『スター・ウォーズ / フォースの覚醒』

『スター・ウォーズ / フォースの覚醒』



世の中にはうっかり「好き」だと口にするとえらい目にあうものがあるが、「スター・ウォーズ」もその一つだろう。昔軽はずみに好きだと言ってしまい、マニアックな話をふられ続けて往生したことがあった。好きか嫌いかの二択でいうともちろん好きではあるが、過去六作は観ているもののアニメなどのスピンオフ、小説などの準公式は一つもチェックしていないし、とりたてて評論をあさったり情報を収集したりといったこともしていない。裏設定どころか基本的な設定ですらどこまで把握しているかはかなり怪しい程だ。

逆にいうとその程度の「ファン」である人間にまで失望感を与えたプリクエルの破壊力やなんたるものかと、あらためて思ってしまう。個人的にプリクエルで一番がっかりしたのは、「これじゃゲームだよ」という感じの映像であった(ゲームファンには申し訳ない言い方だけれど)。ブルーバックでの撮影が多かったプリクエルは、「スター・ウォーズ」の魅力の一つであった「生身」の感覚をそいでしまっていた。もし「スター・ウォーズ」が最初にアニメで作られていたら、どれほどクオリティが高かったとしてもこれほどの人気を集め、持続できたのかは微妙だったのではないだろうか。

『フォースの覚醒』の成功はなんといってもこの「身体感覚」を蘇らせたことにあるだろう。これに象徴されるように、撮影技術のみならず、ストーリーにおいても旧三部作へのオマージュを充溢させるとともに、プリクエルの失敗を半面教師として作られている。


ただ「生身」の感覚を全面に出すことは諸刃の剣になっているようにも思える。本作と過去六作との最大の違いは血だろう。なにせ手首から先を切断されようとも血が流れることがなかった過去作と違い、本作には血が流れる。しかもストーム・トルーパーが血を流すのである。

「スター・ウォーズ」をテレビでちらっと見たことがあるという程度だと、少なからぬ人がストーム・トルーパーをドロイドだと思っているかもしれない。しかし本作ではストーム・トルーパーも「人間」であることが描かれる。「敵」もまた人間であるという描き方はエンターテイメント作品においても最早常識的なものであるが、しかしそう考えるとストーム・トルーパーを殺しまくり、その死体が大量に転がっていても平然としているレジスタンスの面々はいかなる神経をした人たちなのかという印象にもなりかねない。こういう場面ではまたストーム・トルーパーは生命を持たないかのようなドロイド的存在へと戻り、ばったり倒れてあっさり死んで、もがき苦しむこともなければ血を流すこともない。御都合主義というか中途半端なものに留まっているようにも映るが、今後はどうしていくのだろうか。


「スター・ウォーズ」は第一作が公開された1977年の時点においても、例えば「スター・トレック」と比べると保守的だとしていいだろう。EP4が最後に「お姫様」から勲章を貰って幕を降ろすのは象徴的である。「スター・ウォーズ」のヒットの要因は様々にあるが、その一つが「古き良き活劇」を蘇らせたことにある。昔話がそうであるように、保守性を帯びることによって物語として多くの地域や民族で共有されてきた(あるいは共有しているかのように思えてしまう)、ある種の普遍性にもつながっているという面もあるだろう。

本作ではある程度現代的にアプデートされているのだが、しかし一度アップデートしてしまった以上これからもアップデートし続けなくてはならないことになる。
本作はほとんどEP4を中心に旧三部作(プラスEP3)のリメイクといっていいほどだが(個人的にはちょっとやりすぎのようにも感じられてしまった)、ここにレイとフィンがこれに加わることで、「もしもスター・ウォーズの世界に入ったら」といったパロディコント的に見えてしまうようなところもあったが、これなどこの弊害の一つだろう。

このあたりがうまく働けば「現在」の観客にとっては非常に楽しめるが、では38年後の観客がこれを共有できるのかというと微妙かもしれない。おそらくこのあたりはJ・J・エイブラムスをはじめとする製作陣はある程度割り切っているのではないだろうか。

