宮澤喜一と英語、そして緊縮策について

宮澤喜一が日常的に英字紙を読んでいたことに対して、他の自民党議員からあんな気取った奴どうにも受けつけないと否定的な評価がなされた、というような話をどこかで見聞きしたことがある人がいるかもしれない。僕もどこかでこのようなエピソードを目にしたような気がする。この都市伝説(?)をどう解釈すればいいのだろうか。「政界随一の英語力」とされた宮澤を褒め称えたものだろうか。それとも自民党議員の知的能力を揶揄したものだろうか。おそらく最も可能性が高いのは、宮澤が高い知性を誇りつつ(あるいはそれゆえに)、まったく人望がなかったことを象徴的に表そうとした、ということなのではないだろうか。

宮澤は東大から大蔵省を経て政界入りしているが、似たようなキャリアの自民党議員はたくさんいる。こういった議員は会話力はともかくとして英字紙を読むくらいの英語力はあっただろうし、日常的に英字紙を読んでいた自民党議員が宮澤一人しかいなかったとも考えづらい。ではなぜこのような「都市伝説」が生まれたのだろうか。


『聞き書 宮澤喜一回顧録』(御厨貴・中村隆英編)を読むと、なるほどね、と思わせる部分があった。この本は2001年から2004年にかけて、御厨と、宮澤が経企庁長官時代に一緒に仕事をした経験も持つ中村がインタビューをした「オーラルヒストリー」である。

宮澤の祖父は出身地である信州の富士見に別荘を構えた。そこは犬養毅の紹介で、犬養家の別荘は隣にあった。宮澤は杖をついていた犬養の姿を見ているそうだ。宮澤家の別荘にはテニスコートがあったため、毅の孫の「幼い日の犬養道子さんが試合に来たりして、みんなが緊張していた覚えがあります」というエピソードを披露している。

続いて宮澤は自分の祖父や父について、こんなことを言っている。
「ただ私の祖父は五私鉄疑獄事件に連座いたしまして、一審無罪、それから有罪、何年かで結局牢屋に入る〔昭和四年九月二十六日起訴〕。それが私のいわばformative age〔人格形成期〕のいちばん気になることであって、なかなか私の記憶について離れない」。

別荘云々といった特権階級的生い立ちよりも、ここでは「formative age」という表現を使っていることに注目したい。

宮澤はJ・F・ケネディについて「例のキューバ危機という大問題があったときに、ケネディは非常によく辛抱しましたから、私のその時の印象はただの感じかもしれませんが、大変にクイックな人でした」としている。

そのケネディ政権が主導した「ケネディ・ラウンド」での交渉についてこう振り返っている。
「結局、いろいろ議論をしているうちに何が残ったのかと言いますと、ノンタリフ・バリアー(nontariff barrier)、関税以外の障壁、非関税障壁がいろいろあるじゃないか、あるねえ、これをどうにかしなければならないんじゃないかという問題意識があとに残ったんですね。関税に関する限りは、農産物も工産物もマイニング〔鉱産物〕もかなりやったんですが、ノンタリフ・バリアーズはさすがにやらなかった。それからサービス・インダストリーをやっていません。これがあとに残るという問題でありました」。


世の中にはこけおどしというかマウンティングというか、とにかく不必要に会話に横文字をはさむ人がいるが、同時にごく自然に横文字がやたらと出てきてしまう人もいる。宮澤がどちらのタイプなのかは知らないが、「大変クイックな人」とか「マイニングもかなりやったんですが、ノンタリフ・バリアーズはさすがにやらなかった。サービス・インダストリーをやっていません」みたいな話し方を普段からしていたのなら、多少なりとも英語ができる人でもちょっとイラっときてしまうというのはわからなくはない。学者相手の回顧ということでリラックスしてこういう話し方になったのかもしれないが、支持者に対してもこうだったのだろうか。


ところで宮澤はどうやってこの英語力を身につけたのだろうか。本書ではそのあたりについてはあまり語られていないが、『宮澤喜一・全人像』という本から、「父の意向で、小学校時代からローマ字を、中学時代はアメリカ人の家庭教師がついた」という注が付されている。

また「親類のおじがいまして、中学の初めからミルの『自由論』などを読みました。これは原書で読めと言われて、たぶん二、三年は無理だったと思うんですが、読んでいるうちにだんだんわかってきたような記憶がございます」としている。

