英語教師ではない村上春樹

英語教師 夏目漱石』を久しぶりに読み返してみたが、この本を最初に手に取ったのは村上春樹が何かのエッセイで(失念)紹介していて、面白そうだと思ったからだった。

マラルメの辞書学』で描かれたマラルメにしろ漱石にしろ、もちろん時代的な限界もあるとはいえその英語教育への考え方は現在でも意外なほど通用するところが多いように思える。では僕が知る限りでは家庭教師等でも英語教師を務めた経験がない村上春樹は英語教育についてどのように考えているのだろうか。このあたりについては『職業としての小説家』で少し触れられている。


「僕は高校時代の半ばから、英語の小説を原文で読むようになりました」と村上は書いている。昔からエッセイで繰り返し書いているように、当時の神戸は外国人の住人も多く、また船員などが読み捨てていったペーパーバックが大量に出回っており、「一山いくら」で買うことができた。そのほとんどが安手のミステリーやSFで、「それほど難しい英語」ではなく、村上はこれらを大量に読みふけった。

漱石もある程度の英語力を身につけた後は多読をすべしと説いているが、村上の方法はまさにこれだろう。漱石が本格的に英語を学び始めたのは結構遅く、十代半ばになってからのことだが、十代後半には大量の英語の本に埋もれる生活を送ることになる。

こうして漱石は優秀な成績を収めるようになったのだが、村上はというと,「あいかわらず英語の成績はぱっとしませんでした」と振り返っている。そして自分よりも英語の成績が良かった生徒について、「僕の見たところ、彼らには英語の本を一冊読み通すことなんてまずできません」としている。

このあたりは僕も経験があって、たまに理解がかなり怪しいにも関わらず英語の本なんぞをパラパラやっていると、僕よりも遥かに偏差値の高い大学に行ったはずの人から「英語の本を読めるなんてすごいもんだね」なんてことを言われてしまったことがある(実際はお前はどうせまともに読めていないだろうという、ただの嫌味だったのかもしれないが)。

なぜこんなことが起こるのかというと、その理由はこう推測できる。要は「読めるから読む、読めないから読まない」のではなく、「読みたいから読む、読む気がないから読まない」ということなのではないだろうか。村上は「自分は何のために英語(あるいは特定の外国語)を学ぼうとしているのか」という目的意識こそが大事だとしている。日本の場合少なからぬ人が、英語力の頂点が大学受験時であるだろうし、それ以降は英語(あるいはその他の外国語)を学ぶモチベーションを持つことができないということの結果なのだろう。


村上は成績の良いはずの高校生が英語の本を一冊読み通すことができないのを、「日本における高校の授業は、生徒が生きた実際的な英語を身につけることを目的としておこなわれていない」ことがその原因ではないかとしている。

言わんとしていることはわからないではないが、しかしこれはかなり誤解を招くような言葉であり、まさにこのような「誤解」が近年日本の英語教育を迷走させている原因なのではないかとも思ってしまう。

「英語で本を読めたり、外国人と日常会話ができたりなんてことは、少なくとも僕の通った公立高校の英語の先生にとっては、瑣末なことでしかありません」。

村上はここで「英語で本を読」むことも「生きた英語」としているのだが、現在の日本では、多くの場合「読む」ということそっちのけで「外国人と日常会話ができ」ることこそが「生きた英語」だとされているのではないだろうか。ニューヨーク・タイムズ(でもなんでもいいが)を読みこなすことも立派な「生きた英語」を身につけることであるはずだが、会話偏重熱が異様なほど高まった結果、学校で文法を教えること自体が害悪であるかのような倒錯的な意見すら市民権を得るようになってしまった。本来ならばきちんとした会話をするためにも文法知識は欠かせないはずなのだが、そういったまともな考えが入る余地は今の教育を動かしている人々にはないようだ。

村上の経験した高校の授業は、「生きた英語」を学ぶ代わりに、「ひとつでも多くのむずかしい単語を記憶したり、仮定法過去完了がどういう構文になるかを覚えたり、正しい前置詞や冠詞を選んだりというようなことが重要な作業にな」っていた。

