『「大リーガー」はスパイだった  モー・バーグ謎の生涯』

ニコラス・ダウィドフ著 『「大リーガー」はスパイだった  モー・バーグ謎の生涯』




親善野球に来たスパイ』を読んで、こうなりゃついでだということで『「大リーガー」はスパイだった』も読んでみた。

『親善野球に来たスパイ』はバーグが亡くなって間もなくに出ている。『「大リーガー」はスパイだった』の原著の刊行は94年の刊行なので、「面白さ」という点では『親善野球に来たスパイ』の方が上のようにも思えるが、資料的にこちらの方が信頼度は高いのだろう。エピソ-ドとしては当然ながら重複しているものも多いが、『親善野球に来たスパイ』で語られながらこちらでは取り上げられていないものは、確証が得られなかったということなのかもしれない。

またそのあまりに有名なエピソードについて、ダウィドフは解釈の点で異なる見方を提示している。
バーグが1934年に日本の街並みを秘かに撮影したことは間違いのない事実である。しかしこれが東京などの空襲を行ううえで決定的な役割を果たしたというのは本当だろうか。1920年代から30年代にかけて日本は鎖国をしていたわけではない。関東大震災後の復興にはアメリカ人も協力しており、東京の街並みは基本的にこのときに作られたままで、当然その資料は入手していた。また海軍武官の補佐として大使館に勤務していたスティーヴ・ジュリカ軍曹は七年に渡って日本に住み、日本語も堪能だった。著者はドゥーリトルによって設定された爆撃目標はこのジュリカの情報を元にしているとしており、日本側もこれに気づいており、1944年にフィリピンにいたジュリカの母親を報復として殺害しているという。

これは冷静に考えてみればその通りで、バーグのフィルムに頼らなければならないほどアメリカ軍の情報収集力が無能であったことは考えづらい。危険を冒してでも貴重な映像や写真を撮ることを厭わないバーグのような人物はいろいろと使える可能性があったし、政府や軍は彼の気分を害するようなことをあえてはしなかったのかもしれないが、それとバーグの果たした役割が決定的なものであったのか否かはまた別の話だろう。

またハイゼンベルク暗殺計画についても、ダウィドフは別の見方をしている。OSSにおいてこの計画が立てられたことは事実であり、バーグはスイスに潜入し、ハイゼンベルクを殺す寸前までいった。しかしこれも冷静に考えると奇妙な話だ。バーグはもしナチスによる原爆の開発が間近に迫っているとの確証が得られたらハイゼンベルクを射殺せよとの命令を受けていた。しかしもし本当に開発が迫っていたのだとしたら、そんな大事な人物をナチスが中立国とはいえドイツ国外に出すだろうか。つまりハイゼンベルクがスイスで講演を行うという時点で、彼を中心とした原爆開発は遠いということは明らかなのである。この作戦が最初に提案されたのは42年のことで、この当時なら暗殺や誘拐は意味のあったことのだろうが、44年になってからではあまりに「遅すぎる」。ある人物は44年には「もはやハイゼンベルクにそれほどの価値はなかった」としている。これはOSS内部の「夢物語」であった。

ではなぜこのような逸話が「事実」として広く信じられたのかというと、それはバーグ自身が吹聴したからであった。

ダウィドフは冗漫に思えるほど、戦後のバーグの零落ぶりを執拗に描写している。第二次大戦後バーグが国に裏切られたと感じていたことは間違いないだろう。しかしバーグが様々な意欲を失っていった理由はそれだけではなかったようだ。

バーグは戦時中にはスパイであることに気づかれないよう気を配ったが、戦後は逆に自分がスパイであるかのように、思わせぶりな言動をとった。バーグが何によって生計を立てているのかは謎であり、それゆえに政府関係の仕事をしているのだと思わせたが、実際にはほぼ何もしておらず、友人たちの援助によって生活していたのだった。

バーグは戦後もいくつかCIAや政府関係の仕事をしている。しかしいずれも短期間の一時的なものに終わった。バーグはCIAから仕事を請け負うと、大戦中と同じように高級ホテルに泊まり、高級レストランで食事をし、そのレシートを保存すらせず、CIAとの連絡も滞りがちになった。戦時中のOSSでならこのやり方は通用したが、平時にCIAではこのようなやり方は通らない。最早バーグのようなタイプはスパイとして雇われることはなくなっていた。

