『赦すこと  赦し得ぬものと時効にかかり得ぬもの』

ジャック・デリダ著 『赦すこと  赦し得ぬものと時効にかかり得ぬもの』




1991年から2003年にかけて、デリダは「責任=応答可能性の問い」という総タイトルで複数の大学で講演を行った。その中の1997年から99年にかけて行われた「偽証と赦し」についてのセミネールの第一回を収めたのが本書である。

デリダについてよく言われるのが、「書いた」ものより「語られた」ものの方がとっつきやすいということである。本書は90年代以降デリダが取組んできた「歓待」や「贈与」といったテーマに連なるもので、そのあたりの文脈を先にふまえていた方がわかりやすいかもしれないが、読む者を拒むような理解不能な本とはなっておらず、デリダの著作になじみがない人でもその思考を辿っていくことは可能だろう。

脱構築とは何か、それは問い続けることだと僕は理解している。デリダがいうところの正義とは、揺るぐことのない絶対的な「答え」を提示することではなく、不断の問いかけを続けることなのだと、個人的には考えている。従ってデリダに批判的な人がいうような、全ては決定不可能であるのだからあらゆる判断を宙吊りにすべきだというような相対主義的なニヒリズムではない。実際に、とりわけ90年代以降のデリダはむしろ普遍的価値観へのコミットメントを強めていった。脱構築は正義である、と語るようになったデリダの言動が矛盾したものになっていったのではなく、こういったコミットメントをしつつまた問い続けること、そして問い続けつつコミットメントすること、それこそが脱構築なのではないだろうか(素人考えなのでデリダを研究している人からするとピント外れもいいところかもしれないが)。確かに6、70年代のデリダの著作からこのような流れが必然であったとすることはためらはれるが、しかしかといってかつての主張から真逆の方向へと変貌を遂げたということでもないだろう。デリダが「歓待」や「贈与」、そして「赦し」といった問題を取り上げるのは、これらがまさにアポリアであるからだ。そしてこれらがそうであるからこそ、希求し、問い続けなければならない。

「「赦し」についての分析、「赦し」の分析は、終わりなきものである」。


「赦し」という一語に、「人はつぎのような一つの暗黙の文の全体を、一つの行為遂行的〔パフォーマティブ〕な文を、すでに聴き取ることができる」。「お赦しを! 私はあなた=あなたがたに赦しを乞います、私はあなた=あなたがたに〔vous〕私を赦してくださるようお願いします、私はきみに〔te〕私を赦してくれるようお願いします、私を赦してください、どうかお願いします――私を赦してくれ、お願いだから」(p.14)。

それにしても、「いったい誰が赦すのか、あるいは誰が誰に赦しを乞うのか、どのような瞬間に? いったい誰にその権利があるいは能力=権力があるのか? 「誰が誰を赦すのか?」。ここでの「誰」とはいったい何を意味しているのか?」(p.15)。


ヴラジミール・ジャンケレヴィッチは1964年に「赦す?」という「論争的なエッセー」を発表している。ジャンケレヴィッチは「赦しは悪と同じように強い、だが悪も同じように強いのである」と書く。これは64年にフランスで「人道に反する罪の時効不適用に関する法律が現れた」のを受け、「ショアー」、あるいは「ホロコースト」と「赦し」をめぐって書かれたものだ。

「赦し! だが、彼らはわれわれに一度でも赦しを乞うたか? 赦しに意味と存在理由を唯一与えるであろうのは、罪人の悲嘆であり見放された境遇だけである。罪人が肥え太っており、たらふく食い、繁栄し、「経済の奇跡」であるとき、赦しはあきれた冗談である。否、赦しは豚どもやその雌どものためにはなされない。赦しは死の収容所の数々の中で死んだのだ」。
このように、ジャンケレヴィッチ自身がそう書いているように、このエッセーは「攻撃文書的」なものとなっている。

デリダはこう書く。「赦しは――それがあるとすれば――、ただ赦しえぬものだけ、ただ償い得ぬものだけしか赦してはならず、かつ赦すことができない――したがって、不可能なることだけしかしてはならず、かつすることができない。赦し得ること、小罪、免じ得ること、人がいつでも赦し得ることを赦すこと――それは赦すことではないのだ」(p.31)。

ホロコーストのような、あまりに巨大で、取り返しのつかない暴力を「赦す」ことはできるのだろうか。赦し得ないことを赦すこと、それが赦しであるのか。しかし赦し得ないことは赦し得ないがゆえに赦すことができないのではないか。

