『ある作家の生  バーナード・マラマッド伝』

フィリップ・デイヴィス著 『ある作家の生  バーナード・マラマッド伝』




1984年(死の2年前)、バーナード・マラマッドは70歳の誕生日を記念するスピーチの原稿に、父のこんな思い出を書いている。大恐慌時代、仕事が見つからないうえにひどい夏風邪をひいてみじめな気持ちで横になっていたマラマッドに、父はイディッシュ語で「私がお前の身代わりになれたらなあ」と言った。「私はいつもそのことを忘れたことがなかった」。

このエピソードはいくつかのことを表している。父マックスはウクライナ出身のユダヤ人で、ポグロムや日露戦争での徴兵を逃れるため、1905年か6年にアメリカへと渡ってきた。この父は息子を深く愛していた。そしてマラマッドがふせっていたこの時、すでに母はいなかった。

マラマッドが13歳の時、家に帰ると母が泡を吹いて倒れているのを発見した。近くには殺虫剤の缶が転がっていた。母は精神病院に入院するが、貧しい食料品店主のマラマッド家には経済的余裕がなかったことから、キング群病院からクイーンズの私立病院に転院させねばならなかった。母はこの2年後に亡くなる。後になってマラマッドは母の死因を調べようとするが、結局はっきりしたことはわからなかった。おそらくは、今回は母は自殺をやり遂げたのだろうとマラマッドは考えた。

母に対しては深い罪悪感も抱いていたことだろう。母のバーサは3度の出産(最初の子は死産だった)の度に鬱状態になった。2番目の子であるバーナードを出産した際には左足をひどく痛めた可能性がある。バーナードは友だちの前で太った母親が奇妙な歩き方をするのを恥ずかしく感じてしまっていた。弟のユージーンが生まれると、「すべてが崩壊へと向かっていった」。母は「内気で神経質であり、結婚前に家を訪れてマックスの家族に会う事をこわがるほどで、後には、店に来る、ろくに知らない人に対応することにも怯えていた」。また「清潔さに異常なこだわりを抱いて」いた母は、次第に他人が自分の噂をしていると思い込むようになり、警官に尾行されていると考え、夫が持ってきたラジオにも怯え、店の裏の寝室に鍵をかけて閉じこもることもしばしばだった。

マラマッドが結婚した後、子どもを持つことは大きな不安だった。妻の母も鬱病を患っていた。精神疾患は遺伝するのだろうか。マラマッドが一時フロイト派の著作を読んでいた理由の一つは、「彼らが統合失調症は生物学的に決定されたものだという考えを否定し、精神科療法ではほとんど何もできないという見方に異議を唱えていたからだった」。何よりも、弟の病状はこの不安をより一層つのらせたことだろう。


弟のユージーンは子どものころから恐怖にかられ続けていた。兄がコニーアイランドに泳ぎに行くと、「生きて帰れるのか、溺れ死ぬのか」を心配した。12歳の頃、教会の外で唾を吐くと、一緒にいた友人に罪を犯したと言われた。ユージーンは蒼白な顔で帰宅し、夜になっても暗い中すすり泣き続けた。バーナードが肩に腕を回して悪いことをしたわけじゃないと言うと、ようやく泣きやんだ。異変に気づいたのは弟が思春期に入るころだった。ユージーンは「まるで外にあるものを怖がっているかのように、窓のほうに視線を向けないことがときどきあった」。

ユージーンの人生は「兄の異本であった」。成績のよかった兄に対し、ユージーンは学校にうまくなじめなかった。大恐慌が始まると、ユージーンの気持ちは挫け、仕事を見つけに外へ出るのが「怖い」と言った。父が再婚し、継母から小言を言われると、失業中の友人と街をぶらついて過ごした。それ以外は、部屋に閉じこもり、本を読むかラジオを聞くかして過ごした。バーナードは短編集『魔法の樽』を弟に捧げているが、ここに収録されている「夏の読書」には「ある種の弱さが描かれている」。僕は個人的にはこの「夏の読書」がマラマッド作品の中で一番好きかも、と思うほどなのだが、それにしても、学校を辞め、仕事もできず、昼中家にこもって夜になるとふらふらと散歩に出かけることしかできない男の物語は明らかにユージーンの体験を基にしているのだが、これを読んでどう感じたのだろうか。

