『サリンジャー戦記』再訪

『ライ麦畑でつかまえて』におけるDBとホールデン、そして作者のサリンジャーについてこちらに書いたついでに、村上春樹・柴田元幸著『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』を引っ張り出してちょろっと読み返してみたので、前に書いたことと関連する箇所をいくつか引用してみたい。

村上はサリンジャーの壮絶な戦争体験に触れ、第一次大戦後のヘミングウェイと同じようにノーマン・メイラーなどが第二次大戦後にも戦争文学を生み出し「新しい時代の作家だ」と受け取られたのに対し、「サリンジャーは書かないですね」とし、こう続けている。

「こういうことがあったというふうに遠回しにちょっとだけ書くけど、戦闘そのものについては断固として書かない。おそらくはあまりにも体験が強烈だったから、書けなかったと思うんです。今ではどう考えてもPTSDとして扱われるところなんだけど、その当時はノイローゼというか神経衰弱(nervous breakdown)としか診断されなかったし、したがって分析も治療も不十分だった。それでそのまま軍隊からぽんと放り出されて、現実生活に戻ってきて、そしてややあって『キャッチャー」を書くんですよね。/そういう意味では、『キャッチャー』を読むと、これは彼自身による自己のトラウマ分析と、その治療の道を見つけるための自助的な試みなんだな、というふうに僕は捉えるわけです」(pp.36-37)。

そしてジェームズ・キャッスルが転落死し、「血と歯が地面にばらまかれ」る場面に言及し、「あのシーンなんか、本当に戦争のカジュアルティ(損耗人員)という感覚なんですよね。僕は、あの部分を読むと、やっぱりこの人の意識は戦場と直接結びついているんだな、という気がものすごく強くします」としている(p.37)。

「サリンジャーは実際に、戦争が終わった直後に病院に入っていますけど、その症状を読んでみると、まったくPTSDそのものですね。脱力感、目的の喪失、反復してやってくる恐怖、何もかもいやになっちゃう、おそらく不眠もあったと思うんです。(中略)だからその時期、ドイツの陸軍病院の中で彼は、ホールデン・コールフィールドがサナトリウムに入っていたときとだいたい同じような体験をしていると僕は想像しています」(p.38)。

ここで村上はサリンジャーはホールデンと同じような体験をしたのではないかとしているが、僕はホールデンの兄のDBは軍の休暇などで家に帰ってきたときに、「まる一日ベッドで横になっていた。居間に顔を出すことさえほとんどなかった」としてあることからDBもPTSDだった可能性があるのではないかと「想像」してしまい長々と書いてしまった。

村上はホールデンが聾唖者のふりをして子どもができても学校にもやらずに、世間から隠して育てるんだとしているところを「怖い」としている。というのも、「サリンジャー自身が、この小説をなぞったみたいなかたちになっています。つまり、『キャッチャー』を書くことはサリンジャーにとっておそらく一つの治療行為でもあったわけで、その中で彼は模索していると思うんです。一体俺はどうやって生きていけばいいんだろうと、物語を書きながら、その物語を通過しながら、真剣に模索している。彼にとってのその解答が、解答に向かうプロセスが、『キャッチャー』というひとつの作品になっているわけで、だから当然、彼はそこに出てきた「解答」みたいなものをある程度もとにして、自分の以後の人生を組み立てようとします」(p.66)。

サリンジャーはまさにホールデンの願望をなぞることになる。
「サリンジャーの悲劇というのは、彼がここである程度の、彼にとっての最終的な解答の雛形みたいなのをたまたま出しちゃったことにあるんじゃないかという気がするんです。そういう意味では、何度も繰り返すようだけど、この本はかなり怖い本です。(中略)自己というものを、この世界のどこにどのように据えればいいのかという命題を、真剣に探求している本だと思います。その作業をサリンジャーは、ホールデンの能弁さを土台にして、独自の物語を立ち上げることによって為している。またその物語の立ち上げ方が見事なんで、みんな参っちゃうんです。おまけにサリンジャー自身まで参っちゃった」(pp.67-68)。


