『英語教師 夏目漱石』

川島幸希著 『英語教師 夏目漱石』




マラルメの辞書学』は「英語教師マラルメ」とでもいっていい部分もあってなかなか面白く、ふと『英語教師 夏目漱石』(川島幸希著)を思い出してパラパラと読み返してみた。この本は夏目漱石がいかに英語を身につけ、英語教育についてどのように考え、実際に英語教師としてどのような授業を行っていたのかを扱っている。


漱石の十代半ばというのは空白期間になっているのだが、これは別になにか闇があるとかいうことではなく、記録があまり残っていないうえに当人も詳しく振り返っていない(あるいは矛盾のある回想をしている)もので、断片的な回想や証言から推測するより他ないということである。

漱石が本格的に英語を学び始めたのはかなり遅い。12歳で第一中学正則科に入学するが、ここでは英語を学ばなかったようだ。中退して二松学舎に入るが、二松学舎は「英語を教えない」学校だった。後に漱石は昔は英語が「大嫌い」だったとしており、そのために二松学舎に入ったとされることもあるが、このあたりの経緯ははっきりしない。そもそも漱石は入るためには英語が必須の大学予備門(後の一高)を目指していたのだから、英語のない二松学舎をわざわざ選んだのだとすると何とも妙な話ということになるので、英語が嫌いだから二松学舎に入ったというわけではなさそうでもある。

この頃はどうやら長兄から英語を教わっていたようだが、これが「英語大嫌い」の原因だったのかもしれない。

ずっと後のこと、長女筆子が英語の勉強を始め、リーダーを声を出して読んでいると、漱石は「おまえの発音はなかなかよろしい。その位出来るなら、明日からお父様が英語の勉強をみて上げよう」と言い出して驚かせる。すでに個人レッスンの段取りをつけていたのを断らせたにもかかわらず、結局二、三回きりで「うやむやになってしま」った(「夏目漱石の『猫』の娘)。

明治の男らしく(?)、漱石は娘たちの教育はなおざりにしてしまったが、息子たちの教育には大いに力を入れ、「暁星」の規則書をわざわざ自分で取ってきたほどだった。息子をフランス語をはじめとする外国語教育に力を入れている暁星に入れて、小学校でフランス語を、中学で英語を、高校でドイツ語をマスターさせるのが望みだった。「制服も可愛い」というのも理由だったようだが、当時の男親が息子の学校の制服を気にしたりすることは一般的だったのだろうか。

「漱石は息子たちが小学校から帰ってくると、書斎に呼んでフランス語を教えた。ところが鏡子夫人が隣の部屋で聞いていると、馬鹿野郎の連発で、子供たちは泣く泣く部屋から出て来る」。

鏡子が「教えるより叱る方が多いぢやありませんか。……いつもあんなに生徒に向かつて莫迦野郎と怒鳴り続けてゐるんですか」と聞くと、「彼奴が特別出来ないからだ」と言う。鏡子は「でも相手は子供ぢやありませんか。そんなに莫迦々々叱つてらしゃる間に、出来なけりや深切に手を取つて教へたらいいでせう」とあきれるのだった(『漱石の思ひ出』)。

後述するように、漱石は厳しいけれど思いやりのある教師だったので、息子相手には冷静に教えることができなかったということなのだろう。もしかすると漱石自身も長兄からこのように英語を教えられていたのかもしれないし、そうであれば「大嫌い」になるのも当然かもしれない。


16歳で成立学舎に入り、漱石はようやくここで英語を本格的に学び始める。今でいえば高校生になってから英語を始めるようなもので、これ以降短期間でどうやって「恐るべき英語力」を身につけることができたのだろうか。漱石のもともとの素質もあったのだろうし、「好きな漢籍さへ一冊残らず売」ってしまうほど夢中になって、「殆ど一年許り一生懸命英語を勉強した」という努力あってのことでもある。さらにもう一つの理由が、当時成立学舎(そして予備門でも)では数学、歴史、地理などの授業も英語で行われていたのである(本書に漱石の代数と物理の英語での答案の写真も収録されている)。

こういうと「ならば英語力アップのために今の日本の高校や大学でも授業をすべて英語でやるべきだ!」などと言い出す人がいるかもしれないが、こんなことをしたらとんでもないことになるというのを、漱石の親友正岡子規が示している。

