『中勘助の恋』

富岡多恵子著 『中勘助の恋』




男が頬ずりをしようとすると少女は「髯が痛い」と言って逃げてしまう。男は「見てゐるうちにたまらなくなつて」、「ちょつとここへいらつしゃい」と膝をたたくと、少女は「すなほに立つてこちら向きにのつた」。男が「ほつぺたのおつつけつこさせて、いつぺん」と言うと、少女は「玩具をもらつたからしかたがない」といった様子で黙っている。男は「それをひきよせるやうにしてそうつと頬ずりをする」。今日は髯を剃ってある。「痛くないでせう」と言って、「ぶよぶよふくらんだ頬へながいキスをしてやる」。

この二人が「三十歳すぎの男と八つか九つの女の子」だということを知ると、その不穏さはより一層高まるだろう。「こういう「接触」が男のたんなる「子供好き」によるものかどうかは、やはり問題としなければならない」。


本書は中勘助の「小児愛」を暴露し、倫理的に糾弾しようとするものではないだろう。
中勘助が「下世話にいえば「妙子熱愛」が臆面もなく書かれた場面が意識的に選ばれ、まとめられた気配がある」、引用した『郊外 その二』をはじめ、少女に欲望を抱いているかのように読めてしまう作品を発表していたにも関わらず、このことがほとんど問題とされてこなかったのはなぜだろうか。

勘助は『街路樹』で、「子供に対する私の愛はほとんど病的であり、また狂的である。私は先頃お友達にすすめられてそれまで気にもとめずにゐた「制服の処女」を一緒に見にいつた。それが大変なことになつた」とし、昨日だけで七回も見に行ったとしている。このようにほとんど「小児愛」を告白しているかのような文章すら書いているのであるが、このことが当時の読者の視界に入らなかったのは、「ひとつには家父長制の社会システムがあるのかもしれない」。

「強固な家父長制は、「娘」「嫁」「母」「妻」「妾」のような役割によって「女」を分断して、未分化の「女」が生きるステージを与えない」。そのため「たまたま男が「幼女」を可愛がったとしても、「女」以前の「幼女」は役割によって「女」が分断せられたものとは思われず、「娘」や「母」のような社会的性別からは除外されているので、そこに性行動の入りこむスキがあるとは認識されていないのだ」。

このように、本書はまず第一にフェミニズム的視点で中勘助作品とその受容を分析したものとすることができるだろう。
近年英米では芸能人や政治家による過去の性的暴行が明らかとなるケースが頻発しており、子どもが被害者となったものも多い。ぞっとさせられるのは、加害者の周囲がこれに気づいていながら告発をせず、問題とすら感じていなかった例もあることだ。これは英米に限られた問題ではなく、表に出ていないだけで類似する例は多々あることだろう。ダーチャ・マライーニの『帰郷 シチーリアへ』でも第二次大戦後のイタリアで、まだ少女のマライーニが性暴力の被害に合ったことが描かれていた。加害者は「子ども相手ならば許される」と考えていたのかもしれないし。
このような事例を考えると、著者のフェミニズム的分析を牽強付会とすることはできないだろう。

本書はもちろん中勘助論でもある。勘助は「日記体随筆」という特異な、もっといえば異様な手法の作品を書き続けた。『郊外 その二』に、妙子が「大好きだー」と勘助の「頸にかじりつ」いていると、「私はくついたままなにかの拍子でふと左をみたらすぐそばの鏡台の鏡に二人の影がうつつてゐた」とあるように、勘助は「頬をしつかりおつつけてはなさない」二人の姿を鏡で確認すらしている。「勘助本人が<道徳的実践乃至完成の記録>という日記体(利用?)随筆にこもる胡散臭さを野上彌生子は嗅ぎとっている」とあるように、この手法には「勘助のナルシシズム」が見え隠れする。
このように本書はたんなる「下世話」なスキャンダル趣味ではなく、中勘助という作家の本質に迫るものでもある。


こういったコントロバーシャルな事実を作品から読み解くといった手法には、当然懐疑的な声が出る。未読だが本書に反駁した論文も書かれているようだ。
一般論としてすぐに思いつくのは、特別な例を普遍化しようとしているのではないか、という疑義だろう。このケースでいえば、勘助は江木妙子に特別な関心を寄せていたのかもしれないが、それは妙子が特別だったからで、これをもって勘助に「小児愛」の傾向があったとすることはできないのではないか。しかし勘助は安倍能成の娘「道ちゃん」にもその「関心」が及んでいて、そのことは安倍も指摘しており、勘助自ら「私はまだ乳くさい道ちやんを目にも入れたいほどかはいがつていたが、そのかはいがりかたがまた私一流だつた」と書いている(『しづかな流(二)』)。

その「思慕」は和辻哲郎の娘の京子にも向けられている。著者は少女の写真を撮っていたルイス・キャロルの例をあげつつ、勘助が「<京子ちやんの写真>を彼女の両親に何度も所望」していることに注目している。京子に宛てて「学校へゆくようになつたら御手紙を沢山頂戴。写真も沢山頂戴」という手紙を書き、哲郎には「京子ちやん連の写真は此際特に大変慰めになりました」と書いている(この文脈だとお前は何を「慰め」ていたのだと思ってしまう……)。「其後京子ちやんの写真はできませんか」といった写真を求める手紙を書き、「五歳の京子への恋文」も書き連ねているのである。

