『親善野球に来たスパイ』

L・カウフマン、B・フィッツジェラルド、T・シーウェル著 『親善野球に来たスパイ』




1934年、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグなど錚々たる面々を擁するメジャーリーグ選抜チームが来日する。多くの日本人が熱狂的に歓迎したが、今の時点から冷静に考えればよくこんな時期に日本に来たものだとも思ってしまう。31年には満州事変が起こり国際連盟も脱退。日米関係は緊張の度合いを高めていた。

このチームにはモー・バーグという選手が控えの捕手として参加していた。彼が注目されたのは選手としてよりもその異色の経歴によってだった。名門プリンストン大学を卒業し、数多くの外国語をマスターしていた。慶応大学はバーグを招聘しようとしたことがあったが、野球の指導者としてではなくロマンス語を専門とする言語学の教授としてだ。バーグはこの2年前にも来日し、学生の指導などをしたことがあった。この時、わずか数ヶ月の学習で日本語を身につけ、日本語で会話できるようになっていた。「モリス・バーグ」と彼がカタカナでサインをした写真も収録されている。

34年の時は、バーグはただの野球選手として日本に来たのではなかった。彼は一人だけ、秘かにアメリカ大使館、領事館宛の紹介状を携えていた。そこにはバーグの便宜をはかるよう書かれており、国務長官コーデル・ハルの署名があった。

大宮球場での試合にバーグは現れなかった。バーグの奇行は有名であり、日本に来てからもレセプションを欠席するなどしていたため、注目する人はほとんどいなかった。バーグはこの日、大宮ではなく東京の聖路加病院に向かっていた。新聞でグルー大使の娘でアメリカ大使館三等書記官と結婚していたセシルが聖路加病院で出産したという記事を見つけていた。この病院の建物は当時、東京の多くのビルよりも高かった。ゆったりとした和服を着て現れたバーグは受付に日本語でセシルの見舞いに来たと告げた。セシルは後に、バーグとは面識がなかったしその日も彼は病室には現れなかったとしている。バーグは人目を盗んで屋上に上がると、和服の懐からカメラを取り出し、東京の撮影を始るのだった。

その後もバーグはチームと一緒には帰国せず、中国経由でシベリア鉄道を使ってヨーロッパまで出てアメリカに帰った。大量の写真を撮影しながら旅を続けたことは言うまでもないだろう。


バーグについてはかなり有名で、このエピソードもご存知の方も多いだろう。ただバーグという人は、後の空爆の資料として使われる東京の街並みを撮影しただけの人として記憶されるだけではもったいない。本書の原著は74年、邦訳は76年刊行なので情報などはいささか古びていて細かいところでは正確さを欠いているところもあるのかもしれないが、バーグという特異な人物を描いた非常に面白い伝記となっている。


バーグの両親はロシア国境に近いウクライナの出身だった。父のバーナードは頭がよく、当時のロシア系ユダヤ人としては珍しく公立学校に通うことを許可され、哲学中心の教育を受けるとともに英語の習得にも精を出した。しかし父親が怪我で失職してしまったこともあり、バーナードが村の子どもに勉強を教えるなどして稼いだ金でなんとか暮らすような状態になってしまう。バーナードは教育ある家庭で育ったローズと出会い婚約する。ここにいても絶望的な生活しか待っていない、未来はアメリカにあると二人は考えた。義父から金を借りてまず単身バーナードがアメリカに向かうが、その劣悪な環境に嫌気が差してイギリスに行くものの、不況で仕事は見つからず、やはりアメリカで生活するより他ないと覚悟を決める。洗濯屋などで懸命に働き金を作ってローズを呼び寄せた。バーナードは医者になりたかったがそんな余裕はあるはずもなく、なんとかコロンビア薬科大学に通い薬剤師の免許を取り、薬局を開店した。

