『風俗壊乱  明治国家と文芸の検閲』

ジェイ・ルービン著 『風俗壊乱  明治国家と文芸の検閲』




「日本語版への序文」で、著者は本書執筆のきっかけについてこう書いている。夏目漱石の講演「私の個人主義」について調べていたところ、ある英文の研究書が漱石の思考がいかに曖昧であるかを解説しようとして漱石の「文芸委員会は何をするか」から数節を引用していたのであるが、原文と照らし合わせてみるとこれがひどい誤訳で、実際に曖昧であったのはこの引用者の日本語の理解であることがわかった。著者はこのことに憤慨し、「愛読する漱石に対する誤訳を正そうと決心し、当時漱石がその論文の中で戦いを挑んでいた文芸委員会に関して、さらに調査する必要に迫られたのであった」。こうして漱石の立場が曖昧なことなどまったくなく、毅然たるものであったことを確認するとともに、「私の個人主義」を翻訳する過程で「明治作家の社会的役割というさらに大きな問題を考え始めることになった」。

このように、本書は漱石をはじめとする明治文学史という面と、明治政府、つまり大日本帝国における検閲と文学との歴史を扱ったものという面とを持っている。この二つの面は本来ならば表裏一体であるべきなのだろうが、日本語で書かれたものですら、日本における検閲と文学の関係を体系的に論じたものはあまりないとされている。このことは、取りも直さず日本において検閲との緊張関係が極めて薄かったことを表しているのかもしれない。

現在の我々が明治から昭和20年までの検閲と聞いてまず思い浮かべるのは伏字であろう。例えば「共産主義」は「××××」といった形で印刷された。しかしこれは、当局によって強いられたものではなく、出版社側の自主規制であった。
印刷後に検閲に触れると新聞社・出版社大きな損失を出すことになる。また当局側としてはそれこそが狙いで検閲を使って新聞社や出版社を潰しにかかる。出版社側の言い分としては、そのような当局に先手を打って出し抜くということかもしれないが、これは次第に倒錯したものへとなっていく。1936年には「内務省に編集者たちが召喚され、読者が伏字の消滅に気付かぬ形で漸次使用をやめるよう、文書ではなく口頭で指示された」。この結果、38年末までには「伏字の使用はほとんど除去された」。当局が気遣っていたのは「日本人読者より外国人読者の方であったらしい」。一致団結の戦時体制を打ち出す必要があり、その中で伏字が使われれば「国内の不統一を敵国に暗示することになり、紙弾の効果が弱まる」と考えたのだった。そして41年には軍部が伏字の使用を厳しく禁じると、編集者たちはこれを「かえって過酷な強制と感じた」(p.37)。
もちろん伏字が使えるからこそ危うい橋を渡れたという面はあるにしても、いささか本末転倒という気もしてしまう。

「日本の伝統のどこを見渡しても、個人の権利を譲ることのできない神聖なものとした例は一つもない」(p.33)と著者は厳しく書いている。言論・表現の自由をめぐって考えると、上記の編集者の姿勢は根本的な自由を希求することなく、当局との鞘当に終始した結果として完全に統制下に置かれてしまったのだとしても反論はできないかもしれない。しかもこれは軍部の独走が始まった後に起こったことではなく、大正デモクラシーのように相対的には自由主義がある程度は容認された時代においてすら、出版社、編集者、作家が検閲や表現の自由の問題に熱心に取組む例は少なかった。


とはいえ、明治以降の日本の表現者たちの全てが唯々諾々と当局の意向に従ったのでもなかった。著者はその抵抗の歴史も取り上げている。

日本において権力と文学との関係が問われる大きな出来事が大逆事件である。本書でも詳述されるように、石川啄木は非常に強い関心を寄せたし、また徳富蘆花は事件後にこれを正面から論じた。しかし、永井荷風のようにゾラがドレフュス事件で果たした役割を担えなかったことを恥じたり、鴎外のように小説内でファナティカルな思想への嫌悪感を表したりした例をもってしても、やはりこれらは少数派で、多くは沈黙や無関心を通したとしなければならないだろう。

大逆事件への漱石の反応については意見が分かれるところだ。漱石は大逆事件が起こったまさにその時、修善寺の大患によって生死の境をさまよっていた。従って事件にすぐに反応できなかったのはやむを得ない。しかし漱石はその後も沈黙を押し通した、という見方ができる一方で、大逆事件の数ヵ月後に起こる文学博士号辞退騒動は、漱石が大逆事件をいかに受け止めたかの答えだとすることもできる。

本書を読むと、博士号辞退騒動が大逆事件への反応であったか否かというよりも、漱石が根本的に持っていた文学観、そして個の有り方への思想が強く表れたという点から論じたほうが的を射た議論になるようにも思える。

明治政府はフランスのアカデミーを範にして文芸院を設立しようと目論む。これは体裁を整えようとしただけで、実態は文芸作品をも統制化に置くことだったとしていいだろう。自然主義が隆盛を迎えた頃には、「出歯亀事件」と自然主義文学とが結び付けられて攻撃された(漱石の弟子の森田草平と平塚らいてふの心中未遂事件もまたこれと結び付けられた)。性表現に対して道徳的規範を用いて批判を行い、政府批判等をも封じ込めようとするというのは洋の東西を問わず多くの権力が考えることである。性表現をはじめとして支配体制を揺るがすことにつながるような「不道徳」な作品に当局も神経を尖らせ、「健全」な文学のみを公認することが目論まれたのであった。