漱石の大学予備門の同期には子規や南方熊楠らがいた。予備門には答案を英語で書かせるのはもちろん、教室内での説明まで英語でやらせるという数学の「えらい厳格な先生」がいて、多くの学生が落第させられたそうだ。
ある回想によると、子規は黒板の前に立たされ、数学の問題はわかっていても英語が出てこないものでぐずぐずしていると、「What' what? Repeat Again!」とやられてすっかりまいってしまったそうだ。

結局子規は幾何学の成績が悪かったことで落第してしまうが、「余が落第したのは幾何学に落第したといふよりも寧ろ英語に落第したといふ方が適当であらう」としているのは、あながち強がりではないのかもしれない。

当時は「勉強を軽蔑するのが自己の天職であるかの如く」に遊び呆けていた漱石も、数学の授業ではできるまで黒板の前に立たされるもので、「毎日一時間ぶつ通しに立往生」することになり、「今日も脚気になるか」などと嘯いていたそうだ。
このように、もし英語以外の授業も英語で行うようになると、英語が苦手な学生にとっては全ての授業が地獄の様相を呈することになる。また当然ながら日本語を母語とする教師が英語で授業を行えば授業の質は下がるし、学生の方の理解力はそれに輪をかけて下がることになる。ごく一部の英語が得意な学生以外は、その他の教科まで壊滅的になる可能性が大であろう。

当時英語以外の科目も英語で教えていたのは、別に英語力向上のためではなく教科書の事情などもあってやむを得ないためであった。他の教科が日本語で教えられるようになると学生の英語力は低下することになり、教師として漱石はこれに直面することになる。だからといって他の科目の授業の質を下げてでも再び英語で教える状態に戻すべきだなどというのは本末転倒もいいところだろう。また当時は高等教育を受けるのはごく限られた人たちだけで、少人数による濃密な教育が行われていたことも押さえておかなくてはならない。こういった文脈を無視して机上の空論で「改革」を進めるほど愚かなことはない。


では教える立場に変わった漱石が英語教育についてどのように考え、どのような実践を行っていたのだろうか。

ざっとまとめるとこんな感じだろうか。

まず教師や学校のシステムについて。

・教師には高い英語力が求められる。
・教師に求められるのは単に高い英語力だけでなく、専門的な教育法を身につけることも重要である。そのためにしかるべき研修を受ける制度を作ること。
・質の高い教員確保のためにきっちりと予算を割くこと。

漱石の提言や実際に彼が行っていた授業についてはこんな感じになる。

・読むことだけではなく、書くことや会話なども重視し、発音などにも気を配った総合的な英語力を身につけるようにするべきである。またそのために外国人を積極的に雇うべきである。
・初学者には平易な教科書を用いるべきだが、内容が幼稚であってはいけない。
・基礎的な文法を徹底して学ばせ、それを身につけた後は多読を奨励する。
・接頭辞、接尾辞、語源、類義語反意語などを教師が意識付けさせることで語彙の強化を図る。

もちろん当時の固有の事情に影響されている部分もある。例えば英作文や会話は日本人教師が教えるのは困難なので外国人教師を各中学に一人は雇うべきだが、学者でなくても構わないので宣教師などを積極的に雇用すべし、といったあたりは、当時は音声教材などなく、また日本にやって来る外国人の数も限られていたということをふまえなければならないだろう。現在であればむしろネイティブなら誰でもいいというのではなく、英語教育について最低限の素養のある人にするべきという意見の方が強いのではないだろうか。

この他にも現在からすれば古びている部分もないわけではないが、マラルメの時代のフランスの英語教育観と同様、むしろ現在でもそのまま通用するところが多い方に目がいく。言葉を変えれば、外国語を修得するというのは、技術的には様々な改善が図られているにしても、根本的な部分においてはやるべきことの答えはすでに出ているとすべきなのかもしれない。


漱石の書いた「中学改良策」や「語学養成法」、また実際に行った授業の回想などを基に見ていこう。

漱石は尋常中学の教師の質の低さを取り上げ、学士や高等師範の卒業生を中学の教員に回すように提案している。また「学士にして中等教員たるものは学あれども教授法に稽はず高等師範学校卒業生は授業法に精しけれども学識に乏し」とし、「学士には半年間の教授法等の研究と半年間の準教師待遇の実地研修、高等師範学校には学識を有する卒業生の養成を求めた」。