このように頭脳明晰でありながら、移民であり貧しさゆえに高い教育を受けられなかった両親が教育熱心になるのは当然のことだったろう。バーグはその期待に応えたが、しかし彼はまた、子どもの頃から野球にも熱中するようになった。3歳になると投げられるものはなんでも投げるようになった。4歳のときにはパトロール中の警官とキャッチボールをするようになり、どんな速い球もあまりにうまく取り、「もっと強く」と催促するほどで、見物人まで現れるほどになる。

兄のサミュエルはニューヨーク大学で医学の勉強を始めていた。バーグもそこに通いだすが、プリンストン大学に移ることに決め、見事合格する。家族は大いに喜び、とりわけ父は下の息子がアメリカ最高の大学に通い、教職に就くものだと思い鼻高々だった。当時のプリンストンの学生は、金持ちか貧乏だが非常に頭がいいかのどちらかだった。バーグがどちらであったのかは言うまでもないだろう。わずかな奨学金を得たがそれで足りるはずもなく、爪に火を灯すような生活を送らなければならなかった。学生融資を受けてなんとか学費と生活費を捻出することになる。

バーグは言語学に熱中し、ヨーロッパの多数の言語を身につけるのみならずサンスクリット語もマスターした。外国語は読み書きだけでなく会話にも通じ、大変耳がよく、いくつかの言語をまるでネイティブのように話すことができたという。大学でも野球を続けショートを守り、二遊間でラテン語で会話して、対戦相手を惑わすこともあった。

バーグは大学のクラブには入らなかった。プリンストンには反ユダヤ主義的空気が強く、それへの抗議の意思だったと考える人もいるが、また金がなかったために入ることができなかったとも、単に変わり者で社交に関心がなく一人でいるのが好みだったとする人もいる。おそらくはこれらの要素がすべて入っていたのだろう。バーグは人種差別を憎み、メジャーリーガになった後もサッコ・ヴァンゼッティ事件への抗議デモに参加している。また同時にチームメイトですら試合が終われば彼が何をしているのか知っている人はほとんどいなかった。人当たりがよく誰からも好感を持たれると同時に、奇行でも知られ、他人と深く付き合うことは避けた。

その奇行っぷりをもっともよく表しているのが新聞にまつわるエピソードだろう。バーグは生涯に渡って多数の言語で大量の新聞を読み続けた。どこへ行っても新聞を買いあさり、またそれは彼にとって神聖なものですらあった。まだ目を通していない新聞は「生きている」新聞で、誰であろうともそれに触れることを許さなかった。部屋中に「生きている」新聞があり、訪ねてきた人は座ることすらできないこともあった。目を通した新聞は「死んだ」もので、これには他人が手を触れても構わなかった。当然とすべきか、彼は生涯独身を通すことになる。

この新聞中毒っぷりは後に他ならぬ「ニューヨーク・タイムズ」の広告に使われることになる。当時レッドソックスに所属していたバーグは、もちろん毎日「ニューヨーク・タイムズ」を熟読していた。しかしある日、新聞の到着が遅れてしまった。試合が始まり三回になると、監督はバーグに新聞を届けにきた少年がベンチにちょこんと座っているのに気付いた……という設定で、レッドソックスのベンチに選手達が座っているが、一箇所だけ空席があり新聞配達少年の予約席になっているという漫画が添えられていた。


プリンストンを卒業すると、ドジャースから年俸五千ドルで誘いがあった。野球は好きで、できれば続けたかったが、ソルボンヌ大学に留学して言語学を深めたいという思いもあった。ある弁護士に相談すると、ぜひ契約すべきだと言われた。その弁護士は若い頃に投手として誘われたが、それを断りあとで後悔することになった。スポーツは今しかできないが、他のことなら後でも取り返せると説得する。こうしてバーグはプロ野球選手となった。

とはいえ学問への情熱も持ち続けた。五千ドルあればソルボンヌに行けるじゃないかと言われたが、その言葉通りに、一年目のシーズンを終えるとパリの渡り「純粋ラテン語が被征服諸国の言語とまじわるにつれ俗化していく過程」の研究を行った。またある年には、キャンプの日になってもバーグは現れなかった。秘かにコロンビア大学の法学部に入学しており、学校が終わるまでの6週間チームに合流しなかったのである。コロンビア大学の教授は事情を知ると特別プログラムを組み、シーズンオフだけでも単位を取れるようにした。バーグは弁護士にもなり、シーズンオフには法律事務所に籍を置いた。もっとも彼は実務的なことには関心がなく、もっぱら理論的なものにしか興味を持てなかったようだ。

