通訳オノ・ヨーコ

『ドナルド・キーン著作集 第十巻』には『自叙伝 決定版』が収録されている。『日本との出会い』、『このひとすじにつながりて』、『ドナルド・キーン自伝』の三冊を、「内容の重複を避けつつ、最も詳細な記述とするため、三篇を整理・再構成」し、さらに「著者がその結果に目を通し、修正を施し」、キーンによる加筆も行われ「これまでの自伝的著作には含まれていなかった新たな事実や、感懐の描写、人物への言及も加わった」ものになっている。

この『自叙伝 決定版』にこんな箇所があった。

「一九六四年秋、ニューヨークで安倍〔公房〕と会ったのは、彼の小説『砂の女』の翻訳が出版された時だった。彼と勅使河原宏(映画『砂の女』の監督)、そして彼らの通訳として一人の若い女性がコロンビア大学の私の研究室を訪ねてきた。通訳を必要とすると思われたことで頭にきた私は、その若い女性をまったく無視した。数年後、彼女がオノ・ヨーコだったことを知った」(pp245-245)。

なかなか愉快な話であるが、このエピソード、考えてみると少々ひっかかるところもある。

まず本書でも詳細に語れているように、キーンが1950年代半ばに日本に滞在した際にすでにメディアから大きな注目を浴びていて、会話を含めて日本語に堪能なことは広く知られていたはずではなかったか。もっともこれも本書にあるように、このさらに後になっても、ある大学教授から日本文学を英訳で読んでいると思われていたというエピソードがあることを考えると、勝手に「碧い眼」の外国人には日本語が十分にできるわけがないという思い込みがあったのかもしれない(ちなみに『碧い眼の太郎冠者』という本も出しているものの、キーン当人は自分の目の色は「碧」ではないとしていて、そう呼ばれてしまったので引き受けたとある。このように「白人」に対するステレオタイプは非常に強かった)。とりあえず検索してみて……などという時代ではもちろんないので、安倍や勅使河原がキーンの日本語の会話能力は十分ではないと思い込んでしまったのかもしれない。

また、なぜにオノ・ヨーコを「通訳」として連れてきたのかということも気になる。もちろんオノ・ヨーコは英語は堪能であるし、当時ニューヨークにいて、すぐに頼めたというだけのことだったのかもしれない。とりあえず検索してみると……オノの夫だった一柳慧は62年に勅使河原の映画の音楽を担当しているので、勅使河原とオノはもともと面識があったのだろうし、その縁で頼んだということなのか。あるいは「通訳」という名目で同席させてそのまま会話に加わってもらおうと考えていたら、キーンがご機嫌ななめになってしまったので、そのまま紹介しそびれたという可能性もあるのかもしれない。

この出来事から50年(!)経っても二人ともまだまだ元気なので、ドナルド・キーンとオノ・ヨーコの今度こその対談というのが行われたらどうなるかということを想像してみると……まあ話がふくらむようにはあまり思えないか。






このエピソードは『声の残り 私の文壇交遊録』などにも書かれているようです。




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