「ところで、妙子をはじめ、勘助が<可愛がる>のが、「幼い女の子」であるのは注意を惹く。妙子にはすぐ下に双生児の男兄弟がいたし、京子には七年後に弟が生まれており、安倍にも娘の上に男の子がふたりいる」ものの、『しづかな流』には「十歳くらいの男の子との交流が出てくるが、妙子にしたような「可愛がり方」はしていない」。


これでもまだ「想像力を働かせ過ぎ!」という意見もあるかもしれない。不勉強を告白しておくと、何せ僕は『銀の匙』すら読んでいないもので、著者の主張の妥当性を判断する能力はない。
それにしても、中勘助及びその周辺というのは確かにいろいろと想像力を刺激するような人間模様ではある。

妙子の父、江木定男の実母は定男を生むと早世した。父は悦子を後妻として迎えたが、定男が11歳の時に亡くなってしまう。定男にとって血のつながらない母悦子は育ての親でもあった。一高時代に勘助と定男は出会っている。そして悦子には万世という妹がいて、江木家によく手伝いにきていた。定男は「紅顔の美少年」として知られており、また万世も美人として有名で、後に切手にもなった鏑木清方の代表作「築地明石町」は当時41歳の万世をモデルにしたものだという。勘助は一高時代に万世と出会っているが、「鬼気さえ感ずる」雰囲気で、「ただの一度も笑顔を見たことがなかった」。万世は婚約していたが、これは解消される。すると「入れ代わりに友人の一途な恋愛が始まった」。定男は「母」の妹の万世と結婚したのである。すると万世は「別人のごとく明朗快活」になった。意に沿わない婚約が強いられたせいでつっけんどんな態度だったのだろうか。定男と万世の間には長女妙子と双子の弟が生まれた。

「勘助と江木定男・万世の関係は、漱石の『こゝろ』に登場する「先生」とKの関係と逆になっている」とあるが、『それから』の代助と平岡、三千代との関係も想起させる。ただし勘助はいつまでも決断をしない代助であるが。

定男と万世の結婚の5年後、勘助の私生活は苦悩に満ちたものとなっており、家を出て寺に仮寓していた。そこに「思ひもかけず」万世が訪れた。「周囲の閑寂を破るまいとするやうに静かに語つた。静かにではあるが意外なことを。彼女は初めから私を思つてたといつた」。

この「告白」から4年後、江木定男が35歳で死去してしまう。万世は勘助との結婚を望んだが、勘助はこれを「すげなく? 聞流し」、かわし続けた。

父が亡くなったとき、妙子は13歳だった。妙子は14、5歳のころ「父をなくした心細さ」から、勘助に「父」になってくれと頼んだ。以降妙子は勘助を「お父様」と呼ぶことになる。しかし妙子はまた、「一生私〔勘助〕のそばにゐて世話をしたい」とも言ったと、勘助は書いている。「妙子のこの申し出は、いい代えれば「女からの求婚」に他ならない」。しかし勘助はこれも「否応をいはずにきき流した」。「中勘助は、江木万世とその娘妙子の両方から「求婚」され、それを両方ながらに拒否したことになる」。

すると妙子は今度は母万世と勘助を結婚させようとする。同時に勘助との「デイト」も繰り返し、擬似的な父娘というには過剰とも思えるほどの関係は保ち続けた。18歳になった妙子を、勘助は手紙で「ペット」と書いている。「妙子は勘助にとって、可愛がられた「幼女」の時代を経て勘助を<お父様>と呼ぶ「娘」となったが、勘助の意識では<ペット>なのが先の手紙でわかる」とあるように、二人の関係は健全なものとは言い切れない、不穏な空気が漂い続けている。

妙子は19歳で経済学者の猪谷善一と結婚したが、この結婚生活は心労が耐えなかった。夫の海外留学に同行し出産もしたが、経済的な不安もあり、これは辛い経験となった。帰国後も夫は多忙をきわめ、一方姉妹から嫁姑の関係となった悦子と万世はひどく不仲となっており、そのことにも悩まされた。様々な負担がたたったのか、妙子は35歳で急死してしまう。妙子は生前『進み行く娘達へ』という本を出版しているが、その内容からすると、生きて戦後を迎えていたらフェミニストになっていたかもしれない。ほとんどの人が大柄で健康だった妙子の死にショックを受け、「早すぎた死」と受け止めたが、勘助は「妙子や 三十五年は長かつたね」と、「いたわり」を感じさせるような言葉を残している。