バーグが法律に専念していたら最高裁判事にだってなれたかもしれないという人もいるが、それは彼の頭のよさを称えると共に、その才能を無駄使いしているように感じられ嘆いているということなのかもしれない。バーグの父は子どものころから彼が野球に熱中するのを快く思わず、せっかくプリンストンまで出ておきながら野球選手になるとは何事かと、球場に来て応援することはなかった(母は喜んで球場に足を運んでいた)。

マスコミは当然面白がって記事を書き、「プロフェッサー」と綽名を付けたが、バーグはこれを不快に感じていた。それでもチームメイトから浮くことはなかった。彼は何よりも勝利にたいして熱い心を持ち、控えであろうと常にベストを尽くし、ミスをした選手には温かい言葉で励ました(それでいて試合が終わるとすっと姿を消したが)。
元々はショートであったが、肩が強く堅実な守備が高く評価される一方で打撃は弱く、またおそろしく鈍足という欠点を抱えていた。ある日チームは故障者続出でついにキャッチャーがいなくなってしまう。バーグは自分がやると言い出し、そのままキャッチャーを続けることになった。キャッチャーは彼にとって天職だったのかもしれない。その確かな技術論と配球は投手からは信頼をされ、相手打者からは嫌がられた。バッターに対してボソボソと話しかけて集中力を乱すという野村克也ばりのこともしている。

あれだけの能力を持つ人物が野球選手であることをいぶかしむ向きもあったが、決して一流ではないもののいくつものチームを移籍しながら選手を続けられたのは、彼の野球にかける心意気とその明晰な頭脳のおかげであり、バーグは野球選手であることに満足していた。


そのバーグはその奇行だけでなく、不思議な交遊関係でも知られていた。政府高官はもちろんのこと、ローズヴェルト大統領とも面識があった。彼が現役時代から秘密の任務についているという噂はあった。真珠湾攻撃の約一ヵ月後、コーチを務めていたレッドソックスを退団して野球界から引退し、政府関係の職に就くと発表しても、驚くことではなかったのだろう。

バーグはこの後ラテンアメリカでナチスの浸透具合やアメリカが好意を獲得するためにすべきことの調査にあたり、ユーゴスラヴィアに潜入してパルチザンと接触、ノルウェーにはパラシュートで降下して重水工場の状態を探った。そしてスイスでは、ナチスのために原爆を開発しているのではないかと連合国が恐れていたハイゼンベルクと接触するのであった。なお『なぜ、ナチスは原爆製造に失敗したか』ではバーグはドイツ語は得意ではなく、付け焼刃の物理学の知識は役に立たなかったとしてあるが、本書ではバーグはドイツ語に堪能で物理学も短期間で充分な知識を得たとしてある。


バーグは戦後も日本関係の任務にはついていない。バーグは二度の来日で日本人の友人も多く、1930年代には、戦後に政界にも進出する松本瀧藏のハーヴァード留学を助けた。またLとRの聞き分けができず、それが発音や綴りにも影響が出てしまう日本人のために(1940年に開催されるはずだった東京オリンピックの宣伝で、「olympic」を「oriympic」と綴ってしまったという)いかにLの音を与えるかについて考察し、評価された。42年には短波放送で日本語で「わたしは日本国民の友人としてみなさんに話かけます」と、日本の伝統を称え日米関係の良好な歴史を振り返り、あなたがたを裏切ったのはデモクラシーを誤解した指導者であり、日米は友人同士であり続けられると呼びかけた。この放送にはローズヴェルト大統領は直接バーグに電話し感謝をし、またこれを聞いたバーグの友人の日本人は感動し、中には涙を流す者もいたという。
なお医師であるバーグの兄は原爆投下六週間後に長崎に入り放射性物質の人体への影響の調査に参加している。