1980年から81年にかけて、ジャンケレヴィッチと若いドイツ人との間で往復書簡が交わされた。
「奴らは六〇〇万人のユダヤ人を殺した。だが、奴らはよく眠る。奴らはよく喰い、しかもドイツ・マルクは好調なのだ」、このジャンケレヴィッチの言葉を銘として引用し、ヴィアート・ラヴェリングはこう書き始める。「この私、私はユダヤ人を殺しておりません。私がドイツに生まれたことは、私の過ちではありませんし、手柄でもありません」。

「私はナチのさまざまな犯罪に関して全面的に無実です。しかしそのことは、私をほとんど慰めてはくれません。私は平穏な意識=良心を持ってはおりません〔……〕、そして私が感じるのは、恥と憐憫と諦めと悲しみと不信と反発の混淆です。/私はいつもよく眠れるとは限りません。/しばしば私は夜のあいだ目覚めたままでおります、そして私は省察し、想像するのです。私は自分では振り払うことのできない悪夢の数々を見ます。私が思いをいたすのは、アンネ・フランクであり、アウシュヴィッツや「死のフーガ」や『夜と霧』のことです」。

「死のフーガ」はパウル・ツェランの詩のタイトルであり、本書では有名なツェランがハイデガーを訪れたあの出来事とツェランの作品についても考察されている。

ラヴェリングはこの手紙で、ジャンケレヴィッチを自分のもとを訪れるようにと招待し、「歓待を差し出してもいたのである」。
「悲壮な呻きであり、抗議であり、告白であり、口頭弁護でありかつ論告であるこの長い手紙」が公表されると、ラヴェリングは「『マガジン・リテレール』誌に公開された二通の返信を受け取った」。

一通はフランソワ・レジス・バスティドからのものだった。「私はVJ〔ジャンケレヴィッチ〕の古い友人です。しかし彼の態度は私に深く衝撃を与えました。あの非-赦しは、恐ろしいものです。キリスト教徒であるわれわれ(たとえ不信心者であっても!)にとって、あれとは別の者となることは義務です。狂信的なユダヤ人は、ナチと同じくらいたちが悪いのです」。

もう一通はジャンケレヴィッチ自身からのものだった。この手紙は「拝啓、私はあなたの手紙に感動しました。私はこのような手紙を三十五年間待っていたのです」と書き出されていた。

デリダはこの手紙についてこう書いている。「「赦し」という語はそこでは発せられてはいない。しかし、この返信は、待ち望まれていたもの(あなたがたははつぎの言葉を覚えておいでだろう――「……赦しを乞うこと! われわれは長いあいだ一つの語、たった一つのもの、理解と同情の一つの語を待っていた……。希望したのだわれわれは、この兄弟=同胞の語を!」)が、ついに到来したことを明瞭に告げている」(p.60)。

ジャンケレヴィッチはこの手紙で「今度は私があなたにこう言う番です――パリへおいでになったら、すべての人と同じく、わが家のベルを鳴らしてください」と、やはり「歓待」を差し出している。

ラヴェリングは一度だけジャンケレヴィッチのもとを訪問した。「その訪問がきわめて友好的に行われたこと、しかし彼を迎えた主がこれらの問いに立ち戻ることを「一貫して避けた」ことを物語っている」。
ジャンケレヴィッチは赦しを乞われることを待っていた。そしてその希望はラヴェリングの手紙によって叶えられたかのようだ。これで赦しを乞い、赦しを与えるという形で終わりを迎えたのかというと、そうではなかったのだ。

「「赦す?」はつぎのような問いから始まっている――「今や赦すべきとき、あるいは忘却すべきときなのだろうか?」。ジャンケレヴィッチは赦しが忘却ではないこと、とりわけ忘却と化すべきではないことをはっきりと知っている。だが、堂々たる論争的立証の昂ぶりの中で、そして最終的に忘却を生んでしまうであろう赦しの危険を前にした恐怖にかられた危惧の中で、ジャンケレヴィッチは、忘却してはならないと主張しつつ、赦しに対して「否」と告げる。彼は要するに、犠牲者たちの名において、非-赦しの義務についてわれわれに語りかけるのである。赦しは不可能である。そしてそうしてはならない。赦してはならない。赦さないことが必要なのだ。われわれとしては、この「不可能」がいったい何を言わんとしているのか、繰り返し繰り返し自問せねばならないし、また赦しの可能性が――そうしたものがあるとすればだが――、まさしく「不可能」なることの試練に立ち向かう〔se mesuure a〕ものなのでないかどうかを自問せねばならない。不可能だ――ジャンケレヴィッチは要するにわれわれにそう告げるのであり、これこそが、死の収容所の数々において起きたことに関して赦しがそうであるところの状態である。「赦しは」とジャンケレヴィッチは言う、「死の収容所の数々の中で死んだのだ」と」(p.22)。