これは典型的な「受験英語批判」といっていいであろう。柴田元幸先生はよく「受験英語は役に立つ」というようなことを言っていたと思うが、村上も「もちろんその手の知識も大事です」として、「とくに職業として翻訳をするようになってからは、そのような基礎知識の手薄さを、あらためて痛感しました」と書いている。

村上はこのような知識は後になってからでも身につけることは可能だとしているが、だからといってそのような「大事」な知識を学校で教えるべきではないということにはならないだろう。もちろんいわゆる「受験英語」とされるものに様々な弊害があったことは否定できない。まさに木を見て森を見ない教え方が蔓延していたことは事実であろうが、しかし文法等の「教え方が悪い」のと「教えるべきではない」というのを取り違えるべきではないだろう。

僕は数学がまったく駄目なのであるが、もし僕のような人間が「オレが数学ができないのはオレが悪いのではなく学校の授業が駄目だったせいだ。だからオレが数学の授業を改善してやる」などと言い始めても誰も相手にしてくれないはずだ。しかしこれが英語だとなぜかまかり通ってしまう。そしてTOEICがなんなのかもわかっていないくせに、成績評価にTOEICを導入しろだの入試に使えだのということを言い始めるのが出てくることになる(そんなことをすれば、それこそむしろ学校が無味乾燥な暗記地獄と化すのではないだろうか)。

またこれとは逆に、英語(教育)の専門家ではあるが、公立小・中学校の実態をわかっていないために机上の空論に陥ってしまう例もあるだろう。1クラス35人前後の生徒の中には、英語が得意な生徒もいれば苦手な生徒もいる。モチベーションの高い生徒もいればまったくモチベーションを持てない生徒もいる。そんな中でどのように授業を進めていけばいいのかということに向き合ったうえで提言しているのかが、疑問に思える意見も多い。


モチベーションの問題といえば、仕事の事情も関係しているだろう。とかく日本人は日本を小さな国だと考えたがるが、実際には人口で考えるとむしろ大きな国だとしたほうがいい。英語ができれば就職機会は広がるだろうが、英語ができないからといって大手企業への就職が閉ざされるというわけではない。人口が多いおかげで日本語のみを使って仕事をしていくことは十分に可能である。

ヨーロッパで考えると、ドイツやフランスといった人口や経済規模の大きな国よりも、北欧のような人口の少ない国の方が圧倒的に英語力は高いことだろう。ノルウェイやフィンランド出身で、英語やその他の外国語が苦手であるが大手企業に就職したいと考えてもかなり厳しいはずだ。日本の大学生のかなりの部分が大学受験時が英語力のピークであるというのは、このあたりの事情が一番大きいのではないだろうか。それがいいことかどうかはさておき、一定以上の英語力がない限り就職自体が困難になるような状況が生じれば、日本人の英語力は嫌でも上がっていくことだろう。

村上は、「ヨーロッパなんかに行くと、若い人たちはたてい流暢に英語を話します。本なんかも英語でどんどん読んでしまう」としている。そもそもヨーロッパの言葉は兄弟か姉妹か従兄弟かといった関係がほとんどなので、日本語を母語とする人との比較対象としてふさわしいのかは首を傾げざるを得ない(中国や日本や韓国が政治経済でどれほど影響力を高めようとも、ヨーロッパの多くの人々がこれらの言葉をすらすら話したり読むようになる時代がくるようになるのかは疑問だ)。またヨーロッパの若者の英語がかつてと比べて流暢になっているのも、独仏あたりも含めて、近年ではやはり英語ができないことにはそれなりの就職先を見つけることが厳しくなっていっていることの反映なのではないかと考えると、これをいいことだとしていいものかはためらわれる。

