ライ麦畑のかたりて、あるいはDBとホールデンの狭間で

ライ麦畑のミステリー』(竹内康浩著)を僕は面白く読んだが、中沢新一が参照されていたり錬金術についての言及があるなど、「オカルトじゃないか」と思う人もいるかもしれない。「オカルト」の語源が「隠されたもの」であることを考えると、『ライ麦畑』における隠されたイメージの数々を探しあてるという点では、確かに「オカルト」であるのかもしれない。

ポーの『盗まれた手紙』にあるように、人間には目の前にあるものがそれゆえにかえって見えなくなってしまうという現象がある。同書はまた、目の前にありながら見過ごされがちなイメージ、テーマを確認させるものでもある。

ホールデンは「ファック・ユー」という落書きを見つけると、子どもたちの目にふれさせないようになんとか消そうとする。これは「インチキ」な大人の汚れた世界から、イノセントな子どもたちを守ろうとしている行為の象徴のように思える。しかし他ならぬサリンジャーが「ファック・ユー」という文字が書かれた小説をこの世界に放っているのである。『ライ麦畑』はこのFワードによってアメリカでは禁書にせよとの運動が起こり、イギリスではここが伏字にさせられている。

竹内は1977年に書かれたGerald Rosenの論文を引用しながらこう書いている。
「落書きを消すという行為は、まさにナイスでイノセントなものを守りたいというキャッチャー願望の表れであり、それは「つかまえる」ことの一つのアレンジであると言ってもいいだろう。だからこそ、主人公のキャッチャー願望に、その実現可能性には懐疑的であったとしても一応の共感を示す多くの読者は、ホールデンと一緒になって「ファック・ユー」の類であふれた世の中を嘆くことにもなる。汚れに満ちた世界(落下している世界)を非難することが、主人公に共感することだと感じているのである。しかし、そのような読み方は甚だしい誤読であると、ローゼンは言う。その落書きに対しては登場人物のホールデンと作者のサリンジャーは正反対の態度を示しており、「『ファック・ユー』の落書きを(自分の小説内に)含むことで、サリンジャーは実際に自分の本の壁に落書きを書き込んでいるのであり、そうすることでそれらの落書きの存在を読者に認めるように強いているのである」(五五八)とローゼンは述べている。つまり、汚れ(落下)を受け入れるよう成長をうながすことこそがこの小説のテーマだというのである」(p.61)。

ローゼンの言う「成長をうながすことこそがこの小説のテーマだ」とまでしてしまうことに違和感を覚える読者もいるかもしれないが、少なくとも「ファック・ユー」という落書きを消そうとするホールデンとそれを小説に書き込むサリンジャーとを、ホールデン=サリンジャーと等号で結ぶことには慎重にならざるをえなくなるだろう。

ではこの『ライ麦畑でつかまえて』という小説の、この文章を「書いた」のは誰なのであろうか。これはホールデンが「語った」ものであるとしても、これを「書いた」のは誰かという疑問は残る。ホールデンの兄、作家のDBが「書いた」という可能性を読みとることができる。『ライ麦畑』から強い影響を受けている庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』で、作者の庄司薫は主人公の薫クンに自分は「実は兄の書いた小説の主人公なんかじゃないかって気もするほどなんだ」とまで思わせているのはこれをふまえているのだろう(このあたりについては以前こちらに書いた)。


「ファック・ユー」という落書きが他ならぬこの小説にはっきりと書かれているにもかかわらず、少なからぬ人がこの明白な事実を読み落として(あるいは意味を取り違えて)いるのかもしれない。そのためホールデン=サリンジャーと「誤読」されることも多い。では『ライ麦畑』を「書いた」のがDBだとすると、DB=サリンジャーだとしていいのだろうか。『赤頭巾ちゃん』では、作者の庄司薫は明らかに「下の兄」が庄司薫(つまり福田章二)であることをほのめかしているが、これも『ライ麦畑』からの引用なのであろうか。

『赤頭巾ちゃん』の「下の兄」が庄司薫=福田章二であることを示すものとして、彼が丸山真男をモデルにした大学教授の教え子であるというエピソードがある。福田は丸山の教え子で、丸山をたいへん尊敬していた。そして『ライ麦畑』にも、DB=サリンジャーと読ませる仕掛けが存在している。

ホールデンは友人と戦争映画を見た後、戦争について考える。そして「戦争に行かなきゃならないなんてことになったら、きっと僕には耐えられないだろうと思う」。ホールデンは戦争そのものよりも、軍隊に「うんざり」してしまうのだろうと想像する。その後でこんなことを言うのである。