バーグは少なくともアメリカではそれなりに顔と名前を知られていた人物であり、このような人物をスパイにするというのは冷静に考えるといささか奇妙なようにも思えるが、34年の日本でのスパイ活動は、メジャーリーガーがスパイであるというフィクションのような設定がむしろ煙幕の役割を果たしたのかもしれない。一方で戦後日本で特殊任務に就かなかったのは、あまりに有名だったからなのだろうか。しかしこれはヨーロッパでも事情はそう異ならなかったのかもしれない。バーグは時おり友人に出くわしたり、彼を知る人に気付かれてはそれをやり過ごすのに苦労した。

口が堅く(すでに公開され新聞記事になっているような情報を明らかにした人に懸念を示すほどだった)、他言語に通じたバーグはドノヴァン将軍お気に入りのスパイだったが、知的能力が高く体力に優れていたとはいえ、本当にスパイとしての資質があったのかは疑問な面もある。

バーグは自動車の運転を身につけようとはしなかった。運転するために免許を必要とし、書類や規則に縛られる自動車を「官僚的」だと嫌った。ではどうやって移動したのかというと、重要な任務であろうともヒッチハイクをしたり長距離を歩いて移動したりしていたのだそうだ。
OSS秘密情報部長シェパードソンやドノヴァンはこれにあきれ、後に「第二次大戦最大のヒッチハイカー」と言っていたそうだが、このせいで命を落としかけたこともあり、笑い事ではなかった。当時はアメリカではスパイの育成などは黎明期であり、そのような時期であったからバーグのような人物が重宝されたのかもしれない。


そのバーグが戦後のアメリカ社会に適応できなかったのは無理もないのかもしれない。
同居することになった兄は「彼はもはやわたしの知っているかつての愛想のよいモーではなかった。彼は奇妙な態度をしめすようになった。ときおり癇癪をおこすようになった。モーらしくないことだった。わたしは戦争中の仕事がこの変化の主な原因だろうと思った」と振り返っている。任務の話はしなかったが、肌身離さず持ち歩いていた青酸カリの小瓶を見せられたことがあった。心優しいバーグは血を見るのにも耐えられないような性格だった。その彼がピストルと青酸カリという似つかわぬものを常に持ち歩かなければならなかったのである。

さらに経済事情も追い討ちをかけた。バーグは文房具メーカーに投資していたが、共同経営者が事業に失敗してしまう。この事業の拡大は政府絡みのもので、拡大しろといわれながら梯子をはずされたと共同経営者は恨んでいる。バーグが心を痛めたのは自身の金がなくなることではなく5百人の従業員が生活に困ることだった。バーグは金持ちの友人に融資を依頼するが断られる。金への執着心がないバーグにとっては、これは理解しがたいことだった。
バーグは大戦中に報償支払い用に1万6千ドル支給されていたが、戦後この明細を出すように要求されると、これを返すと言い出した。政府が計算すると実際にはむしろ3千ドル政府の方に借りがあったことがわるのだが、バーグは頑なに金を受け取ることを拒否した。
国税局は大戦中特殊任務に就いてきた時に税務申告をしていなかったと追徴金を要求してきたが、そんな多額な報酬など受け取っていなかった。バーグはほとんど一文無しになったが、彼はこれ以降食っていくのに必要な額以上は稼がないと決めたようだった。
バークは戦後叙勲を辞退したが、これは無私の行動に誇りを持っていたためだろう。ところが他ならぬ、彼が理想のために尽くしたはずのアメリカという国家や社会に裏切られたように感じたもかもしれない。