最近でも中学の英語教師の英語能力が云々ということが言われるが、ただ締め上げるだけでは何の解決にもならない。むしろ勉強できるだけの時間的、精神的余裕を教師のためにいかに確保するのかを考えたほうがいいだろう。
また素人考えを披露させていただくと、漱石がエリートである学士を教師にするよう求めたのとは逆に、公立中学で数年間勤務の後に休職扱いで身分保障がなされたまま、奨学金もきっちり支給されて、大学院等で学べるシステムがあっていいだろう。漱石は各中学に外国人教師を一人は置くよう求めたが、現在では英語教育で修士号持ちの英語教師が各校に最低一人はいるような状態を目指したりしてもいいのかもしれない。

漱石は当時超のつくエリートだった学士が教師になれるように俸給の上昇も求め、教育に十分な予算を回さないことを批判しているが、このあたりの事情は現在も同様というか、むしろ悪化していているかのようだ。効果が出るまで時間がかかり、地味でカネがかかるようなことに財務省が予算を割くことはないだろうし、文科省は予算獲得のためにその分派手で、実態としては百害あって一利なしの珍妙な「改革」案を次から次に編み出していくという悪循環に支配されている。


当時の日本には「正則英語」と「変則英語」という二つの教え方があった。「正則英語」は「発音やアクセントなど音声面を重視」するのに対し、「変則英語」は「漢文式訳読法で、英語の音声面には目をつぶり、英文のいわんとしていることの理解を最優先したものであった」。

当時の慶応での変則英語の例があげられているが、一単語に一つの意味と番号をあて、番号順に訳語を読むと日本語の文章になるというものだった。

また明治初期には定冠詞のtheが「ゼ」と発音されることもあり、尾崎行雄などこれを「トヘー」(!)と読んでいたそうだ。不定冠詞のaを「エー」と発音してしまうなど音声面では非常に混乱が見られた。

漱石が「訳読は力めて直訳を避け意義をとるよう様にすべし「ザット」の「イット」で押して行く時は読のに骨が折れて時間上余程の損害を招く」としているのは、逐語的に一語一対応させたうえで返り読みをするという変則英語の読み方の弊害をふまえてのことだろう。このように当然ながら意味の面においても変則英語に限界があることは明らかで、漱石は正則英語で教えるべきだという考えだった。しかし当時は音声教材など影も形もなく、辞書類もまだまだ未発達なので、教えたくても教えられないという事情もあった。漱石はそのために外国人教師の積極的な雇用を求めたのであった。


漱石は二年に一度くらいのペースで教員に試験を課してはどうだとしており、著者もこれに同意している。ただ、著者は「経済不況の下で産業界に厳しいリストラの嵐が吹き荒れている昨今、学校だけが競争のないぬるま湯的な世界があってよいのか、という批判の声が社会で高まりつつある」としているのだが、これは「社会の声」というより著者の声なのではないだろうか。この手の主張については、僕はそもそも民間企業と学校とのアナロジーが成立するのかについては大いに懐疑的であるし、このような制度を導入すれば、いたずらに教師の負担ばかりを高めるだけの壮大な無駄に終わる可能性の方が高いのではないだろうか。

著者は「日教組が「教職の独自性」を口実に長年激しく反対してきた教員の勤務評定」を「少子化の時代に生き残りをかけた私立学校」が、「企業並みに大胆に取り入れるところも出てきた」ことを好意的に書いている(かのようにように読める)のだが、唐突に日教組が登場するところに著者の政治的姿勢が垣間見えるようであるし、こういう人が「勤務評定」を導入したいのが純粋に教育のためであるのかは疑問に思える(ちなみに著者は本書刊行時、私立中高の理事長であった)。

漱石は熊本の第五高等学校勤務時に尋常中学の英語の授業を実際に視察し、その報告をまとめている。ここで漱石は実名をあげて何人かの教師を高く評価しているが、酷評した教師については実名をあげるのを避けている。漱石が高く評価した教師はアメリカ留学をしていたり、「英米人」に直接英語を習った経験があった。一方で酷評された教師は、おそらくはそのような経験はなかったことだろう。漱石が優れた英語力を身につけられたのも、漱石が帝大に進むときに英文科の学生の誕生は二年ぶり、しかも同期はゼロ(つまり漱石一人)という特殊な環境において、ディクソンにマンツーマンで教わったというのも大きかった。もう少し遅れて生まれてきていれば、まったく異なった教育を受け、英語力も違ったものになっていたかもしれない。教師の「優秀」さが必ずしも努力に比例したものだけではないことを、漱石はわかっていたのではないだろうか。

