『ライ麦畑のミステリー』

竹内康浩著 『ライ麦畑のミステリー』




本書のエッセンスは序章を読めば充分につかめる。

著者は32歳の時、亡き友人の命日に合わせて『『ライ麦畑でつかまえて』についてもう何も言いたくない』を出版した。サリンジャーが『ライ麦畑』を出版したのも32歳の時だった。『ライ麦畑』は1951年7月16日に刊行された。作中でホールデンの弟、アリーが白血病で死んだのは1946年7月18日となっている。「小説中に記される具体的な日付は、たった一つ、このアリーの命日だけである」。

ホールデンは「原子爆弾が発明されてオレは嬉しいぜ。また別の戦争があったら、原爆のてっぺんに座ってやる。自らすすんでね。神様に誓ってもいい。絶対そうするね」と、異様な方法での自殺願望を語る。これは白血病で死んだアリーとの同一化を図ろうとしているようにも思える。ホールデンの暮らしている寮の名は、オッペンハイマーに酷似した「オッセンバーガー」だ。オッペンハイマー率いるマンハッタン計画で、原爆実験に最初に成功した日付は45年7月16日である。

原爆への目配せに思わせる設定でありながら、サリンジャーはなぜアリーの命日をトリニティ実験の日にはせず、『ライ麦畑』の出版日の方をそれに合わせたのだろうか。
実はサリンジャーには、実際の出来事への暗示を作中で行う場合に日付を微妙にずらす「癖」がある。「エズメに捧ぐ」の作中の出来事は4月30日と推定されるが、ここで暗示する連合軍が多数の死者を出した「タイガー演習」は4月28、9日に行われている。主人公がエズメから受け取る手紙の日付は6月7日だが、サリンジャーも参加したノルマンディ上陸作戦が行われたのは6月6日だ。しかもサリンジャーはこの「癖」では、「実際よりも遅い日付を使用するのである」。

アリーの命日が初の原爆実験の日から「2日」遅れているのはそればかりが理由ではないのかもしれない。サリンジャーはT・S・エリオットから強い影響を受けている。そのエリオットはフレイザーの『金枝篇』から強い影響を受けている。『金枝篇』第一巻、第一章の「ディアナとウィルビウス」には、8月13日に行われていた女神ディアナの祭りを、キリスト教会が8月15日に行われる聖母マリア被昇天祭へと姿を変えるのに巧みに成功したことが論じられている。この他にも、古代ローマで4月21日に行われていたパリリア祭りをイングランドの聖ジョージの祝日として4月23日に置き換えるなど、2日間遅らせて神話の世界の祭りをキリスト教化する例がある。

そしてこのローマの女神ディアナは、ギリシャ神話のポイベ(Phoebe)と同一視されている。ホールデンの妹の名はフィービーである。これはサリンジャーが、『ライ麦畑』を『金枝篇』で繰り返し論じられる「死と再生のテーマ」と重ね合わせていることを暗示しようとしているのではないか。本書の別の箇所で指摘されているように、小説の冒頭と結末に顔出すホールデンの兄はDBであり、これが死(death)と誕生(birth)を表しているのだとすると、まさに幾重にも「死と再生」のモチーフが塗られていることになる。

と、序章のこういった展開を面白いと感じる人には本書はたまらないであろうし、いくらなんでも強引過ぎるだろうと感じる人にはぴんとこないものになっているかもしれない。僕はこういったものが好きなので楽しむことができた。


『ライ麦畑でつかまえて』は、大人の「インチキ」を嫌いイノセントな子どもがライ麦畑の崖から落ちるのを「つかまえ(キャッチし)」て、子どもたちが堕落することから守ることを願望とするホールデンへ感情移入する形で受け取られがちだ。ホールデンの「キャッチャー願望」の象徴的な行為が、「ファック・ユー」という落書きと出くわすたびにそれを消そうとすることである。しかし他ならぬサリンジャーがこの作品で「ファック・ユー」という言葉を書き、それを読者の目にふれさせていることは見逃されがちである。『ライ麦畑』はアメリカではこのFワードによって「冒涜的」「卑猥」とされ、図書館や学校で禁書となり、イギリスではここが伏字になっていた。

サリンジャーはこの言葉を使うことで「自分の小説を汚れなき状態でいるのをやめてもらい、自分の本を崖から突き落と」している。もし「ファック・ユー」という言葉を子どもの目にふれさせない、イノセンスな世界を理想とするならば、アメリカのPTAが行ったように『ライ麦畑』こそ追放しなくてはならなくなる。「落書きを消そうとする主人公のキャッチャー的(子供を守る)仕草はサリンジャーによって否定されているのであり、読者は汚れた世界を受容するように促されている」という読み方も可能なのである。

これは言われてみればその通りなのだが、ホールデンに感情移入してしまっている読者にとっては目の前にこの事実があろうともなかなか見えてこないだろう。こういったことが可視化されていくことも本書の醍醐味である。


