化物ドイツ兵、SS将校、彼らはびっくりして、いつもは強そうな振りをしているのに、卑劣で嘲笑される臆病者のように広場からチョコチョコ逃げ出した」。
「このほとんど想像しがたい出来事がわれわれの目を開かせた。ドイツ兵たちはおびえているように見え、われわれは多分強いのだということを突如自覚したのだ」。

新たな移送者はワルシャワ・ゲットーで起こった蜂起を知らせてくれた「ユダヤ人の蜂起は心を暖め新しい力をわき上がらせ、新たな決心をさせることになった」。武器庫の合鍵を秘かに作り、脱出に備え埋めて隠してあった金などを掘り起こした。
そして43年8月2日がやって来る。本書の表紙に使われているのは鉄道労働者が遠方より撮影した、トレブリンカ収容所がその叛乱によって火を放たれ黒々とした煙をあげている写真である。監視塔から銃弾が容赦なく浴びせかけられる中、仲間の死体を乗り越え、足に銃弾を受けながらも、ヴィレンベルクはなんとか収容所を脱出する。


トレブリンカやアウシュヴィッツなど、ポーランドに強制収容所が作られたのには複数の理由があったとされる。地理的にナチス・ドイツ支配地域のほぼ真ん中に位置したことや、鉄道が整備されていたため大量移送が可能だったことなどと並んであげられるのが、ポーランドにおける激しい反ユダヤ主義だ。強制収容所の周辺の住民は、たちこめる匂いと立ち上る煙から、強制収容所で何が行われていたのかを知っていた。それでも収容所が成立したのは、周辺住民の黙認があったためだ。

とはいえ、もちろん全てのポーランド人が反ユダヤ主義に凝り固まっていたのではない。ヴィレンベルクがトレブリンカを脱出すると、彼が何者かを承知しつつ見逃してくれたり、また食料などを援助してくれる人もいた。小さな田舎の家に入ってみると、若い女性と小さな男の子がいた。女性はぎょっとしたが、飲み物を下さいと頼むと、黒パンとチーズとバターもくれた。むしゃぶりついていたヴィレンベルクに、この女性は「もしかして……から」と田舎訛ではっきりしない方を指差した。トレブリンカから逃走してきたということに気づいたのだ。そうだとうなずくと、その女性はヴィレンベルクを抱きしめキスをした。

混乱状態にあるポーランドの状況もヴィレンベルクに味方した。知り合った「街の犯罪者」風の若者は、カネさえあれば偽のIDを用意できると持ちかけた。ヴィレンベルクがした、ユダヤ人少年から金を奪いそこをドイツ兵に見つかって撃たれたのだとの嘘の説明を信じはしなかっただろうが、金を払うと実際に偽造身分証明書を作ってくれ、商売の仲間にならないかとまで誘ってくれた。おそらくはヴィレンベルクに同情したわけではなく、「それが占領下で生きる方法」だったのだろう。

こうしてワルシャワにたどり着くと、そこでは父が聾唖者のふりをして暮らしていた。言葉の訛で身元が露見するのをおそれてのことだった。ヴィレンベルクはポーランドの地下組織の人々と知り合い、44年8月を迎える。このワルシャワ蜂起で、ヴィレンベルクは二重の裏切りに直面する。目と鼻の先にいるソ連軍は傍観を決め込み、蜂起した人々を見殺しにした。ポーランドの地下組織には「最右翼」のAK(国内軍)から「最左翼の傾向」にあるPAL(ポーランド人民軍)などがあった。ヴィレンベルクは当初PALのメンバーと知り合ったのだが、行きがかり上AKに加わって戦っていた。劣勢になるに従い、AK内部の反ユダヤ主義が露となっていくのであった。

ヴィレンベルクはPALの女性ステファと再会でき、再びPALに加わる。しかしそのステファは、命令書を走って運ぶ途中に砲撃を受け死亡する。「ひどい報せに衝撃を受け、涙が頬を流れ落ちていくのを感じた」。「映画の中にいるように、心の眼が食料品店でのステファとの初めての邂逅を再演した。彼女の輝く姿、私がドイツ兵から奪ったピストルをいくつも入れていた大きなハンドバッグを思い出す。ステファは生命をかけて、この住所へ、あの住所へと、このピストルを配りながらワルシャワの通りを歩いていったのだ」。
ヴィレンベルクとステファの出会いや彼女が危険を冒して行っていたことは本当にまるで映画のようであるが、その死も含めて、これは現実に起こったことだった。

