『サウルの息子』

『サウルの息子』



ゾンダーコマンド。自らがアウシュヴィッツの囚人であり、同胞のユダヤ人たちに真実を告げることなくガス室へと誘導し、死体の髪を切り取り金歯を抜き、その死体を焼き、骨を砕いて灰を川に流すという、「最終解決」の「実務」を担わされ、数ヵ月後には自らも殺され焼かれ灰になることになる。

そのゾンダーコマンドを正面から扱ったネメシュ・ラースロー監督の『サウルの息子』は、カンヌに出品されたときから気になってはいたのだが、なまじナチスやホロコーストについて関心を持っているだけに、これを見ていいのだろうか、見ることに様々な意味で耐えられるのだろうかという不安もあった。

結論からいえばこの作品は映画としても傑作であり、倫理的問いにも充分に応えてもいる。また音響も極めて重要なので、できれば映画館で見るべき作品だろう。


僕がナチスやホロコーストについて関心があるのにはいくつかの理由がある。その一つが、もしあの時代に自分が「健康なアーリア人」としてドイツに住んでいたら、いったい何をし、何をしなかったのだろうかということを考えると、不安にかられるというものがある。

ヒトラーを支持することはなかったかもしれない。そうした方が個人的利害においては「有益」であったとしてもナチスへの入党を拒んだかもしれない。しかし、左翼や反体制派が、ユダヤ人やロマ(ジプシー)が、心身に病や障害を持つ人びとが、同性愛者が姿を消し収容所へ送られるのを目の前にしたとして、いったい何をしたのだろうか。ひどいやり口だ、かわいそうだ、でも自分一人でどうこうできるものではない。「少しの我慢だ」、そう言い聞かせて、肩をすくめてやり過ごそうとするだけだったのかもしれない。

ファシズムの語源はイタリア語の「束」、「束ねる」だ。「全国民」を一つに束ねること。裏を返せば、束に加わらない、加われない人間は「国民」ではないということになる。ファシズムの恐ろしさとは少数が多数を支配することではなく、多数派の利益のために権力者が少数派を徹底して弾圧し、そのことが許容されることにある。ナチスが長期政権を築き、蛮行の数々を実行に移せたのは、ドイツ人多数派の有形無形の同意があったからだ。

もちろん日本人としては、ここでドイツを引き合いに出すのは欺瞞的なことだろう。日本人の圧倒的多数が、国連から脱退してきた松岡洋右を英雄として出迎え、「南京陥落」に歓喜し、真珠湾攻撃に快哉を叫んだ。もしあの時あの場所にいれば、熱狂しないまでも、沈黙も消極的抵抗なのだと自分に言い聞かせることしかできなかったかもしれない。


『サウルの息子』について考える前に、ラースローが2007年に撮った短編with a little patienceから始めたい。

画面の正面遠くから女性がカメラに近づいてくる(このオープニングは『サウルの息子』のそれとも重なる)。何者がカメラの前に立ちふさがり、彼女はブローチを渡される。事務職の女性の何気ない日常を描いているかのようだ。彼女はもらったブローチを胸にあててみるなど、今一つ仕事に集中できていないようでもある。それにしてもここはいったいどこで、彼女は何をしているのだろうか。そしてカメラは衝撃的な光景を映し出すが、女性は文字通りに扉を閉めて、あの光景を見なかったかのように、何も聞こえないかのように鍵を閉めるのであった(視線は彼女に目配せをし遠ざかっていくSSを追っている。ブローチを手渡したのは彼だったのだろうか、だとすればブローチの出所は……)。

この作品を見れば、ラースローが技術的に只者ではないことがわかる。タルコフスキーやアンゲロプロスばりの長廻し。俳優もカメラも複雑な動きをするが、それでいてなめらかだ。相当に練り上げて撮影に取り掛かったのだろう。この短編を見て、僕は「すげえ」と思ったし、「興奮」した。しかしホロコースト、あるいはショアーを表象するにあたって、このような「巧み」さは危険なものでもある。


ロバート・イーグルストンの『ホロコーストとポストモダン』に、アウシュヴィッツからの帰還者であるプリーモ・レーヴィが戦後にでくわしたこんなエピソードがある。レーヴィは小学校に講演に行った。利発そうな少年が「決まりきった質問」、「なぜあなたは逃げなかったのですか」を投げかけてきた。レーヴィはそれに答えるが、少年は納得がいかない様子だ。そして少年は自らが立てた脱走計画を披露し、「もしもう一度同じようなことになったら、僕が言ったようにしな。きっとうまくいくから」とアドバイスするのであった。