竹内康浩の『ライ麦畑のミステリー』を読んでまたサリンジャーについて考えてしまっているのだが、同書に関連してはこんな箇所もある。
ホールデンは眠っている時にアントリーニ先生に額を触られているのに気づいて恐慌をきたす。「すべてはあくまでホールデンの側の被害妄想だったのかもしれない。つまりアントリーニ先生はサリンジャー自身の投影で、彼はただライ麦畑にいる無垢な子どもたちを、性的な要素抜きで愛していたのかもしれない。愛していたから、眠っている子どもの髪をただひょいひょいと触ってみたかったのかもしれない。とすると、それをホモフォビア的に激しくはねつけるホールデンは、一種の自己矛盾の中に置かれてしまうことになる。護る資格と、護られる資格とのあいだを激しく揺れ動いているということになるのかな」(p.79)。
このあたりは『ライ麦畑のミステリー』でも竹内が論じている。

また柴田が竹内の『「ライ麦畑でつかまえて」についてもう何も言いたくない』に言及し、ここで竹内が「触るというのはこの小説では一貫して悪いこと」になっていると論じていることを紹介している。つまりアンントリーニ先生はその暗黙のルールを破っていたのだ。竹内はここで「触って子どものイノセンスを守りたいと思っている状態から、触るような触らないような、ただ見守っていればいいんだという高みまで達していることに肯定的な変化を見ているわけです」。

しかし村上は「ホールデンはそこまで学習していないと思いますよ」としている。ホールデンは「実際的には定義不可能」な「イノセンスを守る」ことを考え、「その定義不可能な総論みたいなものを、人生の目標として定義しようとするから、各論レベルで矛盾が生じてくらけです」(p.159)。
例えばホールデンは弁護士になって無実の人を助けたいと思うがそういう自分をカッコいいと思っちゃうからいやだとなってしまう。「要するにホールデンにしてみれば、無実の人を助けることの善よりも、自分をカッコいいと思って酔っちゃう悪のほうが大きい」(柴田)という、倒錯したことになってしまうのである。

村上はこのあたりのホールデンをこう評する。「つまり行為としての正当性、整合性みたいなものが、すごく希薄なわけです。何が正当かという客観的基準はそこにはほとんどない。結局、そのときの気持ち次第なんです。それは偽善的というほどのものでもないんだろうけど、あくまで相対的なものですよね」(p.160)。

ドストエフスキーは晩年に「ものすごい広いパースペクティブをもった愛の姿を描いてい」る。しかし、「きつい言い方かもしれないけど、どんなものにせよ、そういう種類のパースペクティブを持てなかったということが、『キャッチャー』以降の、文学者としてのサリンジャーの限界だったんじゃないかと僕は思うんです。愛というのはどこまでも自由に成長できるものです。それに比べてイノセンスというのは、どこかで通過されてしまうものです」(p.179)。

『フラニーとズーイ』の太ったおばさんの話は愛についてだったのかもしれないが、「観念的」なものだった。
「『キャッチャー』という小説の中には、ほんとうの意味での愛はないですね。ホールデンは優しさをもっているけれど、だれかを真剣には愛さない」。

「だれかを本当に真剣に好きになっちゃうと、相対的な距離感みたいなのは失われるんですよね。だから、そういう意味では、ホールデンがだれも真剣に愛さないというのは、小説的には正しい設定なんですよね。これはすべてが相対的な変動する関係性によって成立している世界での話しなんだから。だから、思うんだけど、人を愛するというのは、つまり現実的な責任を取らされるということじゃないですか。だれかを愛すれば、それと交換にというか、相手に要求されるわけですよね。コミットメントみたいなものを。で、あくまで個人的な意見を言わせていただければ、この本を読んで、切実にひしひしと何かを感じるのは、そういう意味では成熟した愛を抱えきれないでいる人なんじゃないかなと。あるいは、そういう地点に既に行ってしまって、今現在、現実的に責任を取らされている人たちが、あれこれと感じながら読んでいるのか」(p.180)。


サリンジャーやその関連本を読む度にいろいろと考えてしまうのだが、僕が『ライ麦畑』を読んで「切実にひしひしと何かを感じ」てしまうのは、お前が「成熟した愛を抱えきれないでいる人」だからなんだと言われたら、まあ確かに……




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佐藤太郎(仮)

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