バーナードは弟が治療を必要としていることになかなか気がつかなかった。
友人たちが仕事を見つけるようになると、バーナードはますます部屋に引き篭もるようになっていった。ある日兄にマスターベーションをしているところが見つかって、二人ともひどく気まずい思いをする。ユージーンは後に自分が性的衝動に取り付かれていると思い込むようになり、自分が同性愛者なのではないかと疑い、医者たちもそう考えた。

それでも、ユージーンはルーズヴェルトが失業者対策に創設した自然保護団に入った。バーナードは弟が感じていた恐怖を思い、その勇気に敬意を払った。時代は第二次大戦に突入していた。バーナードは胃潰瘍で、教師ということも考慮され、さらには結婚の際に精神科医の面談を受けていたこともおそらくは役立って、兵役免除された。しかしユージーンは召集された。「パパはユージに何かあったら死んでしまうかもしれない」、バーナードは妻に手紙でこう書いている。そして父はやはり、あの言葉を口にした。「ああ、わしがあれの代わりになれたら、喜んで行くのに」。

「もし兄さんが軍隊に入ったら、とても耐えられないと思う」、ユージーンは兄に宛ててこう書いた。ユージーンは4年間軍務に服した。フィリピンなど21ヶ月の海外勤務も含まれ、原爆投下後の広島も見た。実際の敵との接触はなく、一度だけ日本兵に向けて発砲したが、自分のしたことに恐怖を覚えた。「ユージーンはいかなる意味でも兵士ではなかった」。

ユージーンは上等兵として名誉除隊となり、「戦争神経症」で休養キャンプに送られた。「もし家に帰ったら、怖いと思うことが怖い」、軍隊に向かう前にそう書いていた。帰郷すると家族から温かく迎えられたが、ユージーンは職探しを怖がった。バーナードが仕事の面接を見つけてきても、姿を現さないこともあった。しかしユージーンは自力で仕事を見つけた。自分の金を持ち、友人もでき、組合活動にも熱心に取組んだ。バーナードの子どもができるととても喜んだ。「ユージーンは赤ん坊の相手が大好きだったのだ」。

ユージーンは精神分析にかかっていたが、担当の分析医が体調を崩し交代し、新しい分析医と合わなかった。同じころ仕事も辞めてしまい、皆が自分の噂をしていると思い込むようになった。不眠症もひどくなり、夜に街をぶらついているときに警官からひどい扱いを受けると、症状はさらに悪化した。

ユージーンは自殺衝動があるとして、1952年に母が最初に入院した病院に入院することになる。バーナードは担当医に、治療の助けになればと家族の背景について長い手紙を書いた。一人称ではなく三人称で書かれた、「客観的な調子」としてあるが、それゆえかえって痛々しくも思えてしまう。

当時バーナードはオレゴン州立大学で教職に就いていた。父は店の勘定書きや品物を包むのに使う茶色の紙に、「太く筆圧の高い鉛筆書き」で、バーナードに手紙を書いた。「彼に話かけると、彼が病気だとわかる」「彼に面会に行くたびに、絶望的な気持ちで家に帰る」。英語は父にとって外国語だ。文法も綴りもおぼつかなく、「バーニーもし私が書いていることがわかれば教えてくれ。もしわからなければ、私のかわりに手紙を書いてくれる人を誰か探すから」とある。そして「私はユージーンに精神科医の綴りを教えてもらった」とも。
退院後もユージーンは完全に回復することはなく、入退院を繰り返すことになる。

ユージーンにとってバーナードは兄であり、守護者であり、憧れの存在でもあった。兄が遠くオレゴンに行くことがわかると、不安にかられ病状は悪化した。兄に倣って小説を書こうともした。こうしていれば、まだ精神が保てるような気がした。自分は兄よりも偉大な作家だと思い込むこともあれば、兄が電話を盗聴していると信じてしまうこともあった。この兄弟は生涯手紙を交換し続ける。「初めは治療法として、おそらく後年はただの通信として」。

バーナードは喜劇的なほど習慣や時間に対してこだわりを持った。オレゴン州立大学では、妊娠中の妻に対し、バーナードが執筆にあてている木曜日だけは出産を避けるよう命じたという噂が語られた。マラマッド家でのホームパーティの参加者は、遅れてもいけないが早く着いてもいけない。したがってパーティが始まる定刻近くには、時間ぴったりに家に入れるよう車寄せに招待客の人だかりができてしまうほどだった。この執拗な神経症的こだわりは、一歩間違えばバーナード自身も狂気に沈んでいたかもしれないことを暗示しているかのようでもあり、当人もそう感じていたのかもしれない。