「兄のDBはなにしろ四年間も軍隊に入っていた。戦場にも行った。Dデイに敵前上陸もした。でも彼は戦争よりも軍隊のほうをより憎んでいたと僕は真剣に思うんだ。ぼくはそのころまだ子どもだったから、細かいことはそんなに覚えちゃいないんだけど、休暇とかでうちに返ってきたとき、兄はまる一日ベッドで横になっていた。居間に顔を出すことさえほとんどなかった」(村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』単行本 p.231)。

サリンジャーはDBのようにハリウッドには行っていないので、DB=サリンジャーと等号で結んでしまうことには問題がある。ホールデンが語るところのDBの軍歴もサリンジャーのそれとは異なるものだ。しかしサリンジャーはDBと同じように、ノルマンディー上陸作戦に参加している。何よりも注目すべきは、DBが「休暇とかでうちに返ってきたとき、兄はまる一日ベッドで横になっていた」というところだ。これはDBが肉体的に疲れ果てていたということではなく、PTSDからくる鬱状態だったのではないだろうか。「まる一日ベッドで横になってい」て、「居間に顔を出すことさえほとんどなかった」というのはそれを疑わせる。

サリンジャーはノルマンディー上陸作戦後も、ヒュルトゲンの森の戦い、バルジの戦いと、壮絶な戦闘をくぐりぬけることになる。そして強制収容所の解放も行うのである。強制収容所の実態を知らされていなかった兵士たちにとってこれは不意打ちであった。そのあまりの凄惨な光景は精神に深く刻み込まれ、これ以降永遠にぬぐい去ることはできなかっただろう。ましてやサリンジャーはユダヤ系である。この衝撃がいかなるものであったのかは、想像を絶するものがある。

ところがホールデンはDBの戦争体験について、「カウボーイみたいな将軍を司令部の車に乗せ、一日中運転してまわる」のが与えられた仕事だったとしている。DBは弟のアリーに、「もし誰かに向けて銃を撃たなくちゃならないとしたら、どっちに銃口を向けりゃいいのか考えちまうところだ」、「軍隊ってのはまったくの話、ナチ顔負けの悪質なやつらがうようよしてるところだ」とも言っていたという。

ホールデンはこの言葉から、DBは戦争そのものより軍隊に「うんざり」していたのだと思うのだが、はたしてそうなのだろうか。DBが、あるいはサリンジャーが「カウボーイみたいな将軍」に銃口を向けたくなったのは、こういった人間が引き起こす戦争を憎んだからだとも受け取れる。あんな体験を自分はしたくなかった、あんな光景を目になどしたくなかった、それでも、「将軍」たちに命ぜられるままに、一生消すことのできない傷を精神に負わされたのだ、そう言っていると解釈できなくもない。「軍隊ってのはまったくの話、ナチ顔負けの悪質なやつらがうようよしてるところだ」というのは、戦争そのものが「ナチ顔負け」だと言っているのかもしれない。。そしてホールデンとDBの落差は、戦争を、あの凄惨な光景を実際に目にした人間とそうでない人間の落差を表しているようのも思えてくる。

そもそもDBが海外に派兵されながら「誰かを撃たなくちゃならないようなこともなかった」というのは本当なのだろうか。DBはただ家族にその話をしなかっただけなのではないか。DBは「Dデイに敵前上陸もした」はずではなかったのか。

サリンジャーは自分の従軍体験について小説にすることはなかった。サリンジャーが書けなくなったのか、書かなくなったのか、あるいは書いてはいるが発表しないだけなのか、発表できるだけの質の作品を生み出せなかったのか、これについては生前から様々な憶測があったが、小説家として戦争体験と正面から向き合うことができなかったのではないか、それは作家サリンジャーにとっての敗北だったのではないかということは以前こちらに書いた。

例外的作品として「エズメに捧ぐ」がある。主人公のX軍曹は、おそらく「何か」を体験し、その強烈な体験からくるPTSDに苦しんでいる。しかしサリンジャーはこの「何か」を直接書くことはなかった。この「エズメに捧ぐ」が発表されたのは1950年、『ライ麦畑』刊行の前年である。

『ライ麦畑』で、アリーはDBに「兄さんは作家だから、戦争に行ったことは役に立ったんじゃないの」と訊く。「そこには書く材料がいっぱいあったのだろうし」と。するとDBはアリーに野球のバットとミットを持ってこさせると、「誰がいちばんすぐれた戦争詩人だと思う」と訊ね返す。「ルパート・ブルックか、エミリー・ディキンソンか?」。するとアリーはディキンソンだと答える。しかしホールデンは「そのへんのことはよくわからない。僕は詩なんてあまり読まないからね」と思ったのであった。