ひたすら言語学、哲学、天文学、原子力などの学究生活に打ち込むようになり、わずかな友人との交際や学術会議、それに野球を見に行くとき以外は読書を中断することはなかった。
戦後中断していた政府関係の仕事だが、50年代後半にはソ連のスプートニク打ち上げ成功を受けてNATOの航空研究開発顧問団(AGARD)のスタッフに加わり、その団長のフォン・カーマンとは緩い結びつきを保った。63年にカーマンがホワイトハウスで表彰されると、バーグも授賞式に招待され、ケネディから「あなたのいない野球は昔と同じではなかったよ」と握手を求められた。「ありがとうございます、大統領閣下。これはお世辞じゃないと思いたいです」と答えた。


晩年はほとんど仕事をせず、ときおり法律相談に答えては小遣い程度の金を稼ぐだけだった。バーグは戦後野球界に戻ろうとはしなかった。かつての仲間は、もし求められればレッドソックスは彼に合う仕事を探したことだろうが、プライドが高すぎたのだろうと振り返っている。
経済的に行き詰まりはじめるのと反比例するように、本と新聞への強迫観念は強まっていった。本を読むと重要な部分に傍線を引いたが、それがあまりに多すぎて、線が引かれていない単語はtheとandとorだけという始末だった。本と新聞は兄の家を覆いつくすかのようで、生活に支障が出るほどになり、ついに兄の家を出ることになった。

「モーは世間に対する信頼を失っていた」と、ある人物は語っている。「金にしか目を向けない世間が彼を悲しませた」。1967年、レッドソックスが優勝した。うれしそうなそぶりを見せたが、心から喜んでいる様子ではなかった。「モーはかつてのモーではなかった」。

それでもバーグは人を魅了する能力を失ったのではなかった。バーグの不思議なところは、彼は一人を好み、誰の目にも変わり者と写るにも関わらず、世を拗ねた隠棲家になることはなく、快活さと優しさとを持ち続けたことかもしれない。「定年病」にかかって元気のない友人にはわざわざ泊りがけで励ましに行ったりもしているほどだ。

彼と話せば誰でもその知識に舌を巻き、また彼の知的好奇心も衰えることなく、中国語の研究を始めた。とりわけ北京地区の北部方言に関心を持ち、ニューヨークで中国人社会の長老から昔の話を聞き、やがて彼自身も中国語を話せるようになった。「モーの小脇にはさまれるフランス語、イタリア語、スペイン語の新聞に、新たに中国語の新聞が加わった」。

ボストンで45年に渡って新聞を売ってきたラリーは、現役時代からバーグを知っていた。ボストン以外で出ているありとあらゆる新聞を買い求め、外国語の本をスタンドにあずけっぱなしにしては、突然それをとりにきたりしていた。数年間姿を見せなかったが、72年にひょっこり現れると、抱きかかえ、背中を叩きながら「ラリー、きみに会えてすばらしい。ほんとにうれしいよ」と言った。

バーグは生涯独身であったが、晩年は自分も子どもが欲しかったと語り、「人間には死んだあともだれか自分を思いだしてくれる人が必要だね」と言うようになった。「わたしをあんたのおじいちゃんにしてくれよ」と 友人の娘を抱きかかえたこともあった。

1972年の春、バーグはニューヨークの古本屋でフランス語に関する珍しい中世の本をわずか1ドルで手に入れることに成功した。バスでニューアークに戻ると、二人組みの暴漢に襲われた。彼は殴られながらも撃退し、近くの商店に助けを求めた。店の主人が怪我はないかと訊くと、バーグは購入した本を見つめて、「われわれはだいじょうぶ。われわれはだいじょうぶ。わたしの友達は百歳以上も年をとっているんだ」と言った。
それから間もない5月、自宅で転倒して入院していたバーグはそこで息を引き取った。亡くなる数分前に、彼は看護婦に向かって「今日のメッツの試合はどうだったかね?」と訊いた。それが臨終の言葉だった。

言語学と野球に生きたバーグらしい最後の数ヶ月だったのかもしれない。

繰り返しになるが本書の記述の中には割り引いて考えたほうがいいものも含まれているようで、興味をもたれた方は『「大リーガー」はスパイだった  モー・バーグ謎の生涯』(ニコラス・ダウィドフ著)も合わせて読んでみてほしい。


プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
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