「スター・ウォーズ」の構想を練る際にジョージ・ルーカスがジョゼフ・キャンベルの『千の顔を持つ英雄』を参考にしたのはあまりに有名だが、その結果なのか、ルーカスは「神話製作者」になることに誇大妄想的情熱を抱き、それがプリクエルの失敗につながったようにも考えられる。

「スター・ウォーズ」は保守的ではあっても政治的には反動ではない。「帝国」は明らかにナチスを連想させる。プリクエルでは、秩序を守るためとして正当化される政治における独裁の誘惑と、愛する人を守るためとして正当化される個人による強大な力への誘惑を平行して描き、この両者が結合することによってナチス的な悪夢的全体主義が生まれることを描こうとしたのだろうが、いかんせんそのあたりの手綱さばきがうまくいかず、退屈な議会場面や恥ずかしいだけの恋愛描写となってしまっていた。『フォースの覚醒』ではよりあからさまにナチス的イメージを使用しているが(「ファースト・オーダー」という名称からしてそうだ)、しかしそれでいて(少なくともこの作品においては)政治的含意はほとんどゼロだといっていい善悪の切り分け方をしている。これによって「深遠」にして「壮大」な物語にしたいというルーカスの空回りした意欲が陥った失敗からは逃れられているかもしれない。

その分キャラクターとしてもストーリーとしても「軽く」なっているし、それが「今っぽい」のかもしれないが、これによってある種の普遍性も失われかねない。『フォースの覚醒』で最も意見が分かれるのがカイロ・レンのキャラクターだろう。個人的にはあれではいくらなんでも「軽」すぎないか、と思ってしまった。『アベンジャーズ』の兄弟喧嘩と同じようなものじゃん! という感じがしたのだが(いろいろとちょっと『アベンジャーズ』っぽかったような印象もある)、それをいうなら旧三部作だって親子喧嘩に違いはないだろうという反論もあるかもしれないが、ルーカスは良くも悪くも神話的、あるいはシェイクスピア的悲劇を連想させようとしていたことと比べると、是非はともかくやはり軽量化されていることは間違いないだろう。まあレンとフィンの関係の「軽さ」なんかはうまくいっているように思えたし、このあたりは好みの問題といえばそれまでだが。

『フォースの覚醒』で一番ひっかかったのは、フォースやライトセーバーの扱いの「軽さ」だった。まったくライトセーバーの訓練を積んでいない人間がいきなりそれなりに使いこなせてしまうというのはいかがなものかと思わざるを得ない。訓練を積んでフォースとライトセーバーをそれなりに使いこなせているはずのキャラクターと、全くその訓練を積んでいないキャラクターがある程度とはいえやりあえてしまうというのはジェダイの軽量化にもつながってしまうだろう。これから某キャラクターは修行に励むのだろうが、その前にEP4におけるルークと同じように簡単にでもいいので最低限の訓練を経験させるべきだったのではないか。「スター・ウォーズ」の大きな魅力の一つがフォースという設定とライトセーバーでの闘いにあることを思えば、このあたりはもう少し大事にしてほしかった。

逆に一番好きだったのはレイの初登場のシーンで、あのあたりは非常に『ナウシカ』っぽかったが、『怒りのデス・ロード』もそうだが宮崎作品の雰囲気を実写で出されるともうこれだけでまいってしまう。


これも散々言われているように、「スター・ウォーズ」シリーズは一作ごとの作品単体としての完成度は決して高くない。ざっと見返してみたのだが、旧三部作だって相当に強引かつ御都合主義的展開にあふれている。なんだかグジグジ書いてしまったが、作品単体で見ると『フォースの覚醒』の完成度は決して劣るものではないだろう(というか帝国軍もファースト・オーダーも間抜けすぎという点では負けず劣らずだが、そうでないと話が終わってしまうので……)。

過去作にオマージュを捧げつつその欠点を修正するという点では、シリーズもののリブート第一作と考えれば充分に合格点がつけられるだろう。ただ今後もリメイクに近いオマージュを続ければ単なる焼き直しとなってしまうし、一方で面白いのかもしれないけどこれじゃ「スター・ウォーズ」っぽいだけの別物だよね、ということになってしまいかねない危うさというのもあったようにも思えた。これに続く二作品のこと思うと、『フォースの覚醒』は様々な面で「諸刃の剣」である作品なのかもしれない。



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