ブルックは第一次大戦中に戦争詩を書き、「伝説化」された。「一方ディキンソンは直接的な戦争詩を書いたわけではない。しかし本当に戦争について書いたのはディキンソンの方なのだということが言いたいわけだ」と村上は訳注に書いている。

サリンジャーはここで、自分はブルックではなくディキンソンになるのだと決意し、それを表明しているのかもしれない。「エズメに捧ぐ」で「戦争」を描こうとしたが、書くことができなかった。しかし、戦争を直接書くことだけが戦争を描くことなのだろうか。ディキンソンが優れた戦争詩人であるとするならば、自分も戦争を直接描かずに、戦争について書くことができるのではないか、その試みの一つが、この『ライ麦畑』であったのかもしれない。


サリンジャーのエージェントを務めた経験を回想した『サリンジャーと過ごした日々』で、ジョアンナ・ラコフはサリンジャー宛の手紙の返信を書いたことにふれている。サリンジャーには退役軍人からも数多くの手紙が寄せられていた。ラコフは「なかでも日本人はホールデンが大好きだった」としてあるが、この日本人の中でDBの、あるいはサリンジャーの戦争体験について関心を持った人はどれだけいたのだろうか。「ファック・ユー」と書かれていながらそれが目に入らなかったように、DBのPTSDの可能性についても、それが書かれていても目に入らなかったのだろうか……と書くとなんだか偉そうだが、DBが戦争に行ったという設定はわかってはいたものの、僕も今回ぱらぱらと読み返してみるまで、DBが鬱で寝込んでいたのかもしれないという可能性は考えたこともなかった。


『ライ麦畑でつかまえて』のタイトルは、ホールデンが妹のフィービーからあなたには好きなものなんてないでしょうとなじられ(なにせもう死んでいる弟のアリーのことしか思いつかない)、とっさ出てきたのがライ麦畑で遊んでいる子どもたちが崖から落ちないようにキャッチすることで、僕はライ麦畑のキャッチャーになりたいんだ、と言うことからきている。

竹内の『ライ麦畑のミステリー』を読んだ後で野崎孝訳の『ライ麦畑でつかまえて』という邦題を考えると、あらためてこれが絶妙なものだと、極端に言えば原題よりも素晴らしいものになっているようにすら思えてくる。「つまえて」にはつかまえる側とつかまえられる側、双方が響きあっている。
竹内はこの作品内で立場の入れ代わりが起こっていることを指摘している。ホールデンはここでフィービーに対して自分はキャッチする人間になりたいのだと語っているが、彼はキャッチされる側にもまわるのである。

『ライ麦畑』に落下のイメージがあふれていることは誰もが気づくことだろう。竹内はまた、落下にまつわる「隠されたもの」も明らかにしている。それは「拾い上げる」ことである。
ホールデンはフィービーのためにレコードを買うが。これを落として割ってしまう。それを知るとフィービーは「I’m saving them」、つまり「とっておく/救う」と言うのである。

「ファック・ユー」という文字が印刷されているように、この小説は人間は生きていく以上必ず汚れるのだ、その汚れた世界を受け入れなければならないという、成長を促す作品であるとするならば、ライ麦畑で遊んでいる子どもたちは、必ず崖から落ちるのである。それを人為的にキャッチして防ぐこと、それはアメリカのPTAが『ライ麦畑』をFワードが使われているという理由で図書館から追放するようなものなのかもしれない。

しかし崖から落ちてばらばらに割れてしまったら、人はどうなってしまうのだろうか。
竹内はホールデンがフィービーに買ったレコードードがスパイク・ジョーンズのAll I Want For Christmas (Is My Two Front Teeth)であることを突き止めた。前歯の抜けた女の子がクリスマスに前歯が欲しいとお願いする唄である。曲が始まる前に、女の子がなぜ歯をなくしたのかについてのセリフがある。女の子はクリスマスの前の晩にサンタが見えたのだ。それで猛スピードで手すりを滑り降りると……「この直後、彼女が急降下する音が聞こえ、それに続いてクラッシュ音が、がしゃがしゃがしゃーんと派手に響き渡るのである」。

ホールデンが「これまで教わった教師の中では、おそらくいちばんまっとうな人だ」と評するのがアントリーニ先生である。「DBより少し年上というくらい」とあるが、むしろDBと同年代という方にこそ注目すべきかもしれない。ホールデンがなぜこの先生に好感を抱いているのかというと、転落死したジェイムズ・キャッスルを、「ひとり進み出て抱き上げてくれた」からだ。この転落の際にジェイムズの歯は飛び散っている。そしてジェイムズは、少々不自然にもこの直前にホールデンからセーターを借りて、それを着たまま転落したのだ。もちろんここでジェイムズとホールデンが重ね合わされている。