レーヴィはただ「微笑」することしかできなかった。この少年はナチスの蛮行を知っており、ユダヤ人に同情してもいるのだろう。しかし、何もわかってはいないのだ。

「物語」は危険である。それが優れたものであればあるほど、観客や読者は物語に没入し、対象と一体化し、被害者や犠牲者と同一化することになる。そしてあたかも追体験をし、全てを理解できたような気になってしまう。しかしアウシュヴィッツについて、追体験することなど可能なのだろうか。イーグルストンはブランショのこんな言葉も引用している。ホロコーストの生存者の言葉を、「他の書物と同様の仕方で読んだり消費したりしてはならない」。


ロベルト・ベニーニの『ライフ・イズ・ビューティフル』はどのような作品だったろうか。
収容所に捉われた父は息子に、全てはゲームなのだと言い聞かせる。息子はこれをゲームなのだとして収容所の中を生き抜き母と再会できたが、生き残るための知恵を授けてくれた父の姿はそこにはなかった。「感動的」だ。思わず涙がこぼれてしまいそうになる。しかし、「ゲーム」だと思い込むことによって、知恵と勇気だけによって収容所生活を生き延びることなどできたのだろうか。そんなことは有り得ない。ナチスによる強制収容所はそのような場所ではなかった。しかし『ライフ・イズ・ビューティフル』に「感動」してしまった観客は、強制収容所がそのような場所だということが身体に染み込んでしまうのである。レーヴィに脱出計画を得意げに披露した少年のように。


『ライフ・イズ・ビューティフル』は極端な例であろうが、ホロコースト、あるいはショアーの表象の問題については長く様々な議論がある。ラースローはハンガリー出身であるが幼少期にはフランスで生活したこともあるという。そしてランズマンやゴダール、ディディ=ユベルマンなど、フランスにおいてホロコーストと表象の問題は激しい議論が行われてきた。

ゴダールは強制収容所を撮影しなかったことで、映画はその責務を怠ったのだと主張する。このゴダールの主張は必ずしも正確でないことは、『映画史』において撮影された強制収容所のフィルムを引用していることで自ら証明している。ゴダールが言わんとしたことは、物理的なフィルムの有無の問題ではなく、それを複数のイメージの連なりである「映画」として成立させるかどうかにあるとすべきなのだろう。一方で『ショアー』の監督のランズマンは、「イメージ」の危険性を説き、安易な表象は逆に矮小化や記憶の忘却や改竄につながることを危惧する。しかしランズマンの『ショアー』はどうだろうか。8時間にも及ぶドキュメンタリーで、再現映像は一切使わず、証言に依っている。大変に抑制的でストイックなようだが、それでも、この作品を一部でも見ればこれが優れて技巧的に撮られ、編集されていることがわかるだろう。『私はホロコーストを見た』のヤン・カルスキはランズマンの取材を受け、そのインタビューが映画でも使われたが、短く切り刻まれたことに強い不満を持っていたとされる。『トレブリンカ叛乱』の「訳者あとがき」においても、ランズマンの使った証言の恣意性について触れられている。『ショアー』はドキュメンタリーとはいえ映画であることには変わりがはない。一次資料を残すことのみを目的としたものではないので、編集の手が入るのはやむを得ない。そしてそこには、やはり「イメージ」の危うさがある。むしろランズマンは、自身の作品でさえもそのような危うさから逃れることができないからこそ、表象に対して極めて禁欲的であらねばならないとしていると考えた方がいいのかもしれない。


ラースローはこのような議論の蓄積を当然承知しているであろう。そしてこの困難な倫理的問いをふまえて作られたのが『サウルの息子』である。

『サウルの息子』を見る前に、僕はこの作品が「物語」を拒否した(もっといえば「映画」であることを拒否した)、基本的な設定こそ与えられてはいるもののそれに意味を持たせることのない、「禁欲的」な作品なのではないかと想像していた。しかし実際に見てみると、『サウルの息子』は映画であることを拒否した映画ではなく、まさしく映画として、この困難に挑んだ作品であった。