「漱石はこの試験の実施する付加価値として、試験官が普段から各地の英語教師と気脈を通じて、英語に関する情報交換や質疑応答などの交流を図ることを考えていた」とあるが、ここからすると漱石は「無能教師を追放せよ!」といったメリトクラシーの極北のようなことを考えていたのではなく、試験とその結果の検証、その後の研修などを通じて英語教師の縦と横のネットワークを作ることをイメージしていたようにも思える。もちろん漱石も「昇給増俸」に言及しているように、ある程度の能力主義を導入することを想定していたことも確かではある。

同時に漱石は「教師が手抜きをするのは待遇が悪いからだとし、学士の肩書きを持つ者が中学教師を天職として志望するように、その俸給を引き上げることを提案」もしている。現在の公立学校の教師の待遇を見ると、待遇が悪くても全力を尽くすとかえってそこにつけ込まれて、ますます待遇が悪くなってしまうという異様な状況に入っているようにしか思えなくなってしまう。


さて、ではその漱石はどのような英語教師だったのだろうか。

松山中学に赴任すると、そのあばた面からさっそく「鬼がわら」というあだ名をちょうだいするが(いつの時代も子どもというのは残酷で容赦がない)、その英語力ですぐに圧倒することになる。

「睾丸は英語で何と言うのか」という質問には「テスチクル(testicle)」と即答し、漱石の訳に対して「辞書に違った訳があります」と言われると、「そんなウソが書いてある辞書は直しておけ」と返し、「辞書を直す先生」として仰ぎ見られた。

漱石は「現代読書法」で「英語を修むる青年は或る程度まで修めたら辞書を引かないで無茶苦茶に英書を沢山と読むがよい」とし、「英語を学ぶものは日本人がちやうど国語を学ぶやうな状態に自然的慣習によつてやるがよい」と書いている。

これを「子どもが母語を学ぶように外国語も学べばいいんだ、文法の勉強など不要!」などとス○ードラーニングの宣伝文句のように捉えることは早計だ。むしろ「或る程度まで修めたら」という方に注目すべきであることが、松山中学での授業でわかる。

ここでの漱石の授業は進むのが大変に遅かったそうだ。詳細に「シンタツクスとグラムマーを解剖」するために、一時間に三、四行しか進まないこともあったと、ある生徒は回想している。つまり構文や文法を徹底して教えていたのである。

松根東洋城は「私などは特別に語学が好きと思ふ方でもなかつたが、先生に教えて戴いてからは英語は面白いものだと心底感じた」としている。このように、英語が苦手な人は一度きっちりと文法を身につけていて教えるのがうまい人に基礎的な部分だけでも教えてもらうと、英語の文章の見え方というのが全然違ってくることだろう。

辞書も引かずにひたすら読みまくれというのはあくまで基礎的な文法や語彙を身につけた後の話なのである。実際に五高に移ると、今度は逆にすごいスピードで授業を進めていった。寺田寅彦は「松山中学時代には非常に綿密な教え方で逐次的に解釈されたさうであるが、自分等の場合には、それとは反対に寧ろ達意を主とする遣方であつた」と振り返っている。

教科書を最後までやり遂げることがないのがほとんどというのは昔も今も同じだろうが、漱石は五高ではテキストを最後までやりきった。これは五高の学生が基本的な文法等を身につけていると判断したためであろう。留学から帰った後に一高で教鞭をとるようになるとまたゆっくりとしたペースで授業を進めるようになったようだが、これは東大で学生の英語力の低下を目の当たりにした結果、基礎を徹底してやらねばと考えた結果のようだ。

松山中学では「プレフイツクス、サフイツクス」について非常にやかましかったそうだ。一高では語源についてもうるさく教えていたと野上豊一郎は回想しており、反意語などについても合わせて触れていたようだ。接頭辞と接尾辞、語源によって語彙を増やしたり、未知の単語と出会ったときに類推が働くようにする、あるいは類義語や反意語も合わせて押さえておくことなど、語彙の面でも丁寧な指導を心がけていた。