『マラルメの辞書学』によると、マラルメが英語教師を務めていた時代にフランスの外国語教育は大きく変わったようだが、これは普仏戦争の敗北によって教育を見直さなければという機運が生じたことが直接的な原因であったようだ。近年の日本において英語教育が云々されることが多いのも、英語ができないことには「国益」が「毀損」されるといった強迫観念が蔓延しているためであろう。政界において奇矯な英語教育論を振りまいているのはたいていが右派議員であるような印象を受けるが、このあたりの意識のせいなのかもしれない。もっともそういった理屈の問題以前に、自民党文教族がアレな人の集まりなだけだといわれればそうなのだろうが。いずれにせよ、19世紀後半のフランスと違ってその議論の方向がとんちんかんな方に向かってしまっているというのは、実際には、少なくとも今のところは日本がそれほどの「危機」に直面しているわけではないということを、逆に示しているとも受け取れる。


日本での英語教育の議論で非常に矛盾しているのは、「英語はフィーリング、細かいことは気にしない」的なものと、「英語ができないとグローバル市場から取り残される」といった仕事上の必要性から英語力の強化を求める声とが共存していることだろう。

英語で簡単な意思疎通はできるものの、「細かいことはいいんだよ」と、時制に無頓着、冠詞はめちゃくちゃ、他動詞と自動詞も可算名詞と不加算名詞の区別もまるでつかないなんて人に、仕事で英語が必要になった時に頼りたいだろうか。日本の英語教育が「役に立つ英語を」という「実学」志向による圧力によってかえって混乱をきたしているというのは、少なからぬ日本企業が現時点では英語のできる人材をそれほど切実には欲していないということの表れなのではないか。

繰り返しになるが、大学入試を頂点とした「受験英語」に様々な弊害があったことは確かだ。しかしだからといって文法等の知識が必要ないということにはならないはずだ。漱石は多少わからないところがあっても気にせずにひたすら英語を読みまくれといったようなことを書いている。では漱石は英語教師として「英語はフィーリング」といった授業を行っていたのかというとむしろ逆で、松山中学時代は文法等を微に入り細をうがつような、英語の文章を徹底的に分析する授業をしていたようだ。そして熊本五高時代は一転してすらすらとスピード感溢れる授業をしていたが、イギリス留学を経て東大で教鞭をとるようになって学生の英語力が自分たちの頃と比べると落ちていると感じると、やはり教鞭をとっていた一高では再び分析的な授業に戻したようだ。漱石は闇雲に英語を読めばそれでよしとしていたのではなく、あくまで基礎的な文法、単語等の知識を身につけた後にそうするべきだと考えていたのだろう。

旧制高校といえば、その語学力が高いものであったのか「神話」にすぎないのかについては諸説ある。しかし語学に対するモチベーションの問題でいえば、現在の高校・大学生と比べると遥かに高かったことだろう。モチベーションというのはなにも生活の糧によってのみ掻き立てられるのではない。旧制高校には英仏独あたりは翻訳を頼らずに原書で読むべきだという、「原書主義」があった。英語はもちろん、フランス語やドイツ語あたりも、辞書を引けばとりあえず意味がとれるくらいの語学的知識を持っていなければ、肩身が狭かったことだろう。

「原書主義」はスノッブなだけかもしれないが、近年日本で英語の必要性が喧伝されるのと反比例するように、英語圏に限らず外国文化全般への若者の関心が低下していっているという印象がある(翻訳文学、洋画、洋楽いずれも壊滅的だ)。しかしそれを危惧する声というのはあまり高くはないように思えるのはどうしたことか。

まだ翻訳されていない面白そうな本を読みたい、好きな映画を吹き替えや字幕に頼らずに理解したい、というのも立派なモチベーションであるはずなのだが、「実学」志向はむしろそういったものを削ぐ方向へ誘導しているかのようだ。英語への強迫観念の押し付けと外国文化への関心の低下が歩調を合わせているかのように起こっているのは、その内実が子どもたちに「正しく」伝わっている結果なのかもしれない。別に文化関連に限らなくっても、エコノミストやフィナンシャル・タイムズを読みたいと思うことによってモチベーションが出てくるということだってあるはずだが、「役に立つ英語」を求める人たちから、大学生ならこういったものをきちんと読みこなせるようになるべきだというような話はあまり聞かないような気がする。