『親善野球に来たスパイ』と本書で見方が大きく異なるのが、野球に対する姿勢だ。あれだけの頭脳を持つ人物がなぜ野球選手になったのか、これは現役当時から大きな謎だった。もちろんバーグは野球を愛していた。なぜ野球を続けているのかという質問に、「好きなんだ。やめられないんだ」と答えたこともあった。ではバーグは野球選手として成功したいと願っていたのだろうか。ダウィドフはバーグが怠け者に見えたという証言を取り上げている。バーグにとって年に30試合程度しか出場しない控えのキャッチャーというのは理想的なポジションだった。レギュラーを取りたいという野心も、よりよい成績を残したいという向上心も持ってはいなかったようだ。バーグは「チームに残っていたかっただけ」で、「どうしても出なけりゃいけないとき以外、試合に出場したがらなかった」。

バーグは「野球選手ほどいい商売はない」と語っている。「一日に三時間だけ働いて、国中を旅してまわり、上等のホテルに泊まって、すばらしい人びとと出会い、それで給料がもらえるんだから」。
これはバーグにとって理想的な生活だった。バーグはビーグル犬のようだったと語っている人がいる。「ビーグル犬はすぐれた嗅覚をもっていて、おいしそうなにおいをかぎつける。すると、また別のどこからか、おいしそうなにおいがただよってきて、そちらを追いかける。そんなことをくりかえしているうちに、ビーグル犬は見当ちがいのところへ行って迷ってしまう」。
バーグは一つ所にとどまって一つのことを集中して成し遂げることができない性格だった。野球選手ならば、あるいは戦時下にOSSのスパイとしてならこのような生活を送ることができたが、戦後にはもう彼の居場所はなかった。彼の頭脳と人脈をもってすれば仕事を得ることはたやすかったが、どうしても定住することはできなかった。バーグは友人たちの援助に頼りながら、流浪の生活を送ったのだった。

インテリでハイソな寅さんとでもいった趣であるが、単に性格的にそうだったすることもできないようだ。
1950年代の終わりごろ、バーグは外出したがらなくなり、下着もつけづに色あせた着物をはおっただけの恰好で、安楽椅子にだらしなく座って本を読んだりうたたねをするだけという状態になっている。電話にも出ず人とも会いたがらず、たまに外出してもどんよりとした目でうろつくだけで、挨拶されても無視し、雨も降っていないのに傘を必ず持ち歩いた。
奇行の域を超えて何らかの精神疾患を疑うような状態であり、著者は「分裂症」の可能性を示唆している。しかし同居していた兄は、バーグがアインシュタインと面識があることから、「アイシュタインと話しが出来る人間なら、精神病者のようにぼけるはずがない」と考えていた。

バーグは服装にこだわりをもっていて、ある時期以降は「十年一日のごとく、毎日同じ服装で通すようになり、それは死ぬまで変わらなかった」。バーグはスーツとシャツを一枚ずつ、ネクタイを一本しか持っていないと考える人もいたが、チームメイトはそうではないことを知っていた。ある日バーグが住んでいたホテルから本人をおびきだし、チームメイトが部屋に忍び込んでクローゼットを開けると、そこには同じスーツが八着、きちんと並べて吊るしてあった。遠征中に汽車に乗っていて、新しいスーツとネクタイを買ってあげなきゃな、と言われると、網棚からスーツケ-スを降ろして、全く同じネクタイを十本取り出して、「毎日同じネクタイをしてるわけではないんだ」と答えた。
なんだかスティーブ・ジョブズを思わせるし、執拗なこだわりはバーグが現在なら「分裂症」ではなく高機能自閉症とでも見なされそうな気もしてしまうが、またそうとも言い切れない傾向も持っている。

バーグがの奇人っぷりをさらに印象づけるのが、とりわけ戦後は世を恨む世捨て人になって頑迷な性格となり人を寄せ付けないようになりそうなものなのに、「挫折して、失望して、働く気力を失ったバーグにも、政府でさえ奪えない資産が一つだけあった――その人柄である」と、外面的な印象が変わらなかったことだ。バーグは戦後もその人柄で友人たちを魅了した。明らかに生活に困窮しているバーグを様々な人が助けている。バーグは相変わらず座談の才を発揮したが、一方で自分の私生活には絶対に立ち入らせなかった。もしも踏み込めば、バーグはあっさりと背を向け振り返らなかった。しかし同時に過去の栄光の数々、つまりあの日本での危険を冒しての撮影やハイゼンベルク暗殺計画については繰り返し語ることになる。そして現在進行形で政府や、その他重要な機関のプロジェクトにたずさわっているかのようにほのめかした。自分のことを重要で優秀な人間だと見せたがった。実際にそうなれるだけの資質はバーグにはあったのだが、そこからは逃れ続けた。それでいて、自己顕示欲からは逃れられなかった。