ホールデンはフィービーのためにレコードを買うが、それを落として割ってしまう。『ライ麦畑』にはタイトルからして、落下のイメージが溢れている。しかし著者は、落下とともに「拾い上げ」ることにも注目する。フィービーは割れたレコードを「I’m saving them」と言うのである。文脈を考えると、訳としては「とっておく」ということになるが、ここには「save」、「救う」という意味も含まれている。フィービーは落として割れたレコードを、「私が救っとくわ」とも言っているのだ。まさに「死と再生」である。

アントリーニ先生は転落死したジェイムズ・キャッスルを「拾い上げた(picked up)」。ホールデンのセーターを着て転落したジェイムズがホールデンと重ねあわされていることは明らかだ。行き場をなくしたホールデンはアントリーニ先生の家に行く。先生はホールデンが「落ちて」いくことを心配している。しかしホールデンにとっては、「触れられる」ことは禁忌でもある。様々な場面で接触から身をかわそうとしている。ホールデンは落下しているが、まだ「底にぶち当た」ってはいない。アントリーニ先生がホールデンに触れることが許されるとしたら、それはジェイムズと同じように「落ちた後で拾い上げるべきだった」。ホールデンは眠っている間にアントリーニ先生が自分のおでこに触れていたのに気づいて、ホモフォビア的恐慌にかられて逃走する。

ジェイムズ・キャッスルが転落死した際、歯が飛び散っている。ホールデンがフィービーのために買ったレコード、これは「クリスマスには前歯が二本欲しい」という女の子の歌なのである。ここでサリンジャーは奇妙なことをしている。『ライ麦畑』で言及される作家や小説は、架空の人物である兄のDBとその作品を除くと、全て実在のものである。映画についても作品が容易にわかるようになっている。しかしこの歌については、歌手もタイトルも、そして発売時期すら実際のものから変えられているのである。著者は学生時代に卒論を書きながら聴いていたFENで、確かにこの歌を聴いた。しかし長年に渡って本当のタイトルがわからないままでいた。しかしようやく、帰国子女の学生に教えられてこれが判明する。これはスパイク・ジョーンズ(もちろん映画監督ではなくて冗談音楽の方)が1949年にヒットさせた、All I Want For Christmas (Is My Two Front Teeth)だったのである。ではなぜサリンジャーはそのような変更を施したのか……というのは本書をお読みいただきたい。



確かに「小さな子どものことを歌った唄で、その子は前歯が二本抜けていて、それが恥ずかしいから、うちから出ようとしないんだね」というのはこれしか考えられないだろう。ここでホールデンは黒人の女性歌手が20年前くらい前に吹き込んだとしているが、この歌が作られたのは44年であるし、これがスパイク・ジョーンズバージョンだとすると白人男性が裏声で歌っているわけで、あまりに違いすぎる。サリンジャーがうろ覚えで適当に書いたとするよりは、何らかの意図を持ってそうしたとするほうが自然には思える。


すでに書いたように、『ライ麦畑』はイノセンスを守るためのキャッチャーとなることを肯定したものと決め付けることはできない。それを象徴するのが、物語の結末近くで、ホールデンがフィービーが金色の輪をつかもうとして乗っている回転木馬から落ちるんじゃないかとはらはらしつつ、「落ちたら落ちたときのことじゃないか」と思う場面だろう。これは村上春樹がいうようにホールデンの気まぐれさを表しているのかもしれないし、本書の議論においては、落ちるのを防ぐことが大事なのではなく、「拾い上げ」、「救う」ことこそが重要であることを表しているようにも読める。


著者は初めてニューヨークを訪れた時、この回転木馬を見ようと思うのだが、現在ある回転木馬がここに移されたのが『ライ麦畑』の「現在」と推定される1949年ごろの後の、51年(つまり刊行された年)であることを知ってがっかりする。ホールデンが、そしてサリンジャーが子どもの頃からなじんでいた回転木馬ではなかったのである。ではこの回転木馬はどうなったのかというと、1950年11月9日に火事で修復不可能な損傷を負っていたのだ。この日にはサリンジャーはすでに『ライ麦畑』を完成させていたとするのが一般的だが、著者はまだサリンジャーが原稿に手を加えていた可能性もあるとしている。

『ライ麦畑』のペーパーバックの表紙が回転木馬であることは有名だ。図版として収録されているこの表紙のキャプションに、「赤く塗られた木馬とその上部は、ススのように黒い模様と相まって、木馬が燃えているようには見えないだろうか」とある。この回転木馬が火事で焼失したと考えると、最早そうとしか見えなくなってくる。

本書の様々な議論について深読みしすぎ、強引過ぎると感じられるかもしれないが、目の前にあるものが見えていなかったのか、見えないものが見えてくるのか、そのあたりについても考えながら読むと楽しめることだろう。



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佐藤太郎(仮)

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