『サリンジャー』

デイヴィッド・シールズ シェーン・サレルノ著 『サリンジャー』





著者たちは9年に渡って取材を重ね、2013年に公開されたドキュメンタリー映画の後にこのサリンジャーの伝記を完成させた。

サリンジャーの未発表作品や未公開書簡、同時代の証言から直接に親交のあった人々へのインタビューなど、膨大な「声」が集積されている。本書の最大の特徴であり、そして賛否が分かれるであろう手法が、ドキュメンタリー映画の製作と平行して作業がなされたせいなのか、証言者の「声」を直接引用する形の、まるで脚本のような仕上がりになっているところだろう。

ジョアンナ・ラコフの『サリンジャーと過ごした日々』に、サリンジャーが90年代にそれまで雑誌に発表したきりだった『ハプワース16,1924』を突然単行本化したいと言い出すエピソードがある。本書でもこの一件は取り上げられていて、やはりサリンジャーが一度は信用した大学教授による個人経営の小出版社から出そうとしたものの、それが裏切られて取りやめになったしてある。しかし同時に、もともと評判の芳しくなかった『ハプワース』を、この噂が広まるとミチコ・カクタニが改めて酷評したことなど、著者たちは作品の評価の低さにサリンジャーが怖気づいた可能性も示唆している。皮肉なことに、本書もまたカクタニから「発見に富むものの、ずさんな部分も多々ある」と厳しい評価をされることになる(このことは「訳者あとがき」でも触れられている。カクタニの書評はこちら)。

カクタニが書いているように、黒澤明の『羅生門』のように様々な「声」を伝えてくれるところもあるものの、全体としては「締りのない」ものになっているとの印象は否めない。本来ならばこうして収集した膨大な「声」を基に伝記を書くべきはずのところを、著者たちはなぜかここで作業を止めてしまっている。著者たちなりの狙いはあるのだろうが、それが全体としてはうまく機能しているとは言い難いだろう。

なぜこの試みが失敗したのかといえば、『羅生門』のごとく様々な「声」に語らせることによって矛盾に満ちたサリンジャーという作家/人物を浮かび上がらせるというよりは、あらかじめレールを敷いてしまっているところにあるのではないだろうか。著者たちが完全に黒子に徹するのではなく、他ならぬ「声」の一員として度々顔を覗かせているのは、この試みが中途半端なものに終わったことを表している。

著者たちが敷いたレールとは、「サリンジャーの人生には決定的な転換点が二度あった。第二次世界大戦とヴェーダーンタ哲学への没頭がそれにあたる。第二次世界大戦はサリンジャーという人間を壊したが、かわりに彼を偉大な芸術家にした。宗教は彼が人間として欲していた心の慰みを与えてくれたが、かわりに彼の芸術を殺した」というものだ(「イントロダクション」)。狂信的なサリンジャーの信者でもないかぎり、細かいところはともかく大筋においてはこれに同意する人が多いだろう。しかしそうであるからこそ、なぜ本書のような手法をあえて導入したのかは少々不可解であり、未完成のものを読まされたという読後感が残ってしまう。


と厳しく書いてしまったが、とはいえ貴重な証言と写真が満載なので、、サリンジャーに関心のある人にとっては読んで損の無いものになっている。

著者たちが「イントロダクション」で書いているように、戦争体験は作家/人間サリンジャーにとって決定的な体験であった。「隠遁生活」に入った後も(括弧を付けたように、サリンジャーの隠遁は必ずしも字義通りに捉えるべきではないというのが著者たちの主張であり、実態としてもそうであったのだろう)、戦友たちと連絡を取り続けていたのはその証だろう。

ノルマンディー上陸作戦、ヒュルトゲンの森の戦い、バルジの戦い、そして強制収容所の解放(後述するジーン・ミラーによると、サリンジャーは「戦争や自身の戦争体験については話さなかった」が、「燃える人肉のにおいは忘れられない」ということだけは口にしたという)と、サリンジャーの所属していた部隊は過酷極まりない体験を重ねていった。この頃の従軍中のサリンジャーの貴重な写真も多数収録されている(口髭をはやしているサリンジャー!)。

