『灰の記憶』

『灰の記憶』



サウルの息子』を見た後に未見だったこちらも。

ユダヤ系ハンガリー人医師、ミクロシュ・ニスリはメンゲレに任命され収容所で人体実験を行っていた。その彼が残した手記を基に、ユダヤ系ハンガリー人のゾンダーコマンドを中心に、アウシュヴィッツ=ヴィルケナウ収容所で起こった蜂起を描いている。

基となった事実が同じなので当然といえばそうなのであるが、『灰の記憶』と『サウルの息子』は設定や描写に類似点が多くある。『サウルの息子』の監督のラースローは、あるいは『灰の記憶』にインスパイアされつつも、ここにある危うさを乗りこえようとしてあの作品を撮ったということなのかもしれない。

『サウルの息子』にはガス室で死にきれなかった少年が登場する。そして前にも少女の例があった、といった会話が交わされているのだが、まさに『灰の記憶』にはガス室に20分いながら命を落とさなかった少女が、中盤以降物語を牽引することになる(この少女の例はニスリの手記にもあるようだ)。

しかし少年と少女が辿る道、そしてゾンダーコマンドの反応は対照的である。『サウルの息子』では、少年は息があったとはいえすぐに死亡し、サウルはこの「息子」の解剖を回避してユダヤ教の教義に則った正式な埋葬を試みるのであるが、周囲の理解は得られない。『灰の記憶』では、少女はニスリの治療により一命をとりとめ、当初は彼女を生かそうとすることに懐疑的だったゾンダーコマンドたちも、次第に彼女が生き延びることに希望を見出そうとするようになる。

『サウルの息子』も実は映画的技術を巧みに使いこなした作品であるのだが、そのことの危うさには非常に意識的で、「普通の物語」に陥ってしまうことには慎重である。一方『灰の記憶』は、蜂起時の音楽の使い方に代表されるように、「普通の物語」として成立してしまっている(ハーヴェイ・カイテル演じるSSは自らが非倫理的行為をしているという自覚があり、ドイツの敗北が迫っていることもわかっており、そのために彼はアルコールに逃げ込まざるをえないという描写のように、「人間味」ある群像劇となっているのも、その一端だろう)。

『サウルの息子』が一人称的で、観客にも、そしてサウル自身にもその全体像が掴み難くなっているのに対し、『灰の記憶』は三人称に時おり一人称が混ざる手法が取られている。これによって観客は俯瞰的視線で事態を把握できることになる。『サウルの息子』でも『灰の記憶』でも女性収容者との火薬のやりとりは重要なエピソードとなっているが、『サウルの息子』では彼女たちがどのような生活をしており、その後どうなったのかはまったくわからないが、『灰の記憶』では彼女たちの不安が描かれ、火薬を盗み出していたことが露見し凄惨な拷問を受けることになる。


ホロコーストの表象をめぐる議論を知らなければ、『灰の記憶』はアウシュヴィッツの実態をリアルに描いた作品として受け入れ可能だったのかもしれないが、「物語」によって観客の感情移入を図り、「事実」を全てわかったかのようにさせてしまうということには慎重であらねばならないということを考えると、少し立ち止まりたくなる。

何よりも、『灰の記憶』はナチスを含めて全員が英語を話している。アメリカ資本で非英語圏を舞台にした作品ではたびたび問題となることであるが、とりわけこのテーマにおいてこれは致命的だろう。設定としてはドイツ語やハンガリー語などが入り混じっているということになっているのだが、目の前で英語で話されておきながら、何と言っているんだ、ハンガリー語を使うな、などと言われても滑稽にすら映ってしまいかねない。

そして何よりも、邦題の元にもなっているように、死者に語らせるという手法は許されるべきだろうか。


『灰の記憶』が意欲作であることは間違いないだろう。本作においてユダヤ人は理想化されて描かれてはいない。ゾンダーコマンドはある面では退廃しているととられてもおかしくないようにも描かれており、またユダヤ人同士とはいっても出身地・国が違えば言葉は通じない。ハンガリーのユダヤ人とポーランドのユダヤ人は反目し、互いに不信感を持っている。武器を手にすることができ、蜂起を可能にしたのは金品による買収が横行し、ある種の制度が出来上がっていたためだが、このあたりについても反ユダヤ主義に利用されかねない、誤解を招きかねない部分だと、とりわけ映画という表現においては描くのに躊躇したくもなるだろうが、これについても触れられている。ユダヤ人を無垢な犠牲者としてのみ描くのではなく、こういった負の要素ともとられかねない部分についても描くことで、より実態に近いものとなっていることは確かだろう。

また『サウルの息子』では描かれなかった遺体の髪の毛を刈り取り、金歯を抜いて回収させられていたという描写もこちらにはある。ガス室の描写における差異としては、『灰の記憶』ではガス室の掃除の際にゾンダーコマンドはエプロンと手袋をしている。一方で『サウルの息子』で印象的な、ゾンダーコマンドの服に記された×印は『灰の記憶』にはない。このあたりはどの資料に依拠するかによっても異なっているということなのだろうか。


『サウルの息子』は映画史的に見ても事件といえるほどの作品であるので、このように比べてしまうのは酷であるのかもしれない。ただ『サウルの息子』が撮られた今となっては、この両作品を見比べてみることによって、アウシュヴィッツの表象をめぐる議論とはいかなるものなのか、なぜ『サウルの息子』は立場の違いを越えてこれほどの称賛を浴びたのか、そしてラースローがあのような手法を導入したのはなぜなのかについて考えてみるべきなのだろう。





ニスリの手記というのはこちら。



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