ゾンダーコマンドであるサウルは、ガス室で死に切れなかった少年と出会う。稀にこういった例があり、解剖されるのが規則であるが、サウルは同じく収容者でもある医師に少年を解剖しないよう頼み込み、ユダヤ教の教義に則って正式に埋葬しようとラビを探し回る。サウルがなぜこのような行動に及ぶのかは容易に想像できる。ユダヤ人たちはガス室で殺され、灰になるまで焼かれ川に捨てられる。「最終解決」はユダヤ人そのものの痕跡を消そうとするものだ(作中には出てこないが、ナチスはユダヤ人の墓を暴いてその遺体を「消滅」させることまでしており、この異常な行動からも殺すことのみが目的ではなかったことは明らかだ)。サウルにとって「息子」をユダヤ教の教義に則って埋葬することは、自らが生きていたことの証を残すことであり、これはユダヤ人が確かに存在していたことの証ともなる象徴的行為なのである。

「不合理」なことに奇跡の可能性を見出しそれに固執して「不合理」な努力を繰り返すというのは、タルコフスキーの『ノスタルジア』も連想させる。このように、サウルの内面に密着すれば、危うい「普遍的な物語」ともなるりかねない。

しかしラースローは観客にサウルへの感情移入を拒ませる仕掛けをしている。サウルの行動は医師やその他のゾンダーコマンドを危険に陥れ、何よりも目前に迫っているゾンダーコマンドによる蜂起計画の足を引張っている。毎日数千人単位で殺されているのに、たった一人の少年を埋葬することに何の意味があろうか。周囲からすればサウルの行動は、はた迷惑な独りよがりのものとしか映らない。

サウルは腹を立てられる。同時に彼を見捨てないゾンダーコマンドもいる。これは観客の心理にも近いだろう。過度に感情移入をさせることによって同一化を図ろうとすることにブレーキをかけつつ、観客の関心もひきつけ続ける。

ラースローはその結末において、サウルに偽りに希望を与えない。彼がどうなったのかを、観客は疑うことはないだろう。しかし同時に、叛乱を起こしたユダヤ人の存在を目撃した少年は、生きて森の中へと消えていく。少年はアウシュヴィッツやゾンダーコマンドについて全てを理解したのではない。しかし彼はその存在を目撃したのだ。彼はこの後に知ろうとし、語り伝えようとすることになるかもしれない。少年はこの作品の観客のメタファーでもあろう。

ストーリーのみならず、手法においても倫理的問いに応えつつ、また極めて映画的でもあり続けている。スタンダードサイズの狭さを感じさせる画面は観客に圧迫感を与える。サウルに焦点があてられる一方で、周囲の光景はピントがボケでいる。これは心を閉じることでなんとかその場をやり過ごそうとしているサウルの心理を表したものだ。サウルにはほとんど表情はないが、ガス室から漏れ聞こえる悲鳴に歯を食いしばることから、完全に無になっているのではないこともわかる。

この作品は一人称なのであろうか。サウルの姿が映りこみ、何よりもその顔が正面から映し出されることからも、この作品は正確には一人称ではない。そもそもが、映画において完全な一人称を導入することは不可能とはいわないまでも極めて困難であり、これを徹底しようとすれば一般の観客には受け容れ難いものとなりかねない。従って映画で一人称的手法を導入する場合は擬似的なものとならざるを得ないのであるが、『サウルの息子』の場合、擬似的な一人称で撮られてサウルの視線をなぞっているところもあれば、明らかにサウルが見ていないはずのものを観客に見せている箇所もある。それでいて、「全て」を説明し、視覚化しようとはしていない。収容所の全体像も、ゾンダーコマンドと他の収容者との関係も、ゾンダーコマンド間の考え方や感覚の相違も、(とりわけ予備知識のない)観客にはかなりの部分が不可解なものとして映るだろうが、それはまたサウルを含めたゾンダーコマンド自身のものでもあろう。「全て」を捉えることなどできはしないし、やろうとするべきでもない。その点では本作は極めて「禁欲的」である。

『サウルの息子』は確かに精神的には見るのが辛い作品ではあるが、見る者を拒むような、前衛的な手法が使われているのではない。それどころか、映画を映画たらしめる、モンタージュ的手法さえ使われている。同時に、唯一の、単一のイメージを提示するのではなく、様々なカメラワークと編集技術を駆使することによって、「複数のイメージ」を観客に届けるものともなっている。


倫理的に困難な課題に挑み、あくまでそれを映画という媒体において貫徹しようとしているのが『サウルの息子』であり、ラースローは驚異的な手腕によってそれに成功している。


ゾンダーコマンドについて、そして作中にもそのエピソードが使われた(必ずしも史実通りではないが)収容所内部の写真撮影に成功し写真が残されていたことについて、そしてホロコースト、ショアーの表象についての議論はディディ=ユベルマンの『イメージ、それでもなお』に詳しい。本作を見た方はぜひともこちらの本も読んでほしい。





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佐藤太郎(仮)

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