『ヴァイマル憲法とヒトラー』

池田浩士著 『ヴァイマル憲法とヒトラー』




不況や失業こそが極右の最大の栄養源というのは昔も今も言われることで、ナチスについてもその筋で論じられることが多い。これは基本的には間違ってはいないのだろうが、その内実については慎重に考察する必要もあるだろう。

第一次大戦後、ベルサイユ条約による過酷な措置も相まってドイツ経済は大混乱状態が続く。1920年代半ばにはようやく一息つき、これから安定へと向かっていくかに思えた矢先にアメリカ発の大恐慌が生じ、その余波をドイツ経済はもろに受けることになる。

本書の中で著者はユルゲン・W・ファルターの『ヒトラーに投票した有権者たち』の「おもしろい図表」を取り上げている。1920年代後半からのナチスの得票率とドイツの失業率は、これ以上ないほど見事な相関関係を描いている。まさに失業こそがナチスの政権への道を切り開いたのだ、と単純に言いたくなるが、ファルターはここでもう一つの図表も作成している。それはナチスの得票数と失業者数である。「率」でみるとほぼ一致していた線が、「数」で見ると、ナチスの得票数の上昇は失業者数の上昇をはるかに上回っているのである。失業者が最後の希望をナチスに託した、とは言い切れない。

ファルターはこれについて次のように分析しているという。
投票率が上がった選挙では、その上昇分をナチスが吸収した。つまりこれまで投票所に足を運ばなかった無党派層がナチスに流れたのがその要因の一つである。またナチ党と政策の重なっていた他の右翼政党が票を減らし、極右票がナチス一党に集中していった。つまり社民党や共産党の支持者がナチス支持に転じたのではなかったのである。そして失業者が多い地域ではナチスは票を伸ばすどころかむしろ減少させており、失業者は共産党を支持する傾向が強かった。一方で失業率が低い地域ではナチスが大幅に票を伸ばしていたのである。

ナチスの支持者は商業や手工業、農業などの自営業者に多く、これらの人はブルーカラーやホワイトカラーほどには失業の危機には直面していなかったが、しかし同じ地域の同業者が破産するという憂き目にあうのにも直面してもいた。
池田はこれを受けてこう書いている。急増したナチス支持者の「その心情は、いま現在についての絶望や怒りであるよりは、むしろ、迫りくるものについての不安や危機感なのです。あるいは、自分がいま現に受けている損害や痛みについてのリアルな感覚であるよりは、むしろ、いまにも受けるであろう打撃や損失についての危惧と焦燥なのです。ナチズムは、こうした予感的あるいは予防的な危機感を、いわば未然に吸収し組織したのではないでしょうか」(p.42)。

「いま現在についての絶望や怒りであるよりは、むしろ、迫りくるものについての不安や危機感」にかられていたといったあたりは、先のイギリスのEU離脱をめぐる国民投票の動向を思い起こさせるし、「こうした予感的あるいは予防的な危機感を、いわば未然に吸収」したというのは離脱派のキャンペーンも想起させる。

日本でも、とりわけ小泉政権以降「弱者による弱者叩き」という図式で右派の支持の伸張を理解しようとする人がいる一方、むしろアッパーミドル以上こそが右派政治家支持層の主要な担い手であるとする分析もある。これについてはおそらくは後者が正しく、この傾向はとりわけ大阪での橋下支持層に顕著に現れているだろう。

という感じで、僕もついあの当時のドイツと現在の日本とをあれこれ比較して考えてしまいたくなるが、同時にそういった単純化には慎重であらねばならないとも思っている。
「はじめに」や「あとがき」を読めばわかるように、池田は日本の現状に非常に強い危機意識を持っており、その意識こそが本書を書かせることになる。僕もそれに共感しないこともないのだが、そういう人間から見ても少々筆が走りすぎというところも見受けられる一冊となっているし、さすがに同意しかねる点も少なからずあった。

とはいえ、著者のもし自分があの時代のドイツにいたらナチス支持者になっていたのかもしれない、そしてそのような心情はいつの時代、どの地域でも起こりうるのではないかという問題意識は重要であるし、安易な同一化には慎重であらねばならないが、また歴史から学ばなくてはならない点、学べる点があることも確かだろう。