なおサリンジャー自身が映画化されることになり、サリンジャー役は『マッドマックス 怒りのデス・ロード』でニュークスを演じたニコラス・ホルトが射止めたようだが、本書の証言にもあるように、サリンジャーは長身であるだけでなく、「本の虫だったにもかかわらず、アスリートのような身体つき」をしていたので、ホルトだと「そっくり度」からするとやや線が細いようにも思えてしまう。意外と(というか意外でもないかもしれないが)ライアン・ゴズリングとかあのあたりの方が実物には近いかもしれない。

写真の中で最も貴重なものといえば、サリンジャーの最初の結婚相手、シルヴィアとのものだろう。結婚の日の双方の両親とそろって写っているものや、結婚式直後のものなどがあって、こんなのが残っているというのはかなり驚いた。


エピソードとしておやっと思ったのは、「エズメに捧ぐ」のモデル探しにまつわるものだ。
サリンジャーはユージーン・オニールの娘のウーナと恋に落ちるが、ウーナは父親ほども年齢の離れているチャップリンと結婚してしまう。チャップリンは非常に年の離れた若い女性のことを好きになる傾向(婉曲表現)があったが、これは後にサリンジャー自身の傾向ともなる。実際にサリンジャーは括弧つきの「隠遁生活」に入った後も、回想録を出したことで有名になったジョイス・メイナードをはじめティーンエンジャーの少女に手を出している。

エズメのモデルともされるジーン・ミラーは14歳の時に、当時30歳になったばかりのサリンジャーと知合った。ジーンが19か20歳になった後、二人はついに結ばれる。ジーンは「私は処女だということを伝えたけど、彼はそれをよく思わなかった。その責任を負いたくなかったんだと思う」と振り返っている。結局「通過儀礼」は果たすことになるのだが、しかし(婉曲表現をやめると)ロリコンであったなら、むしろ処女であることを望みそうなだけにこの反応は意外に思えた。

またこの後には知り合いの妊娠中の女性に、どこまで本気かはともかくとして駆け落ちしようと迫ったというエピソードもあるように、処女性に対してこだわりがあったというのではなかったのかもしれない。サリンジャーが求めていたのは少女の「純潔」さではなく純粋さだったのだ、と強弁したくなる人もいるかもしれないが、親子ほども歳の違う当時18歳だったメイナードは精神的な結びつきを求めたのみならず性的な対象でもあったことは明らかなので、性的な意味での少女への特別な関心は否定できないところであろう。サリンジャーは精巣停留のため自身の睾丸が一つしかないことが少なからぬコンプレックスだったようだが、そのことが「解剖学的」知識が不足している少女に関心を向かわせたのだするのは、ちょっと単純化しすぎのようにも思えるが。


サリンジャーの伝記というとケネス・スラウェンスキーによる『サリンジャー』もすでに邦訳が出ている(なおこちらにサリンジャーがノルマンディ上陸作戦でオマハ・ビーチに上陸と書いてしまったのだが、正しくはユタ・ビーチ。ずっとオマハだと思いこんでいて、この他にも間違い続けていました。すいません。)。本書とどちらか一冊を選べといわれたらスラウェンスキーの方をあげるが、ただスラウェンスキーを読んだ後でも、サリンジャーに関心のある人ならば本書も新情報をはじめ興味深く読めるだろう(本書の中にはスラウェンスキーの調査不足を直接批判している部分もある)。ただ本書にしろスラウェンスキーのにしろ、伝記としては決定版というにはやや微妙なところもあるので、いつの日にか、これを読んでおけば間違いないという一冊が出てほしい。


なおドキュメンタリーの方はこちらも評判は今一つということのせいなのか、日本では未公開でソフト化もされていないのだが、ごにょごにょな方法でざっと見てみると、演出方法などが俗に流れ過ぎという感じで、ちょっとなあというものだった。これだけ調査をしたのだから、本にしろ映画にしろもう一頑張りしてほしかった。ただ軍務中の唯一の映像(!)を発掘するなど労作にはなっているので、こちらもサリンジャー好きの人は見て損はないだろう。



プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
08 | 2017/09 | 10
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
カテゴリ
twitter
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR