「小林秀雄の世代」

「小林秀雄の世代」  

大岡昇平自伝である『幼年』と『少年』で、大岡の従兄弟にあたる洋吉の存在は強い印象を残す。この自伝発表以前にも、洋吉が亡くなった後の1962年に、大岡は「小林秀雄の世代」で洋吉について書いている。

洋吉は昇平にとって文学上のメンターであり、また個人的にも相談事をするなど頼りになる従兄弟であったが、次第に二人は疎遠になっていってしまう。

小林秀雄らとの付き合いが始まると、昇平にとって洋吉は物足りなく思えてくる。
「洋吉さんの教養は広かったが、音楽はなかった」。また絵画についてもその関心の範囲は狭かった。一方昇平はモーツアルトを語る小林や、シューベルトについての論考を発表していた河上徹太郎などとの交遊を深めていった。文学についてもすれ違いが生じ、洋吉は昇平が小林や中原中也の影響でランボオやボードレールに夢中になるのを嫌がり、富岡太郎の追悼文を見せると「なぜこうむずかしく書く必要があるのかね」といぶかった。昇平のほうは洋吉の「煩瑣主義」を愚劣に思い、軽蔑するようになっていった。

「昇ちゃん、こないだ新宿を中原って人といっしょに歩いていたろう。みんな振返って見ていたそうだぜ。あんまり柄の悪いのと歩くのはおよしよ」と、洋吉はこのような忠告までするのであった。

変わったのは昇平だけではなかった。洋吉は松山高校時代に左翼運動に関わったが、これによって親から文字通りの意味で、激しい打擲を受けたようだ。昇平も「儀式」のように、仕事の憂さを晴らすかのように父親から打擲を受けていたが、「伯父の儀式は私の父のより激しかったので、この時のすさまじさは想像出来た。たしかに洋吉さんの性格形成は、伯父さんのひどい打擲が役割を果たしている」。

「親族会議が持たれ、〔洋吉は〕改心を誓わされて帰って行った」。叔母は「それから性格が変わった」と振り返っている。洋吉の性格が変わっていった時期は昇平がちょうど小林と出会った頃であり、洋吉とはすれ違いになりはじめていたが、「ただかつてあれほど若々しくさっそうとしていて、瀬戸内海の美しさを語った洋吉さんが、だんだん引込み思案の偏屈な人間になって行くのに、驚いていただけである」。

さらに洋吉には「潔癖が現れはじめた。便所へ行った後だけではなく、一日に何度となく手を洗うのである」。
もともと大岡家には潔癖症の人間が数多くいて、本家の伯父など新聞を日光消毒しないと手にとらないという「半気違い」であったそうだが、「私達の代で現れたのは、洋吉さん一人である」。
明らかに虐待の後遺症であるので、現在ならば治療なりカウンセリングを受けるなりすることになるのだろうが、当時はもちろんそんな発想すらなかった。

洋吉は「昇ちゃん、横光賞って、いいもんなのかい」と、文学的成功を収めた年下の従兄弟に、複雑な思いを隠さなかった。洋吉は一生働くことはなかった。東大独文に進んだが単位不足で国文に転じ、それでも卒業できないと強引に中退した。親の株の仲買事業を少し手伝ったがすぐにやめてしまい、戦後も経済状態が厳しくなると市役所の書記の仕事をあてがわれるが、これもすぐに捨ててしまう。一家の家計は戦争未亡人で教員である妹頼りとなり、昇平はこれについて意見したが、これによってさらに二人の関係はこじれ、すぐ近くに住んでいたにも関わらずほとんど顔を合わせることすらなくなっていく。

昇平の蔵書で必要なものがあれば、姪を取りに寄越すようになった。昇平にとっても大切なものも含まれていたため、留守中に持っていったものはリストにしとてくれと頼むとしばらく借りにこなくなったが、昇平の外遊中には本が十数冊なくなっていた。その中の一冊『法医学』からは、数枚の図版が切り取られていた。どうやら姪の教育上ふさわしくないと判断したようだが、黙ってやられては困るというと、もう借りにこなくなった。

といっても洋吉は傍若無人な性格であったわけではない。むしろ繊細で、優しすぎたのかもしれない。家計を支えていた妹の信子は「よくおやりになる」と褒められたが、「それに引きかえ洋吉さんは」と続けられるのが辛かったそうだ。洋吉が熱心に教育に取組んだ二人の姪は、「始終むずかしい本を読み、英語を教えてくれたおとなしい伯父さんを尊敬をもって思い出している」。

