大岡昇平自伝

大岡昇平著 『幼年』 『少年』




『幼年』と『少年』は大岡昇平の幼少期、少年期を綴った自伝である。大岡が『幼年』の執筆を始めると、これが機縁で小学校時代の同級生六人と会うことになった。

「六人の級友の中で、一番親しいのが広田弘雄君で、これまで断続して交際があった。一つの名前の中に「広」と「弘」が同居しているから、よほど「ひろい」ことが好きなお父さんなのだなと思った。昭和に入って総理大臣・広田弘毅の名が新聞に出るようになった時、世の中には似たような趣味を持った人がいるものだと思った。すぐには広田君と結びつかなかったのだが、やがて家族構成が紹介されるに及んで弘雄君がその長男であることがわかった」。

読み方は「ひろたひろお」でいいのかな。広田弘毅の場合は読みが「こうき」なのでいいが、「ひろたひろお」だとどうもすわりが悪いような気がしてしまう。名前についての感覚というのは人それぞれのものだろうが、「さとうしおり」は名字と名前でSの音が重なるとしても特にどうとは思わないものの、「さとうさとこ」のように二文字ダブってしまうと急にひっかかりを覚えてしまうのだが、まあ別にそんなの全然気にならないよ、という人もいるのだろうけど。


この二つの自伝は、大岡について関心がある人はもちろんのことだが、渋谷をはじめとして昔の東京の風景に関心があるという人にとっても興味深いものだろう。

『幼年』からこんな箇所を引用してみよう。

「今日の渋谷区内で私の知っているもう一つの神社は富ヶ谷の奥の代々木八幡である。渋谷第一小学校の遠足は二学年の春から始まったが、最初に行ったのは、代々木八幡である。生まれて初めて草鞋というものを履き、母が作ってくれた握飯を、風呂敷を対角にまいてくるんで、肩から斜かいに結んだ。/校門を出てから、宮益坂下の踏切を越え(何度も書くように、これは大正九年渋谷駅が現在の位置に移るまでは、ガードではなかった)道玄坂下で道が二つに分かれるところを右に取って行く。これは駒場の帝国大学農学部(現、教養学部)へ行く道で「駒場通り」或いは「農大通り」(現、栄通り)と呼ばれていたが、曲がるとすぐ左側に低い井戸があり、水が常に流れ出している珍しい眺めであった。/道はさらに現在の東急デパートの前で二つに分かれる。それを右に取って行くと、間もなく田圃が開けた。空に聞こえる鳥の声を「雲雀」だと教えられ、田圃いちめんに菜の花にレンゲが混じり合って咲き、「絨毯を敷いたような」という教科書の形容がうそでないことを知った。/代々木八幡の丘はその通りの正面に見えた。当時はまだ小田急はなく、今日展示されている縄文土器も住居跡も掘り出されてなかったので、田舎の神社の高い樹の下で休み、弁当を食べて帰ってくるだけのことだったが、これは私が田圃というものを知ったはじめだった」。


『少年』からはこんな箇所を。

関東大震災後、渋谷駅付近の人口は急速に増えた。そのため、「駅前が混雑するのは当然だった。中村パンが駅前広場の市電終点に面し裏側の渋谷会館前の通りまでぶっ通した店を建てた。店内を通り抜けられるようにして、乗降客についでに物を買わせる商法を取った。この一劃まで全部取り払ったのが、今のハチ公広場である」。

なお大岡は『成城だより』の中で、生きているハチ公を見たことがあるとしている。
昔の渋谷近辺がどんなところだったのかというのは話では知っているし、写真などでも見たこともあるのだが、今の姿と地名を重ねてみると不思議な気分になってくる。


さて、個人的にこの自伝で最も印象的な人物が、大岡のいとこの洋吉だ。

大岡の父は地主の三男坊であったが、投機に失敗して遺産を失ったうえに芸者との結婚が実家に嫌われ、東京で貧乏暮らしを始める。しかし今度は投機で成功し、大岡家は一転して成金生活を始めることになる。父は昇平たち子どもの教育に熱心ではなかったが、それでも恰好をつけたのは、自分の兄がその息子の洋吉に高い教育を与えていたため、それに刺激を受けたか対抗心があったためのようだ。

これだけをとっても洋吉という存在は昇平にとって大きなものだったが、幼少期から思春期にかけて、洋吉は昇平にとって文学をはじめ様々な知的世界に導いてくれたメンターのような存在でもあった。しかし二人の関係は次第に疎遠になっていってしまう。

これにはいくつか理由があった。昇平が大きくなっていくに従って、二人の知的関心領域にズレがでてきてしまったのもその原因の一つだ。しかしこれだけなら疎遠になることはなかっただろう。二人の間に溝が生じ始めた後も、昇平は洋吉に様々な悩みを相談していた。しかし洋吉はある日、「昇ちゃんの家にもっとお金があって、何でもやらしてくれたら、よかったのにね」と言った。
「それまでに私の訴えた悩みはすべて、父が私に十分に小遣いをくれないということから起こっている、と洋吉さんには映っていたのだった」。