「赦しは不可能である」、こう書くジャンケレヴィッチはバスティドのような人にはただ頑迷なだけに思えただろう。しかしジャンケレヴィッチは、自分が「赦す」ことができるのか、と自らに問いかけた。自分にできることは「死の収容所」で殺された人々に成り代わって「赦し」を与えることではなく、忘却に抗うことだけなのではないか、そう考え続けていたのかもしれない。そうであるからこそ、「待ち望んで」いたはずの返信に対し、明示的に「赦し」を与えることはできなかった、それだけは避けねばならなかったのだろう。

ジャンケレヴィッチが戦後西ドイツの経済発展にたいして厳しい言葉を投げかけるのは単なる恨み節ではなく、この経済的隆盛が何よってもたらされたのか、よもや忘れたのではないだろう、という問いかけでもあろう。ドイツ(そして日本)には、第二次大戦終結後に過酷な処罰が行われていた可能性も充分にあった。実際に、二度と戦争ができないよう工業国として立ち直れないようにすべきだという主張もあった。しかし第一次大戦後のベルサイユ条約が過酷すぎたことの反省から「寛大」にもお目こぼしがなされた。さらには冷戦によって戦争指導層や官僚など実務を担った層の復権が加速される。西ドイツではアデナウアーは元ナチの官僚を高官として起用し、日本ではさらに直接的かつグロテスクな形で復権がなされた。このような歴史を都合よく忘却し、「寛大」なお目こぼし(もちろんこれは「死の収容所」で殺された人々やそこから奇跡的に生還した人々の意思とは無関係である)のおかげである経済的発展を謳歌しつつ、我々には何の責任もないなどという主張はジャンケレヴィッチには絶対に容認できなかったのだろう。


「もし私が、私に赦しを乞うために他者が告白し、立ち直り始め、みずからの過ちを変容させ始め、他者自身が過ちからみずからを切り離し始めることを条件として赦しを授けるとしたら、そのとき、私の赦しは、赦しを腐敗させるある計算によって汚染されるがままになり始めてしまうのだ」(p.77)。

そこに「条件」が生じてしまえば、その「計算」によって「赦し」は「汚染」され、「腐敗」していくことになる。そのような「アポリアの罠の数々の中で、絶えず苦闘し続けねばなるまい」。

「赦しがあるのはただ、もしそれがあるとすれば、非-赦し得るものによってのみなのである。したがって、赦しは、もしそれがあるとしても、可能ではない、それは可能なるものとしては存在しない、それが存在するのは、ただ可能なるものの法からみずからを例外化することによってのみ、こう言うことができれば、ただみずからを不-可能化することによってのみであり、それも、不可能なるものとしての不-可能なるものの無限の忍耐の中でそうすることによってのみである。そしてそこにこそ、赦し〔pardon〕が贈与〔don〕と共通でそなえているだろう点がある」(p.83)。

「不可能なる贈与の不可能なる真実としての赦し。贈与の前に、赦しが。この不-可能なることの前に、そしてこちらの-この不-可能なることの不可能なることとして、他方が。すなわち、他なる不可能なること。このような言説がまた、可能なることについての、そしてそれに先立ってやって来る「不-〔im-〕」についての、つまり否定でもなく、非-否定的でもなく、弁証法でもないある不-可能なることの「不-〔im-〕」についての省察」(p.84)。


この「エコノミー」や「汚染」は、もちろん赦しを乞う側にとっても降りかかる。赦しを与えられることを期待して赦しを乞うという、「条件」付きの、「計算」を働かせた行為は、それは最早許しを乞うていることにはならない。赦しを乞うことはまた、私が赦しを乞うている以上あなたは私を赦さなければならない、「私を赦せ」という命令すら含まれてしまいかねない。それでも……

「私は赦しを乞わねばならない――正しくあるために=がゆえに〔pour〕。この「ために=がゆえに」の両義性をよく理解されたい。私は赦しを乞わねばならない――正しくあることを目的として〔afin de〕、正しくあるために〔pour〕、正しくあることを目ざして〔en vue de〕。だがそれのみらず、私は赦しを乞わねばならない――正しくあるために、正しくあるという事実のために、私が正しいがゆえに、すなわち、正しくあるがゆえに、私は不正でありかつ私が裏切るがゆえに。私は正しくある(という事実)のために赦しを乞わねばならない。なぜなら、正しくあることは不正であるから。私は、正しくあるためにつねに誰かを裏切る。すなわち、私はつねにもう一人のために一人を裏切ってしまうのであり、私はまるで呼吸するかのように偽証するのである。そしてこれには終わりがない、というのは、私はただたんにある偽証のために許しを乞うだけでなく、私は赦しながら偽証する危険を冒しているからであり、赦しながら誰か他者を裏切る危険を冒しているからである。というのも、人はつねにある他者の名において赦す(したがって不当に)ことを運命づけられているからである」(p.88)。