ホールデンは、アントリーニがジェイムズを「拾い上げた(picked up)」ように自分のことも「落下」した後に「save」してくれることを期待してか、彼の家を訪ねる。しかし眠っているときに、アントリーニがホールデンの額に触っているのに気づいて、慌てて逃げ出すのである。アントリーニが「六十歳くらい年上」(もちろんホールデンの誇張ではあるが) の女性と結婚しているというのは、ゲイの男性の擬装結婚なのではないかと思わせる。少なくともホールデンはそう考えたであろうし、だからこそ、家出して疲れ果てた教え子に同情していただけかもしれないのに、「変質的」な人だったのだと思いこんで逃げ出す。

竹内は、アントリーニはホールデンの「触れてはいけない」というこの物語の禁忌に抵触したのだとしている。「先生はホールデンを捕まえそこなった。その失敗の原因は、ひとまず、「触ったこと」にあると言えるだろう」。

博物館ではガードマンが「触ってはいけないよ、みんな」と言い、ホールデンは「自分が神聖視しているジェインという女の子にたいし、ホールデンは不自然とも言える形で接触を控え続け」たりしている。しかし「「触らない」ということは、必然的に「捕まえる」ことをも不可能にする」のではないか。つまり、アントリーニはホールデンをキャッチしてはならなかったのである。

アントリーニは繰り返しホールデンが「落下」していることを心配している。「私が見るに、君はある種の、きわめておぞましい落下傾向にはまり込んじゃっているみたいだ」。「君が今はまりこんでいる落下は、ちょっと普通ではない種類の落下だと僕は思うんだ」。

まさにアントリーニ先生は、ライ麦畑から落ちようとしているホールデンをキャッチしようとしているかのようだ。しかしホールデンがアントリーニに好意を持ったのは、彼がホールデンのセーターを着た、歯の飛び散ったジェイムズの遺体を「拾い上げた(picked up)」からだ。そしてホールデンが求めていたのは、自分が落ちて割れたときに「save」してくれる存在だったのかもしれない。

アントリーニはこう言う。恐ろしい種類の落下だと、「落ちていく人は自分が底を打つのを感じることも、その音を聞くことも許されない」。そんな落下だと、「底を打った」ときにはひどい割れ方をしてしまうことだろう。だからこそアントリーニはそうなる前にホールデンをキャッチしようとした。

しかしこの世界には「ファック・ユー」があふれているように、人はいつまでもイノセントなライ麦畑で遊んでいることはできない。いつかは落ちなければならないのだ。だからホールデンは、アントリーニ先生ならば自分が「割れた」後に、「picked up」し、「save」してくれるのではないかと期待した。なにせアントリーニは、「ジェームズ・キャッスルの死体に少しなりとも近寄ってくれたたった一人の人間だった」からだ。ところがアントリーニはその前にホールデンをキャッチしようと、彼に触れてしまったのである。


ホールデンは「今夜は先生と奥さんに命を救ってもらったみたいなものです」と語るが、この頃サリンジャーの精神は壮絶な戦争体験ゆえにすでに死んでいたのかもしれない。サリンジャーがこの頃求めていたのは「再生」であり、割れてしまったものを「救う(save」)ことだったのかもしれない。

『ライ麦畑』が地獄めぐりであるのではないかということは村上も指摘している。ホールデンは縁石(つまり歩道と車道を分かつところ)から車道へ足を踏み出すと、「僕にはもうこの通りを向こう側まで渡りきることができないんじゃないかって気」になる。どんどん沈んで、そのまま消えてしまうのではないかと。そして亡き弟アリーと話しているんだと思いこむことにする。「アリー、僕を消したりしないでくれ。頼むぜ、アリー」と。
ホールデンが冥界に魅せられており(ホールデンはこれを繰り返す)、生と死の狭間で不安と葛藤に苦しんでいる。