貧乏暮らしの記憶がある昇平は成金となった父に反発を感じ、一時はキリスト教に入れ込んで、父に倫理的な疑問を投げかけてもいた。しかし次第に金持ちの生活を当たり前のものとして受け入れ、スノビズムに染まっていっていた。そしてこの自伝を書くことによって、「私は洋吉さんの観察の正しさを容認しないわけに行かなくなっている」。「洋吉さんにそれを指摘された時、私は虚を突かれたように思い、師の冷たい眼におびえたのは当然だった」。

しかし変化したのは昇平だけではなく、洋吉もそうだった。洋吉は生涯独身で、そして一生働くことはなかった。松山高校時代には左翼運動にもかかわったようだが、これによって特高ににらまれることになる。東大の独文に進むと禅にも興味を持ち始めパーリ語も学び始める。さらには第二外国語としてフランス語も選んでいたが、欲張りすぎたのか卒業には単位が足りなかった。親は留年してもいいから卒業してくれと頼んだが、洋吉は強引に中退してしまう。洋吉は父の兜町の仲買店に見習いとして入社するが、「株式市場のからくりを一応知ってしまうと、店へ出なくなった。家にいると、哲吉叔父と始終衝突するという話だった」。

昇平の父が間に入って、書生部屋のような粗末な離れを借りて、「その窓際に机を据えて、何か書くということになった」。この頃、昇平がこの離れのそばに行くと、昇平の姿を認めた洋吉は「露骨にいやな顔をした」ことがあった。

昇平にとって、洋吉が小説にしろ哲学にしろ、何かを書くというのは当然のことのように感じられた。「赤い鳥」への投稿では、洋吉は「推奨」に二度も輝き誌面で大きく紹介され、また昇平を指導して「入選」に導いてくれた。様々な本を教えてくれ、頭脳明晰にして文学的才能に溢れていた人であった。しかし洋吉はこれを完成させることはできなかった。

洋吉にスノッブさを指摘された頃、「私の方には洋吉さんをいたわる気持ちが生まれていたのだが、それは洋吉さんの自尊心を傷つけずにはいなかったろう。一方、洋吉さんが大学を出ず、何も書かないことは、何となく後光の輝きを失せさせ、それもまた私の無意識の眼付きや仕草に出ていたろう」。
「その頃から洋吉さんは何か内へ内へ捲き込むような考えになっていったように見えた」。

洋吉の家は働くなくとも問題がないほど裕福ではなくなっていた。一家の収入源は教員の妹のみで、生活は厳しかった。このことについて昇平が意見すると、二人の溝はますます深まった。ちょうどその頃、昇平は「多少の「文名」」を得るようにもなっていた。

これより前の経験として、昇平の父がまたもや投機に失敗して破産した後に死去し、昇平は文学を捨ててサラリーマン生活に入ることになった。叔父に洋服を新調する金を貸してくれるよう頼みに行くが、父はこの兄にも迷惑をかけていたので断られる。洋吉は話に加わらなかったが、昇平が家を辞そうとしていると二階から降りてきた。「そこにはこれまで見たことのなかった表情があった」。
「そこにはむろん私への憐憫があったが、少しうるみ勝ちの眼は、自分は昇ちゃんに金を貸してあげたい、しかし力がない、勘弁してくれ、といってるように見えた。私はうなずくことによって、感謝の意を表して帰って来た」。

洋吉という人は、「その気持ちには何ともいえない優しいものがあった。晩年は成長しはじめた姪たちの教育を任務としていた。訳読よりも発音を主とする戦後の英語教育に歩調を合わせるために、発音辞典などを揃えて自分でも勉強していたことが、その残した蔵書からわかる。その他、教育用の自然科学の啓蒙書にも適当な本が選んである。そして姪の恭子さんや素子さんにも、優しいものの分かった伯父さんの思い出を残していった」。

1963年に洋吉が死んだ後、大岡は洋吉の「その残した哲学風の断片を読み、その蔵書を見て、改めて私が洋吉さんから受けたものを確認し、その精神の純粋さに感歎せずにはいられなかった」。

「哲学ノートはマルクス主義と鈴木大拙の禅を攻撃したものだが、自己の立場の確立、ただそれだけを集中的に目ざしているため、傷ましい同語反復に陥っている。いまはやりの言葉でいえば、自己のアイデンティティを求めるのに急であったために身を痩せさせてしまう結果になっている。大正の株屋の息子という条件の中にはまり込んでしまったように思われる。自同律の不快を洋吉さんは感じたに違いないのだが、それをいいたくなかったのである」。

世の中にはいささかの揶揄を込めて、「頭が良すぎた」、「優しすぎた」と言われる人がいるが、洋吉はまさにそのような人だったのだろう。


洋吉は一中では小林秀雄の一級上であった(ちなみに昇平は一中への進学に失敗して青学中等部に通うことになる)。後に小林は大岡のフランス語の家庭教師となる。洋吉と小林は互いに「そんな奴がいた」といった程度であったが、大岡はこの世代から大きな影響を受けたことを、「小林秀雄の世代」に書くことになる。

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佐藤太郎(仮)

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