デリダは90年代の南アフリカでの真実和解委員会や日本の村山談話にも注目している。基本的にはこれらを肯定的に評価しているとしていいのだろうが、しかしまた、このような「赦しを乞う」ことと「赦しを与える」ことが政治的儀式と化し、「汚染」されていくことへの警戒心も抱いている。政治を円滑に進めるために表面上「赦しを乞い」、政治を円滑に進めるために表面上の「赦しを与える」、そのような取り繕いはもう赦しなどではないはずだ。

赦されることを期待して、もっといえば赦されることを前提に赦しを乞うこと、このような「計算」の働いた行為は、最早赦しを乞うていることにはならない。ましてや「こちら赦しを乞うている以上、あなたは私に赦しを与えねばならない」という命令がそこに含まれていれば、それは救い難く「汚染」されている。

赦しを乞うことがそんなにも困難ならばもう赦しを乞うことすらできなくなるではないか、そればかりか、「汚染」を避けるためにはそもそも赦しを乞うことそのものを慎まなければならないのではないか。すでに引用したように、デリダが語っているのはその逆である。にもかかわらず赦しを乞わねばならないのであるし、それを希求しなければならない。そしてそのためには、問い続けなければならない。

まずここにあるべきは「責任」であろう(ここで僕が思うところの「責任」はデリダ的文脈での「応答=責任」とは少々ずれているかもしれないが)。

あれほど激烈な言葉を書き連ねたジャンケレヴィッチがラヴェリングの手紙に心を動かされたのはなぜだろうか。ラヴェリングは「私はナチのさまざまな犯罪に関して全面的に無実です」としつつ、「平穏な意識=良心」を持つことができず、眠れぬ夜に『アンネの日記』や『夜と霧』やツェランの詩に思いいたすとしている。

デリダは繰り返し、「赦すこと(英語ではto forgive)」と「忘れること(to forget)」は異なるものだと強調している。「赦すこと」は「忘れること」ではないし、「赦しを乞うこと」は「忘れてもらうこと」ではない。しかし「赦し」を与えてしまえば、それが「忘れること」へと転化してしまうのではないか、ジャンケレヴィッチはそのことを恐れた。「ユダヤ人を殺していない」ラヴェリングが、それでも『アンネの日記』や『夜と霧』やツェランの詩を紐解き続けること、これは忘却とそれへの欲望に抗っているのだと、ジャンケレヴィッチには感じられたのかもしれない。

赦しを乞う以前に果たすべき責任とは「忘れないこと」であるはずだ。歴史問題でまず日本人が考えるべきは、いかなる謝罪や補償をすれば「赦し」が得られるのかということを「計算」することではなく(その「計算」には、いかにそれらを最小化するかという「エコノミー」が入りこまざるをえない)、徹底して忘却への欲望に抗うという責任をいかにすれば果たせるのかということでなければならないはずだ。

何かと比較されるドイツと日本であるが、最も大きな違いはこの「責任」への意識であろう。1980年代は西ドイツでもナチスの蛮行を相対化しようとする動きが活発になっていた。当時の西ドイツ大統領ヴァイツゼッカーはこのことを念頭におき、1985年に「過去に目を閉ざす者は、現在に対してもやはり盲目となる」という言葉で有名になった演説を行った。2015年には、アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所解放70周年を前にメルケル首相は、「私たちドイツ人は深い羞恥の念にかられます」とし、「人類に対する罪に時効はなく、当時の残虐行為の記憶を後世に伝えその記憶を鮮明に保つ責任を私たちは恒久的に負っている」と訴えた。ちなみにヴァイツゼッカーもメルケルもキリスト教民主同盟、つまり保守の政治家である。

日本にとって一つのモデルケースと成り得たのが、当時のレーガン大統領による日系人の強制収容への謝罪と補償だったろう。1988年にアメリカ合衆国で成立した「市民の自由法」では、日系人を強制収容したことに対する謝罪と補償と共に、この負の歴史をアメリカの学校で教えるための基金の創設も含まれていた。

これらの例は「赦す」ことと「忘れる」ことは対立概念であり、「赦しを乞う」側はまず記憶し、その記憶を継承していくという責任を果たすことから、ようやく「赦しを乞う」という困難な試みが始まることを表している。


引用からもわかるように例によって迂遠とも思えるような文章ではあるが、ここにある問いの数々は、今こそ日本人が自らに投げかけなければならないものである。




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