戦争を経て生き残った兵士は、「なぜ自分が生き残ったのか」という罪悪感に苛まれることが多い。サリンジャーは戦場でいつ命を落としてもおかしくないような体験をくぐりぬけてきた。これはなぜ自分は助かり、別の兵士は命を落としたのかという疑問と苦しみがより一層強く働くことになっただろう。そして強制収容所にいた囚人の多くが、サリンジャーと同じユダヤ人だった。自分がアメリカ軍の軍服を着ているのはなぜなのか。やせこけ、骨と皮になって囚人服を着ていなかったのはなぜだったのだろうか。人間が大量に焼却されていたことの印であるあの異様な臭い。自分が焼かれなかったのはなぜだったのだろうか。そんな思いが、サリンジャーにはこびりついていたのかもしれない。アリーはなぜ白血病にかかり死んだのか、なぜそれは自分ではなかったのか、なぜ自分は生きているのか、死者との対話を試みるここでのホールデンの心理は、生き残った兵士のそれに近い。

自分は「恐ろしい種類の落下」をしている。それは「自分が底を打つのを感じることも、その音を聞くことも許されない」ものだ。バラバラに砕け散って、「picked up」することも、「save」も不可能なのかもしれない。つまり、一生回復することができないのかもしれない。サリンジャーは『ライ麦畑』のメッセージを裏切るように、そんな不安にかられ続けたのだろうか。「 アリー、僕を消したりしないでくれ。頼むぜ、アリー」というホールデンの悲痛な声は、サリンジャー自身のものだったのだろうか。


イノセントを守ろうとするホールデンと、「ファック・ユー」と印刷させ流通させたサリンジャーを等号で結ぶという読み方は「誤読」だという読み方を紹介したが、当然これへの反論も可能だ。まずホールデンというキャラクターの経歴や経験はサリンジャー自身のそれを多く用いている。またサリンジャーは少女に惹かれ続けた。当時18歳だったジョイス・メイナードをはじめ、幾人かの少女と関係を持っている。これはサリンジャーがまさに「イノセント」なものに執着し、それを少女に仮託したからではないのか。やはりホールデンはサリンジャーその人だったのではないかという疑問がわく。

グラース・サーガの「書き手」は次男のバディであった。退役軍人の長男シーモアは「バナナフィッシュ」で突然自分の頭を撃ち抜く。バディはシーモアをはじめ、グラース家の人々の物語を紡いでいく。それこそが、シーモアの死の謎をとくことであり、また亡き兄シーモアの精神を継承していくことでもあった。しかしサリンジャーは当初自分の分身であったバディから次第に離れていき、シーモアと同一化していってしまう。生前最後に発表された「ハプワース」は、現実味のかけらもない、まったくありえない聖人伝と化してしまっている。

『ライ麦畑』においてサリンジャーの分身がDBであったとするならば、ここには人生の先輩である「兄」の立場から、人は落ちてしまうものだし、落ちなければならないのだ、というメッセージがこめられていたのかもしれない。そうだとすると、落ちて割れてしまったものを、いかに「拾い上げ」、「救う」のか、それこそがこの小説のテーマだったということになる。

小説の冒頭と結末にDBが言及される。これによってこの作品が入れ子構造であること、つまりこれを「書いた」のがDBである可能性が強く想起される。また作品が円環状になっているようにも思えてくる。竹内はDBがDeathとBirthの頭文字から取られた可能性を示しているように、『ライ麦畑』は「死と再生」を描こうとしたものだとも読める。

しかしサリンジャーの落下はあまりにも「恐ろしい種類」のものだった。サリンジャーは人類史上最悪級の暴力を目の当たりにした。人間は汚れるものだ、世界は「インチキ」なものだ、それを受け入れてこそ大人になれる。人は汚れた世界を生きていかなければならないのだ。
でも、それが耐え難いものだったとしたら? 落ちて、拾い上げるのも不可能なほど粉々になり、救うことができないほど損なわれるのだとしたら? そうであるならば、ライ麦畑にとどまって、イノセントな子どもたちと遊び続けることは、本当にいけないことなのだろうか。

サリンジャーはこの小説を書きながら、DBとホールデンとの間を、キャッチする側とされる側との間を揺れ動いていたのだろうか。そして次第にホールデンへと、キャッチされる側へと同一化していってしまったのだろうか。

サリンジャーはエミリー・ディキンソンになろうとしたのかもしれない。戦争を描かずに、戦争や、そこからの回復を書こうとしたのかもしれない。しかしそうなるには、サリンジャーはあまりに深く傷つき、損なわれてしまっていた。そして実生活においてもイノセントな少女や東洋神秘思想に逃げ込まずにはいられなかった。サリンジャーの隠遁と沈黙は、そのことを雄弁に語っているようにも思えてくる。


『ライ麦畑のミステリー』を読んで『ライ麦畑』をパラパラやってるうちに思いつくままに書いたので重複やら論旨のよくわからないところもいろいろありますが、勢いで書いたものなのであえてそのままで(というか直すのも面倒くさいので……)。



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佐藤太郎(仮)

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