大恐慌によって失業が膨れ上がると、ヴァイマル共和国時代に「自発的労働奉仕」という制度が作られた。これは失業者が「任意」に「労働奉仕」を行い、その対価として小遣い銭にもならないようなわずかな報酬を受け取るという制度だった。ナチスは政権を取るとこの制度に注目し、拡大させた。「従来の労働奉仕制度は根本的に改変され、「第三帝国」のもっとも重要な社会制度の一つに変貌していく」。

「「自発的労働奉仕」による労働調達は、失業者に労働を与えただけではありませんでした。それよりもむしろ、土木建設業を始めとする企業、いわゆるゼネコンが、事業を請け負って、利潤を上げ、企業を拡大する可能性を与えられた、ということでもあったのです」(p.131)。

「ヒトラーが景気を回復させた」とはよく言われるところだが、単に軍事支出を増やしたり公共事業を拡大させただけでなく、「安価」な労働力をこのような形で企業に提供してもいたのである。
これはつい「安くて解雇しやすい労働力」をひたすら求める企業とその「期待」に応えようとする政府与党との関係と重ねてしまいたくなるし、「外国人実習生」という名の人権や労働法の埒外に置かれた実質的な外国人労働者の存在は、これをグロテスクに現在の日本に移植したものだとも感じられてしまう。


著者は第二次大戦後も「あの時代は良かった」とヒトラー時代を懐かしむドイツ人の声を聞こうとし、いったい何が彼らにそう思わせるのかを考える。こう回顧する人の多くが、「社会的差別がなくなったことと、社会的な連帯感が生まれたことを、その理由に挙げて」いる。

これはぎょっとするかもしれないが、主観的にはナチスとは因習を打破するものだと思えた人が多かったのであった。小泉政権はまさにそのようなイメージを意図的に使い、橋下支持者の多くが「改革」によって旧弊を打破するのだと信じていることを想起すればいいだろうし、安倍政権とその支持者にも、その復古調な性格と矛盾するようでありながら、似たような傾向が見受けられる。

一方でユダヤ人をはじめとするマイノリティやナチス政権に逆らう反体制派の迫害については、自分たちこそが真の多数派であり自分たちこそが正しいのだと考えれば、むしろ連帯感を強めてくれる。ここまで確信的でなくとも、マイノリティや反体制派がどれだけ過酷な目にあおうとも、自分はそれとは無関係なのだと思えれば、心は痛まないこととなる。

では実態としてはどうだったのか。ヒトラーはブルーカラーの労働者とホワイトカラーの職員の差別をなくすと主張した。これを賃金面から1929年と39年を比較検証すると、この間に実は「労働者の賃金は下がり、職員の給料は上がっているのです」。失業が減少したのは事実だが、労働者への恩恵をはるかに上回るリターンが企業やホワイトカラーにもたらされたのだった。

「ヒトラーは社会的差別をなくしませんでした」。それどころか、「国民を等級化づけし差別化し」、「何よりも、「生きる価値のない存在」、「反社会分子」、家畜より以前の労働動物とされて当然の「劣等人種」。等々の根本的な差別を国家社会の全体に制度化したのです」。

「いまから考えると、ナチズムによる支配は、国民を立ち止まらせなかったことがわかります。日常を埋め尽くした魅惑は、立ち止まって考えることをさせず、ひたすら人びとを前方に向かって走らせたのでした。いま走るのをやめれば、せっかくここまで来たことが無意味になってしまう。それどころか、もっと悪い状況になるかもしれない」(p.224)。

こうして走り続け、カフカが書く寓話のネズミのようにどんづまりに追い詰められて、ネコにむしゃむしゃと食べられてしまったのであった。


繰り返すが、今回僕もついやってしまったが、現在の日本の状況を1930年代のドイツとそのまま重ねるのには無理があるし、安易に行うべきでもない。しかし同時に、全く同じではなくとも、似たような轍を踏む可能性がありえないということにもならない。ヒトラーやナチスの権力掌握の形態(これは単体によってもたらされたのではなく、ヒトラーを利用し飼い馴らせると目論んだ保守層の甘い見通しや保身の結果など、複合的な要因でもある)、あるいは多くの人々が「魅了」され、さらには破局が訪れ蛮行の数々が目の前に突きつけられようとも「あの時代は良かった」と思えてしまうといったことがいかにして起こったのか、それらについて考え問い直し続ける作業は常に必要なのである。



プロフィール

Author:佐藤太郎(仮)
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