大学を中退した頃から洋吉は熱心に何かを書いていたが、それを完成させたり発表することはなかった。さらには毎年年末に書いたものを焼いてしまっていたので、残ったのは三冊のノートと、4ページに渡る買うべき本のリストと、姪のための英語の例文集だけだった。買うべき本のリストの中には、昇平の蔵書に含まれているものもあった。「洋吉さんがそんなに読みたかったのなら、本を二冊買ってもいいから、渡して上げればよかったと、いまになって後悔の念にかられる(誰でも人が死んだあとでは、こんな風に思うものだが、この感情がいま洋吉さんと私をつなぐ唯一のものなら、しばらく忘れたくはない)」。

洋吉のノートからいくつか抜粋がされている。1961年に書かれたのには、こんなものがある。「「神々はあるにしても無智無能であり」「人間は他人の不幸のために生きることは出来ず」、「愛は平等の観念を害う」しかし「利己主義を認めることはなにより不平等な社会制度を認めることであり」、そして「結局権力や金力のある支配者たちの、支配されている者たちに対する身勝手を認めることである」」。

こういったことを書き続けていたというのは、文字通りに暴力的な手段によって左翼運動から足を洗わせられたこと、また親の暴力に自分が屈してしまったことへの悔悟を抱き続けていたせいなのかもしれない。

昇平は洋吉がある時には『エピクロス』を座右の書とし、またある時にはフォイエルバッハに依拠した弁証法批判を「最終の目的」としていたのかもしれないと推測している。
「とにかくわれわれには洋吉さんがなぜ書くのか、そして焼かなければならないのか、何を苦しんでいるのかわからなかったのだが、それが最終的に残したもので明らかになったのである」。

「恐らく作業は戦争中も間断なく続けられたので、世相と共に無意味となったノートが、次々と焼かれたと思われる。洋吉さんは表現力において不備だから焼いたのではなく、その内容が時代と共に意味を失ったから焼いたのである。/現在残った三冊のノートも、大して意味はない、と言えないこともない。日記やノートをつける人間は結局自分にも社会にも不満な疎外された者であり、しばしば激越な結論を紙上に放射して憂いを晴らす、と一般に考えられているからである。しかし私にとって重大なのは、洋吉さんの動機ではなく、放射されたものの性質である。/そこには大正の哲学青年の型が明瞭に現れている。それはまた私自身のものでもあるが、小林秀雄とどこに共通点があり、どこが違っているかを考えることから、「感想」に近づく手懸りが得られるかもしれない」。


と、ここから先はタイトル通り小林についての論考になっていく。
僕は小林のことがどうにも苦手でまともに読んだことがなかったものでちょっと驚いたのだが、大岡は物理学の最新の知見と文学との解離を嘆いたC・P・スノーの『二つの文化と科学革命』が話題になっていることに触れたうえで、「たまたま文学者がいかに物理学を知らないかの例として熱力学の第二法則を挙げているので、小林秀雄を思いだした」としている。
「小林秀雄の忠実な読者は彼が昭和七年以来エントロピイのことを書いていることを知っているはずである」。小林は「エントロピイの極大は吾が身の死に等しく明瞭だ」と、昭和七年の『現代文学の不安』に書いている。

「小林にはエントロピイの増大という事実は、エネルギイ恒存の法則を破るものと映り、宇宙の死を意味したらしい。これは上記の『現代文学の不安』に窺われるが、霧ヶ峰の薄暗い山小屋で講義する小林の真剣な顔を、私は思い出すことが出来る。/当時小林は誰にもエントロピイの話ばかりしていたと見え、青山二郎なぞ、小林の顔を見ると「ほら、エントロピイが来た」なんて言っていた。戦後、永井龍男が小林にエントロピイの講釈されながら、鎌倉八幡横の溝に押し落とされる話を書いている。多分これは『新潮』の企画で小林が湯川博士と対談した昭和二十三年ではないかと思う。小林秀雄はここでもエントロピイを持ち出しているからである」。

「しかし昭和二十三年に湯川博士と対談出来る文学者が、日本に少なくとも一人はいたのであり、スノーのいう二つの文化は、イギリスにおけるほど、日本では分離していないのだろうか」としつつ、大岡はスノーがこの問題について「少し誇張」しているのではないかと続けている。

ちなみにスノーのこの説にはピンチョンが「ラッダイト」エッセイで論駁している。ピンチョンのそのものずばり「エントロピー」という短編は1960年に発表され、70年には邦訳もなされているし、『V.』の最初の邦訳も小林の存命中に出ているのだが。小林はピンチョンを読んだことはあったのだろうか。まあ蔵書に含まれていたら語られているであろうから、その可能性は低いのだろうが。

それにしても、小林が「ほら、エントロピイが来た」なんて言われていたというのはなんだかおかしい。



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