また村上が「日本の若い人たちの多く」が「しゃべるにせよ、読むにせよ、書くにせよ、今でも生きた英語を使うことが苦手なようです」としていることもややひっかかる。「本当に生きた外国語を身につけるためには、個人的に外国語に出て行くしか方法がないみたいです」というのはそうだろうか。

ジョン万次郎の伝記小説『椿と花水木』(津本著)とジョセフ彦の伝記小説『アメリカ彦蔵』(吉村昭著)を読んだことがあるのだが、ジョン万次郎もジョセフ彦もその晩年は不幸とまではいかなくても、満ち足りたものとまでは言い難いものであったようだ。二人とも十代半ばで乗っていた船が難破し、アメリカに長期滞在することで英語を身につけた。まさに「外国に出て行」って(といっても二人とも望んで行ったわけではないが)、「本当に生きた外国語を身につけた」。ジョン万次郎はアメリカでそこそこの教育を受けたが、ジョセフ彦は諸般の事情でアメリカでの教育は中途半端なものに終わってしまった。

二人は幕末から明治初期にかけては流暢に英語を操ることができる貴重な人材として通訳などで活躍した。しかし、しばらくして英語ができる日本人が増えてくると、二人が日本で十分に教育を受けておらず、アメリカでも学問を究めたわけではないことが仕事の幅を狭めていく。日常的な英会話はできても体系だてた学問を身につけたわけではなく、また庶民であった二人は幼少期に日本で高い教育を受けていなかったために日本語の読み書き能力がそれほどでもなかったことから(万次郎は幕府や明治政府に召抱えられたことから帰国後に勉強を重ね、日本語の読み書きもかなりのレベルにあったようだが)、翻訳や教育においても十分に力を発揮することはできなかったということなのかもしれない。

日本人なのだからまず日本語を大切にするべきだということが言いたいのではなく(母語と平行して外国語を教えることはもちろん可能であろう)、「生きた英語(外国語)」という、いかようにも解釈できる曖昧な目標によって教育方針を決めることの危うさを、二人の例は示しているように考えらないだろうか。

村上は小学生のうちから英語を学ばせることには否定的で、「そんなものあまり役に立たないでしょう」、「教育産業を儲けさせるだけです」としている。
陰謀脳を起動させると、すでに一部の大学では外国語の授業の外注化が進んでいるようだが、英語産業が小学校の英語の授業を受注することをビジネスチャンスと見据えて英語熱(とりわけ「生きた英語」熱)を煽っているようにも思えてくるので、これには大いに同意する。

このように村上は小学校から英語教育をすべきだということには警戒的なのであるが、その村上ですら俗論めいた英語教育論にかなり影響されてしまっているように見えてしまうところに、むしろ問題の根深さがあるようにも感じられる。

公立小・中学校で日々学生と向き合っている(英語)教師のうち、村上のここでの英語教育論に同意する人はどれだけいるだろうか。「現場の声」を絶対化するのはそれはそれで危ういことでもあるが、しかし日本の英語教育を「改革」するべきだと声高に訴える人々による議論があまりにも「現場」(それは教師であり、学ぶ当事者である学生たちのことでもある)を無視したものになっていることは間違いないだろう。本来ならばこういったオレ様理論の押し付けや机上の空論によって学生を翻弄するような人々に批判的であるだろう村上が、図らずもそれに利用されかねないような粗雑な英語教育論に陥ってしまっているのは、村上に英語教師の経験がないためなのだろうか。

もっともこれは英語教育を主眼に置いたエッセイではなく、あくまで日本の学校の持つ「個」を潰すメカニズムについて批判的に言及したものなので、英語教育についてはあくまで話の出汁に使っただけで、ここでの議論は一つのたとえ話と受け取るべきものなのとすべきなのかもしれないか。


……と、思いつくままにダラダラと書いているうちになんだかエラソーになってしまったが、柴田元幸さんや佐藤良明さんらによって作られた東大の英語教科書、The Parallel Universe of Englishを買ったはいいが、きちんと勉強するどころかまともに中身すら見ていないような人間の言っていることですからね! どこかにあるはずなのだが、引っ張り出してみようかと思ったのだが、どこに埋もれているのかすらわからない……



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佐藤太郎(仮)

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