本書執筆の契機ともなった漱石の「文芸委員会は何をするか」はまさにこの文芸院について論じたものだった。漱石は国家が表現の内部にまで手を延ばしていくことに毅然と反対し、これを批判し続けた。

著者も触れているように、漱石は政治的な人間ではなかった。漱石は大逆事件について、その批判者がいうように鈍い反応(あるいは無反応)しか示せなかったのかもしれない。しかし同時に、個の領域に国家が忍び込んでくることには警戒感を持ち続けてもいた。『こころ』においては明治という時代を基本的には肯定的に語っているように受け取れるし、漱石自身としても明治天皇に対して思慕の念を持っていたことは間違いないだろう。このあたりは漱石の限界を見ることもできるし、一方で可能性を見いだすこともできるかもしれない。当局が文学を統制下に置こうとしたものの、少なからぬ文学者がこれに反発し、文芸院が結局グダグダのまま立ち消えになっていったのは、明治という時代にもいくつかの可能性があったことを示唆してもいる。


しかしその後大日本帝国が歩んだ道のりはご存知の通りである。1942年には蘆花の兄徳富蘇峰を会長に報国会が結成され、ほとんどの作家がこれに加入する。荷風の名前が勝手に加えられたように、必ずしも全員が積極的に加わったのではなかっただろうし、報告会に加入しなければ仕事もおぼつかなるために経済的事情からやむを得ず加わった作家も多かった。一方で、漱石晩年の弟子でもあった久米正雄がそうであったように、少なからぬ作家が「本気」で国家に奉仕しようと考えていたこともまた確かだろう。

荷風は蘇峰を蛇蝎の如く嫌い、蘇峰がファナティカルな軍国主義を撒き散らすことへの嫌悪をしばしば日記に書きつけている。その荷風とも深い関係にある谷崎潤一郎も時代の空気に流されることに抵抗をした。荷風や谷崎が超然とした姿勢を保てたのは、彼らが戦前に売れた本の印税を手に出来たという経済的事情もあった。しかしその谷崎ですら、1943年に発行された『辻小説集』に一文を寄せ、愛国心の鼓舞へ協力せざるをえなかった。

「私は、谷崎が『辻小説集』に寄稿した作品によってこの研究を閉じたいと思う。その理由は、戦時の日本の指導者たちが、国民のために作家に何を望んでいたかを、生々しくみせてくれるからである。先にわれわれは、谷崎が持っていた気迫と洞察力を見て来た。検閲官が必死に努力を払ったけれども、読者は長年にわたって谷崎のこうした力量に救いを求めて来た。しかしながら、ここではついに、谷崎の筆からは、桂太郎、小松原栄太郎、あるいは彼らの後継者である平沼騏一郎、田中義一から松本学、東条英機などを満足させるにたるような、実に不毛で、つまらぬ作品が生まれたのであった。谷崎のような作家にこうした弱々しい一頁の作品を創作させようとして、桂政権以降の政府はいずれも、無数の時間と数百万の金を投資して、数十年間にわたって法の制定、委員会業務、警察の取締、行政指導、裁判及び日本国民の教化、甘やかし、あるいは残忍きわまる強要といった計画を遂行したのであった」(pp.388-389)。


「解説」で小森陽一がまとめているように、1881年に北海道開拓使官有物払下げ事件が起こり、自由民権派の新聞はこれを厳しく追求した。明治14年の政変があり、ついには9年後に国会開設を約束しなければならないほど政府は追い詰められる。87年に「新聞紙条例」と「出版条例」とが制定されたように、1880年代は「大日本帝国の諸制度の基盤が確立した時期」だといえよう。そして1893年には「出版法」が、1909年には「新聞法」が制定され、「検閲制度の法体制が体系化されることになる」。1910年という年に大逆事件が起こったのは偶然ではなかったのである。そしてついには、谷崎潤一郎のような気骨のある作家までもが屈服させられるほど、政府は強大化していくことになる。一方で日本での検閲制度や表現の自由への関心の低さは、国家主義に対する個の尊重が日本ではあまりにも弱かったことの表れでもあろう。


ジェイ・ルービンは現在では村上春樹の英訳者として有名だろう。本書の原著の刊行は1984年なので、著者は執筆中は村上作品をまだ読んではいなかったはずだ。ルービン初の小説『日々の光』の邦訳が刊行され、それと関連しての早稲田大学で行われた講演を聞きにいったのだが、ルービンはここで、村上作品になぜ惹かれたのかについて、その描写力にたちまち魅せられたということと共に、村上作品にある権威への反抗や個の尊重にも共感したし、これは自分が長く研究してきた漱石と通じるものがあるという趣旨の発言をしていた。このあたりについてはまさに村上自身が『職業としての小説家』で、漱石への共感をこめつつ書いている。

ルービンは、漱石は政治的な人間ではなかったとしているし、これはそのまま村上にも当てはめることができるだろう。逆に彼らの狭義の意味での「政治性」がクローズアップされてしまうときは、状況がそれだけ不幸なものであるとすべきなのだろう、と思いつつ。


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佐藤太郎(仮)

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