バーグが優秀な言語学者で、言語習得能力に優れていたことは事実である。しかし伝説にあるように数ヶ国語を操ったというのは大袈裟なようだ。読んである程度内容を理解できることや片言の会話をこなせることと、流暢に使いこなすことには大きな差がある。バーグは自ら言語の天才であるとは言わなかったが、また誤解を訂正しようともしなかった。

バーグが後年よく語ったのは、日本遠征の際にベーブ・ルースから「きみは語学の達人だから、日本語も話せるんだろう」と言われたエピソードだ。「いや、一度も勉強するチャンスがなかったんだ」とバークは答えた。ところがその二週間後に日本に着くと、バーグは日本語で挨拶をした。ルースが「きみは日本語が話せないと言ったじゃないか」と言うと、「二週間前まではね」とバーグは答えたのであった。「ときには話の引き立て役をルースからレフティー・ゴメスに変えることもあった」ということから、これが事実であったか否かはわかるだろう。

バーグがある程度の日本語をマスターしていたことは確かである。芸者を呼んでの宴席で、芸者がそばを通るたびにルースに身体をさわられることに困惑しているのを見てとると、バーグは紙にカタカナで何か書いて芸者に渡した。ルースに身体を触られたのを感じた芸者は、立ち止まっておじぎをするとにっこり笑って、「ファック・ユー・ベーブ・ルース」と言った。
これもちょっとできすぎで事実かどうかは疑わしく思えるが、いずれにせよバーグがカタカナを書けたことは残されたサインなどから間違いない。


バーグは感情を露にすることはなかったが、それを手帳に書き付けていた。何冊もの手帳に山のように友人のリストを書き連ね、「チャーリー、『モー・バーグはすごい奴だ』」といった会話の断片や、「日曜日の試合前、テレビに出演。時間はかなり長く、相手はメッツの人気アナウンサー、リンゼー・ネルソン」と日記風のものもあった。そして「何か恐ろしいことでも告白するかのように」、「M・Bは困惑した」という痛々しい記述もある。バーグは自伝を書こうと何度も試みたが、書くことができなかった。友人との会話であれば、話を大袈裟にしたり虚偽をまぎれこますことも可能であったのかもしれないが、自分と向き合わなければならない自伝執筆となるとそうはいかなかったのかもしれないと、著者は推測している。


さて、『親善野球に来たスパイ』ではバーグ家について混乱した記述があるのはどうしたことだろうか。実は兄のサムと姉のエセルの折り合いが非常に悪かったという事情があった。34年以来二人は口もきかず、サムは妹を「変質的分裂症」と呼び、エセルは弟を家から追い出した兄を許さなかった。サムが三人のジャーナリストと協力して伝記を出版すると(これが『親善野球に来たスパイ』となる)、エセルは自分の名前を出したら告訴するといきまいて、モーに姉がいたという記述が一切なくなっている。エセルは自腹で弟の伝記を出したが、ここにサムの名はない。エセルはモーの話となると「まるでヒステリー」となって、モーは毒を盛られたのだと断言していた。

86年にエセルが意識を失っているところを発見された。サムは妹の見舞いに訪れたが、翌年エセルは亡くなった。その直前、サムはエセルが74年にモーの骨壷を掘り出してイスラエルに持ち出していたことを知った。その時埋葬を依頼されたイェルサレムのラビは正統派で、火葬は教義に反することであるとし、その依頼を断った。ならばどこに埋葬すればいいのかと訊ねられると、そのラビはイェルサレムを見下ろす丘を指差したのだった。サムはイスラエルを訪れ、埋葬場所を探そうとしたが、そのラビは場所を特定することができなかった。結局サムは弟の遺骨がどこにあるのか発見できないまま、1990年に92歳で亡くなる。

「モー・バーグの謎めいた生涯の最後の謎は、彼がどこに眠っているのか誰も知らないことである」。



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佐藤太郎(仮)

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