アメリカ人の家庭教師やら『自由論』を原書で読めというおじやら、結局はそういう環境のおかげかよ、と思われるかもしれない。しかし本書では、宮澤は東大時代の昭和十四年に日米学生会議でアメリカに行った際に、自分の英語が「まったく使い物にならなかったのでびっくりして、それからという感じです」としている。武蔵高校時代にもアメリア人やイギリス人教師から十五人ほどの人数のクラスでの授業を受けていたが、「なんの役にも立っていないはずはないんですが、だからといってアメリカに行ってそれが使えたかと言うと、そういうことではありませんでした」と言っている。なお注で、『宮澤喜一・全人像』では「自らの英語能力向上は戦後、GHQとの折衝の必要に迫られてのこととしている」となっていると指摘されている。

いずれにせよ、幼少期に受けた教育のおかげで英語が流暢になったというよりは(もちろんそれも大きく寄与しているであろうが)、大学時代、ないしそれ以降に英語力を高める必要性を感じ、留学したわけでもなければネイティブからレッスンを受けたのでもないにも関わらず、英語力を大いに向上させたことは確かだろう。

なおこの学生会議で渡米した際にマルクスの『共産党宣言』の英訳を買って、そのまま日本に持ち込めないと思い発送人の名を書かずに船内郵便で家に送るとちゃんと着いたとし、当時はまだ「検閲もかなりルースでもあったんですね」としているが、宮澤は『共産党宣言』とは言わずに“Communist Manifesto”としている。別に宮澤は左傾化していたわけではなく、基本的には左翼思想的なものには興味すらなさそうで、心酔したわけでも対決を試みたわけでもなく、教養のためにとりあえず目を通したという感じだろうか。

さらに昭和十八年頃に沼津で税務署長をしていた頃、「ちょうどアメリカに行ったときに買ってきて、まだ読み切らなかった本で“Gone with the wind”〔邦題『風と共に去りぬ』〕という本がありますね。こんな〔厚さを示す〕本でした。それを読んでいた覚えがあります」とも語っている。

昭和十八年に若いキャリア官僚が税務署長としてやって来て「豪華な生活」を送りながら、分厚い洋書を読んでいるというのはどう写っていたのだろうか。それにしても『共産党宣言』にしろ『風と共に去りぬ』にしろ、邦題が定着しているのだから英語で読んだにしてもそっちで言えばいいじゃないかと思うのだが、英語で染み付いちゃっているのだから自然とそうなっちゃうんだよ、ということなのだろうか。

宮澤はまた、日米学生会議の帰路はシアトル経由で、船が来るまで「沖の島」でキャンプしたことに触れ、「最近私が小説で読んだところ、『スノー・フォーリング・オン・シダース』〔原題“Snow Falling on Ceders” 邦題『ヒマラヤ杉に降る雪』(一九九九年)。日本公開は二〇〇〇年〕という映画にもなって、その島ではずいぶん多くの日本人が農園栽培をやっていたということを、その本で初めて知りました」と言っている。

ここでタイトルがカタカナで表記されているのは宮沢が邦訳で読んだということなのかとも思ったが、この小説の邦題は『殺人容疑』なので、既に刊行されていた邦訳ではなく原書で読んだということなのだろうか。

外国語がそれなりにできる人でも高齢になると外国語で読むのが面倒臭くなって日本語しか読まなくなるという現象はよくあるようだが、宮沢は70歳を越えても英語で、しかも小説を読んでいたのだろうか。宮澤は帰国子女ではないので、日本語より英語の方が読むのが楽ということはないだろう。苦もなく英語を読めるということだけではなく、おそらくは英語を読むということ自体が好きなのではないだろうか。そうであれば、これこそが宮澤が高い英語力を身につけた最大の要因だったのだろう。

それにしても、やたらと英語まじりで話すところは、「イヤミ」っぽい(イヤミはおフランス帰りのはずなのに一人称をあえて「ミー」とするところに赤塚不二夫の天才っぷりがよく表れている)と受け取られかねないし、政治家でありながらそのへんに無頓着なところが、宮澤の「人望のなさ」となっていたとも考えられる。


英語云々を離れると、本書は政局的にはあまり生臭い話には踏み込んではいない。政策的にも回想が官僚時代から政治家、総理時代までの長期間に渡る分だけ、一つひとつのテーマがそれほど掘り下げられているわけではないかもしれない。そんな中、個人的に注目したのが「ドッジ・ライン」のあのドッジをめぐってのエピソードである。