ヴィレンベルクらはなんとかワルシャワを脱出し、ポーランド人に匿われながら、ついにソ連軍と合流できた。ソ連兵はうれしそうにこう挨拶した。「こんにちは、仲間たち! 母国のために――ベルリンへ進軍!」。しかしヴィレンベルクは、「「母国か? 母国?」誰のために私は闘っているのだ?」という思いにとらわれるのであった。


本書のもととなったのはポーランド・ユダヤ中央委員会ウッチ支部が1948年にヴィレンベルクに行ったインタビューだという。しかしこの手稿が出版されたのは、それから約40年たった86年のことだった。「彼が次代の人々に語り継がねばならないと考えていた手稿を封印状態にしていたのは、いわゆるホロコーストの犠牲者と異なり、同胞にたいする筆舌に尽くし難い罪悪感が重くのしかかっていたからであろう。自分自身が生き残るためにドイツ側に手を籍したことになるからだ」(「訳者あとがき」)。

すでに書いたように、ヴィレンベルクはトレブリンカに送られたものの特別の計らいにより生き延びることができた。またトレブリンカから脱出後に再会した母から、町のユダヤ人の大部分はトレブリンカに送られたが、「ユダヤ人評議会員と家族、それにお金持ちの家族」が「サンドミェシュに彼ら用に特に新しく建てられた収容所へ連れて行かれ、そこで彼らは生きていた」という話を聞かされたと書いている。ハンナ・アーレントが『イェルサレムのアイヒマン』でユダヤ人社会から猛反発をくらったのは、アイヒマンを「陳腐な悪」と評したことのみでなく、ユダヤ人評議会に関わる記述に依るものでもあった。ユダヤ人評議会に関する話は非常にセンシティブなものでもあり、このあたりも影響したのかもしれない。ヴィレンベルクは自身を含めユダヤ人を聖人化して一切のネガティブな描写を排除しているのではなく、それが今読むとより実態をよく表しているようにも思えるのだが、こういった部分は反ユダヤ主義やそれに基づく陰謀論にも利用されることもあるので慎重になったのかもしれない。

訳者の近藤康子は、85年にクロード・ランズマン監督の『ショア』が公開されたことが本書を公にする契機になったのかもしれないと推測している。強制収容所に潜入した経験を持つ、『私はホロコーストを見た』のヤン・カルスキは、ランズマンのインタビューに8時間も応えたのに使われたのはわずか40分だったと不満を表明している。『ショア』には本書にも登場するフランツ・ズーホルメが「SSの代表として登場」している。トレブリンカには「驚くほどのユダヤ人の財宝、金貨等が集まっていた」。本書にも記されているように、ヴィレンベルクがトレブリンカ脱出後に生き延びることができたのはこの金のおかげであったのだが、『ショア』では「金貨等」についての言及はない。ズーホメルは本書では「収容所で移送者たちをガス室に送り込むSSであった」ことが描かれていたにも関わらず、これについても『ショア』では述べられておらず、また叛乱についても「なにも語ってはいない」。そしてズーメホルトが禁固六年の刑に服したことも明らかにされていない。
ランズマンは収容所について誤解を招きかねない部分や、「逃げ腰」のSSというズーホルメのイメージと異なる部分を排除しようとしたのだろうか。そのあたりの意図はわからないが、ヴィレンベルクはこれを受けて手稿を出版しようと決意したのかもしれない。

ヴィレンベルクはその後イスラエルに移住し、現在も存命中である。ウィキペディアも参照。

こちらはBBCで2011年に取り上げられた時のもの。

こちらはトレブリンカ叛乱70周年の時のポーランドのニュース。



2015年のワルシャワ蜂起71年目の記念式典の時かな。




本書にも描かれているように、ポーランドには根強い反ユダヤ主義があったが、また命をかけてユダヤ人を救おうとした人々もいたことも確かだ。このあたりについては「訳者あとがき」に以下の二冊があげられている。




トレブリンカ収容所はコルチャック先生が殺害された収容所でもある。




トレブリンカ収容所所長だったシュタングルについては、彼の死の直前のインタビューもふまえ『人間の暗闇』という本になっている。




『ショア』や強制収容所の表象の問題については『イメージ、それでもなお』も参照。





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