「ユージーンはテレビを観て、新聞を読み、電話で話すことを好み、親戚の消息を喜んで聞き、医師の診察を受けた。それが全てであった」。

「その人生には大して何もなかった。彼は傷つきながら生き続けようとした。長い間そう務めてきた。彼にはほとんど何もなく、おそらくわずかな楽しみしかなかった。しかし、勇気だけは持ち合わせていた。生きたいと望んだ。良くなりたいと望んだ。もっとましな人生を望んだ。安らかに眠れ、わが弟」、マラマッドは弟の葬儀のスピーチ原稿にこう書いた。

しかしバーナードは弟の葬儀に出ることはできなかった。かつて父は、ユージーンが衰弱するとショックで心臓発作を起こした。バーナードの身にも同じことが起こる。ユージーンが心臓発作で死去した翌日、バーナードも心臓の不調で入院することになってしまったのだった。


マラマッドは、とりわけ初期の頃は自身の体験を小説の材料に使うことも多いので、「夏の読書」に代表されるようにユージーンの生涯はそのままマラマッドの作品のようにも思えてしまう。しかし何よりも、やはり父の姿こそがマラマッドの作品に深く刻印されている。

マックスを知る人は、「気難しい」と評した。すでに書いたように、マックスが息子たちを深く愛していたことは間違いない。しかし彼はその愛情をどう表現すればいいのかわからなかった。店に立っても、愛想よくすることはおろか、客と口をきくことすらほとんどなかった。しかし父は決して客相手に不正を働いたことはなかった。そして社会主義者を自認するマックスは、貧しいながらも家で金銭を崇拝するようなことを口にしたことはなかった。

バーナードが9歳の時に生死の境を彷徨う病気をすると、マックスは息子に子ども向け百科事典を買い与えた。これがバーナードの知的な目覚めとなる。またマックスは貧しい医学生に支援の手を差し伸べ、医者になるまで援助を続けた。この医師が後年ユージーンを診察することになる。マックスはぶっきらぼうであったが、困った時に彼に助けられたという人はたくさんいた。

バーナードは子どものころ、父のレジから小銭を盗んでいたことがあった。父に捕まると、一度は否定したものの、小銭を返させられた。バーナードは「恥辱のあまり死にたいと思った」。
これは父を恨みに思うトラウマ的体験であったわけではないだろう。 バーナードは自分の娘に、「どうして若きワシントンが嘘はつけないと言ったのか」、あるいはリンカーンが食料雑貨店で働いているときに、会計を間違えて余計に請求してしまい、そのお金を返すために雪の中を裸足で駆けていったことなど、「古典的かつ典型的なアメリカ的正直さの必要性について話してきかせた」。

晩年に、娘が自伝を書く刺激になるか伝記作家の資料になればとバーナードとの話を録音した。バーナードは子どものころの不正や盗みについて話した。それは他の作家ならば、ノスタルジーをこめて、楽しい思い出として語ることも可能だったのだろうが、バーナードは苦痛を感じ、そのテープを消去するよう頼んだ。このような父の実直な姿やその影響は『アシスタント』(『店員』)を書かせることになる。


「マラマッドはこう主張している。「私は英雄を見限っているわけではない――ただ、私は――敗北者や、下層階級出身の負け犬、物事がうまくいかない人々――ちっぽけな人間の中にある英雄的資質を使いたいのだ」」。

著者は「日本語版のための序文」で「マラマッド運動」という言葉を使っている。「訳者あとがき」にあるように、アメリカではマラマッドは「忘れられた作家」として扱われている。著者がこの伝記を書いた動機に、そのような状況をなんとかしたいというものがあったことだろう。
マラマッドが「忘れられた」きっかけの一つとして、フィリップ・ロスが74年に書いたエッセイがあげられている。そしてまた、「マラマッド作品に見られる道徳性が、アメリカの大衆文化にそぐわな」くなったということも論じられている。