宮澤はこう言っている。「ドッジというのはデトロイト銀行の叩き上げの頭取でリパブリカンだから、それこそファインなどやっているような占領軍全体のニューディール的なものは止まるだろう。大蔵省はどうもニューディール的なものは苦手なものですからね。殊に補助金のことですね。もしかしたら、このドッジというじいさんは、そういう役割をしてくれるのではないかと、なんとなく想像だけしておりました」。

ドッジは「公共事業を増やすことも駄目、輸出補助金も減らす」という緊縮策を取ることで日本のインフレに対処しようとした。星島二郎や植原悦二郎といった「英語のできる長老政治家」は、公約と正反対になってしまうと取引高税をやめてくれと陳情に行くが、ドッジは「断固として譲らない」。

「まったく譲らなくて、減税なしどころではなく、まるで正反対の予算ができることになるのがだんだんわかってくる。吉田〔茂〕さんも池田〔勇人〕さんも話をするんでしょうが。吉田さんは無関心でした。吉田さんはマッカーサーとの信頼を築くことに専一ですから。マッカーサーというのはリパブリカンですから、いままでニューディーラーたちがやっていた予算をドッジがどんどん壊していくのを黙って見ているわけです。したがって、池田さんにしてみれば、ドッジの考え方そのものは、国内の政治情勢をまったく別にすれば、方向としてはいいわけです。ただいかにもひどいな、ということはあるでしょうけど。だいたいそういう雰囲気でした」。

この予算案は「民自党が選挙で公約したものとは似ても似つかない」ものとなったが、最後は「吉田さんがみんなを黙らせて通ったようなもの」となった。「しかし結局、吉田さんは均衡財政ができたといって大変満足」だったそうだ。

宮澤のニュアンスでは、池田はドッジの緊縮策には幾分懐疑的ではあったがそれでも容認、吉田はマッカーサーとのつながりもあって、ドッジを信頼したようである。そして大蔵省的にも、ドッジの緊縮策は基本的な路線としては賛同できるものなのであった。

「しかし不況になるわけですから、大変な不評でございました」と宮澤が語るように、この「ドッジ・ライン」によって景気は一気に冷え込むのであるが、当時の宮澤はそれを問題だとはあまり感じていなかったようだ。

「ドッジは、昭和二四年の暮れにもう一度やってきて、翌年の予算も見ているわけです。いま申し上げたライン、いわゆるドッジ・ラインといったものの実施ということになるんですが、その頃には日本経済はある程度復興しかけていた」ということを、宮澤はインタビュアーである中村の『昭和史』を読んでようやく気づく。

宮澤はこう言っている。「あのご本を読むと、ああそうだったのかなと思う。僕らはドッジと一所懸命だったが、客観的には占領軍司令部の人たちの苦労もある程度実を結びつつあった。日本のインフレがそういう意味で収束過程に入っていた、と『昭和史』には書かれています。そうであったかもしれません」。

中村はこの二十年後にシャーウッド・ファインに会ってドッジ・ラインの話をすると、ファインは「あれはまったく無駄なことであった。自分たちがやっていたことでうまくインフレが安定して、復興路線に乗るところであったのに、ドッジが来てぶちこわしたんだ」と言ったという。

不必要な緊縮政策によって日本経済は「ぶちこわ」されたのだが、宮澤の口ぶりではそのような認識は大蔵省内ではほとんどなかったようだ。そしてこのような大蔵省/財務省の基本的路線は現在でも生き残り続けているし、宮澤のような鈍感さや、吉田のように「均衡財政を喜ぶ」といった政治家の姿勢もまたそうである。そしてこれは大蔵省/財務省、政治家に限ったことではなく、メディアやそれを通して情報を得る多くの人にとっても、緊縮策や経済状況を無視しての均衡財政政策を志向するという倒錯的感覚は依然として残っている。これは「倫理的」直感に基づくものかもしれないが、その分だけ、マッカーサーがニューディール潰しとしてドッジの暴走を黙認したように、政治的な意図も含まれていたということが見えにくくなってしまうことにもなる。

安倍政権が一見すると緊縮策を否定しているようでありながら、持続的経済成長につながるはずの再分配政策については極めて消極的である(というかむしろそれと逆行するような政策も平気で行う)のも、このような政治的、もっといえばイデオロギー的背景が影響していると見ることも可能であろう。またこのような観点からの批判的検証があまり見られないのも、同様のイデオロギーの発露の一種であるのかもしれない。


それにしてもやっぱり、「ドッジというのはデトロイト銀行の叩き上げの頭取でリパブリカンだから、それこそファインなどやっているような占領軍全体のニューディール的なものは止まるだろう」というのは政治家の口調ではないですよね(苦笑)。



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