これと平行して、勘助自身の生涯も苦労の多いものだった。勘助21歳のとき、14歳年上の兄が脳溢血で倒れる。兄は東大医学部を卒業しドイツ留学を経て福岡医大教授を務めていたエリートだった。勘助は兄が「廃人」になったと書いているがこれは正確ではなく、言語機能を失い身体に障害は残ったが、釣りに出かけたり囲碁を打ったりすることはできた。この兄はもともと横柄な性格で勘助は様々な屈辱を与えられていたが、病気で倒れた後はこれがさらにひどいものになった。家長の座を散々見下していた弟に奪われるというのは兄にとっては耐え難いことだったのだろう。兄のあまりの仕打ちに兄の妻末子は、自分の実家の別宅に勘助を避難させたほどだったが、今度はこれが母の怒りを買ってしまう。勘助は母と兄夫婦のためにも「家長」として財産の整理をせねばならず、その雑事に追われ続けたことにも嫌気が差して家を出る。また末子も、母との不仲や夫の横暴さに悩まされ続ける。こうしてこの兄嫁と弟は「同士」的関係となるが、それが周囲の疑念を呼ぶことになる。

江藤淳は夏目漱石が兄嫁へ思慕の念を持っていたという説を唱えた。勘助は一高、帝大で漱石から英語を教わり、またデビューのきっかけも漱石の口利きによるものだった(もっとも勘助は漱石の作品を評価せず、「弟子」という関係ではなかったのだが)。そしてその勘助もまた、兄嫁との関係を疑われた。漱石の場合は、現在では江藤のこの説を真に受ける人は少ないだろうが、勘助の場合はそうではないかもしれない。勘助は末子を「兄嫁」や「義姉」とは書かずに常に「姉」と書いた。このあたりから様々な心理を推測することもできる。そして漱石と勘助で立場が全く異なったのは、勘助の場合生前からこの「噂」が出回っていたことだ。

野上彌生子は昭和10年3月の日記に、岩波茂雄夫人から勘助の近況を聞いて「義姉さんとの親しみも、たんなる親しみではないらしい」と書いている。また安倍能成は追悼文「中勘助の死」で、勘助が被害妄想に襲われ、巡査や銀行員が「自分を査察して居たらしい」と思い込んでしまっていたと書いて、「斉藤茂吉に見てもらうことになつた」としている。これは勘助自身も昭和28年の斉藤茂吉全集月報に「神経衰弱かなにかで斉藤氏にみてもらつたことがあつた」と書いている。安倍はこの「妄想事件」が起こったのが昭和7年以降のことだったとしている。勘助はちょうど昭和7年に母と兄夫婦と同居を始めている。この2年後に母が死去し、身体が不自由な兄とその妻末子との3人で暮らすことになるのである。

江木定男は「紅顔の美少年」として知られ、その妻万世は誰もがはっとするような美人であった。そして中勘助も、小堀杏奴の追悼文「再会」によると、「彫りの深い、北欧風の端正」な顔立ちをしていた。その勘助は昭和17年10月、58歳のときに42歳の和と結婚した。この半年前には「姉」の末子が亡くなっている。勘助は義姉の末子の死に「虚脱状態」「仮死の状態」になりつつ結婚の準備をしている。そして7月には、結婚相手の家へ向かおうとしていたとき、妙子の死を知らされるのであった。さらに結婚式の日には兄が死去している。『蜜蜂』は「気の毒な一生」を送った「姉」に語りかけるかのような作品であるが、ここで妙子と兄の死を「報告」しながら、自分の結婚については「報告」していない。

和の父は「子煩悩のせゐもあるかとても石橋を叩いてわたるはうでこれまでいくら縁談をもつていつても纏まつたためしがな」かったが、そんな退役軍人が42歳になった長女の夫として勘助を許したのは「沼のほとり」を読んだためだったようだ。「特に「孟宗の蔭」のなかの私が妙子を可愛がるところに打込んで 今度こそ私の心はきまつた と事は一遍に落著してしまつた。世は様ざまだ。それを読んで私を非難する人もあるかと思へばそのために大事の娘をくれる人もある」。
「私を非難する人もある」とあるように、勘助に疑念を抱いていた人も皆無というわけではなかったようだ。

小堀杏奴は「再会」で、勘助が「思いがけなくいい結婚」をした後に初めて中家を訪ねたとき、挨拶に来た和が席を外すと、勘助から「姉に似たところのある人でしよう」と言われたとしている。小堀はこれに同意しつつ、また勘助が「「銀の匙」のおばさんに再びめぐりあう機会を得られたのだなと考え」た。

『銀の匙』のタイトルは、生後すぐに全身にふきでものができたときに、「子供の小さな口へ薬をすくひいれるには普通の匙では具合がわるいので伯母さんがどこかからこんな匙をさがしてきて始終薬を含ませてくれた」ことに由来している。この伯母とは母の一番上の姉であり、また「前篇」の「主役とすることもできる。「「私」の幼児期の思い出は、伯母さんとの思い出であり、伯母さんに育てられた私の自己形成の過程だからである」。


勘助は『銀の匙』の「おばさん」の影を生涯追い続けたのだろうか。あるいは「姉」の影を。それが現実には許されない鬱屈から、少女をその代替とするようになったのだろうか……と、こう俗流心理学風にまとめると中勘助の人生というのはいささかホラーめいているようにも思えてしまうが、とにかくいろいろと想像力をたくましくさせられる生涯であったようだ。




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