ベニトン大学時代のマラマッドの同僚に、日本でも『シガレット』の邦訳が出たハリー・マシューズがいた。マシューズは「自分のものでも他人のものでも、詩を取り上げて、名詞と動詞を見つけ、任意に辞書で七つ下に出てくる名詞か動詞と入れ替える」という演習を行った。「ウリポ」のメンバーらしい遊戯精神にあふれたものであり、また「そういう人工的な枠を詩の意味や感情の上に置くことは、その下にある構造を明らかにする手段であり、内部の統語的な行為は単語がが違っても残る」とマシューズは考えたが、これはマラマッドにとっては理解し難いことだった。マラマッドは学生たちが書いてきた作品を読むと、「この物語は何についてのものか?」「うまく行っているか?」という質問を必ずしたという。
「学校の教師がするような平板に聞こえる質問の陰には、還元主義と言われることを怖れて批評家たちに向かって言わないようなことを、作家志望者には言わなければならないという彼の信念だった」。

「あらゆる効果的物語では――チェーホフ、ジョイス、バベル、ヘミングウェイ、フォークナーを考えてみてください――隠れていたものが明らかになるのです」。「本質的には、心の奥深くから出た、たとえそうでないふりをしている場合でもその人物がどんな人間かという告白であり、読者に向かって告白されたのものはその人間の神秘なのです」。
こういった文学観は、ポストモダンを通過した70年代以降にはなんとも古くさく映ったであろうことは想像に難くない。同時に教師としては非常に親切で、貧しい学生が奨学金を得るためには労を惜しまずに推薦状を書いたりしたし、また創作上ではない個人的な悩みにも熱心に相談に応じていた。このため彼を慕っている作家志望の学生は大勢いた。

「訳者あとがき」でも触れられているように、日本では近年マラマッド作品の新訳や復刊も相次ぎ、マラマッド作品がまた広く読まれつつあるようだ。またアメリカやその他英語圏でも、マラマッド作品の復活とまではいっていないようだが、一方でこの伝記では著者に「一財産」を作らせるほど売れ、ジョイス・キャロル・オーツから「激賞」されてもいる。日本においてもアメリカにおいても、あるいは世界の多くの地域で、「ちっぽけな人間の中にある英雄的資質」を見つめなおす物語が必要とされているということなのかもしれない。


僕はこれまでマラマッドのいい読者ではなかったが、それでも何冊かの小説を読み、マラマッドの生涯についても大まかなことは知っていたため、本書を読んでも衝撃の事実を知ったということではなかった。女子大学生との情事や(本書には付録として、マラマッドと一時「深い関係」にあり、『ドゥービン氏の冬』のファニーのモデルとなったアーリーン・ヘイマンの短編「マレーに恋して  ――バーナード・マラマッドの思い出に捧ぐ」が収録されている)、晩年に少々醜悪とも映りかねないような、崇拝者を近くにはべらせるようなことをしていたり、また批評を気にしないと言いつつ酷評には深く傷ついたこと、あるいは病後の痛々しい様子など、意外な姿も垣間見ることもできるが、マラマッドのイメージが根本から変更を迫られるという伝記ではないだろう。

著者はこの伝記を「作品を人生より上位に据えるものの、人生がどのように作品に姿を変えて関与したかを示すこと」を第一のもくろみとしている。作家の、あるいは何らかの表現者の伝記を読んで考えてしまうのは、伝記を読むことで作品の見方が変わるということがあっていいのだろうか、ということだろう。「正解」としては、そのようなことはあってはならない。伝記的事実と作品とは切り離して考えねばならない。とはいうものの、やはり詳細な伝記を読むと、作品の見え方が異なってくることがあるのも確かだ。「作品を人生より上位に据える」とあるように、本書はマラマッド作品の全てを実人生に還元しているのではない。しかしやはりマラマッドの生涯を追うことによって、読者の受け取るその色合いは多少変化するのだろうし、マラマッドのようなタイプの作家にはこのような伝記を必要としているということもあるのかもしれない。

ユージーンについて長々と書いてしまったが、これは僕自身がバーナードとユージーンという兄弟の関係に魅せられてしまったためだ。マラマッドといえばアメリカを代表するユダヤ人作家であり、子どもの頃にヘブライ語を習おうとしたことなど、そのユダヤ性という部分にも注目できるだろう。またある人にとっては夫婦関係にも注目できるだろう。このようにマラマッドは多彩な作家であり、その様々な面もまた、この伝記によって深められるはずだ。


まだいくつか読んでいないものもあるので、とりあえずはマラマッドの未読作品を読んでみなくてはと思えてくるし、またすでに読んだものも再読してみたくもなってくる。このような気分にさせてくれることこそが、この伝記の価値を示している。



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