英国留学から戻り、東大で教職に就くと、漱石はある事態に直面する。前任者のラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は学生から大変好かれており、そのハーンを追い出すような形で教鞭を取ることになった洋行帰りの、「田舎の高等学校あがり」の男は敵意にさらされた。学生たちはハーンは文学を教えてくれたのに新任の教師は英語を教えるのかと憤ることになる。もっとも漱石からすれば、英語もろくに読めないのに文学をやるもへったくれもないというところだったろう。

これで学生たちが漱石をやり込めたら見事なものだが、実際はやり込められたのは学生たちだった。金子健二は当時の日記に「中学や高校の生徒のやうにリーディングをして、それから訳をつけさせられるのである。リーディングはかたっぱしから直されるので、当つた者は衆人環視の中で大きな恥辱を与へられる事になつた。私達は大学生から逆転して再び中学生に戻されたやうな屈辱を感じた」と書き残している(『人間漱石』)。

ここだけを読むと漱石は嫌味なことをやったようだが、実際にはそうではなかった。漱石は確かに厳しいタイプの教師で、下読みをサボってくるような学生には容赦なかった。一方で「毒気」はなかったという回想もあるように、ネチネチと学生を追い詰めていくような陰湿な教師ではなかった。五高時代に漱石の授業を受けていた学生が思いもかけず東大で再び漱石の授業に出られることに喜びを感じていたように、次第に東大の学生たちも漱石の英語力と人柄に魅了されていくようになる。

また漱石は厳しい授業とは対照的に、テストの点の付けかたは大変甘かったそうだ。これは学生時代に、綴りのちょっとした間違いにもびしびし減点するというディクソンの教え方を半面教師としたのだろう。「こんな字はありませんよ。お直しなさい」と 試験中(!)に答案を見て言葉をかけることまであったという。テスト範囲も容易に予想ができるもので、そういう点では学生たちにとっては楽な先生であったことだろう。

当時の旧制高校や大学における教師と学生の関係は今とは比べ物にならないような濃密なものであるが、漱石はそんな中でも特別だろう。いくつか学生とのやりとりの手紙が引用されているが、微笑ましいものばかりだ。面倒見も大変よく、東大や五校の教え子はもちろんのこと、一年しかいなかった松山中学時代の教え子であっても頼まれれば就職の世話をするための労を惜しまなかった。


晩年(といっても40代後半であるが)、胃がボロボロですっかりやつれ果てた漱石であったが、「或雪どけの日」に鈴木三重吉が家を訪れると、漱石は「茶の間の縁側にこゞんで、十二三ぐらゐ? うすぎたない着物を着た、そこいら近所の子どもらしい少年に英語の第一リーダーを教へてゐた。先生は、胃がいたいと見えて、元気のない顔をしてゐられたが、でも、語気や態度には、ちつとも面倒くささうな容子もなく、丁寧に、訳読してやつてゐられた」。

少年が帰ったので三重吉がどこの子ですかと尋ねると、「どこの子だか、英語ををしえてくれと言つてやつて来たのだ。私はいそがしい人間だから今日一日だけなら教へて上げよう。一たいだれが私のところへ習ひにいけと言つたのかと聞くと、あなたはエライ人だといふから英語も知つてるだらうと思つて来たんだと言つていた」(「漱石先生の書簡」)。

この「うすぎたない着物」を着た少年は漱石が英語教師であったことも知らずに、「エライ人」だから英語も知っているだろうと思って押しかけてきたのだった。今日一日だけだよ、と言って面倒くさそうな様子も見せずに丁寧に教えてあげる漱石が実際にどんな教師であったのかが窺えるエピソードであるが、「莫迦野郎」とどやしつけられてばかりだった夏目家の子どもたちからすれば、外面ばっかりよくって家ではなんでこうなの! というところでもあるのだろうが。

「いい先生」というのが自分の家庭を顧みないことで成立しているというのは今でもよくあるのだろうが、漱石の場合はそちらというよりも精神的な不安定さや「神経衰弱」、躁鬱気質のせいであったのかもしれない。漱石は教員に「道徳上の資格」も求めていたが、自分はこの徳性が欠けているので教師には向いていないと考えてもいた。自分に対しても求める理想が高すぎて、それゆえにそこに生じるギャップに堪えかねてそれを家庭生活で爆発させていたという面もあるのかもしれず、そう考えると漱石の教師としての微笑ましいエピソードは、それがいいものであればあるほど不吉さも湛えているように思えてきてしまったりもするところである。



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