『ヒトラー演説』

高田博行著 『ヒトラー演説』




タイトルの通りヒトラーの演説を分析したものであるが、注目すべきはその手法である。「ヒトラーの演説文を客観的に分析できるように、ヒトラーが四半世紀に行った演説のうち合計五五八回の演説文を機械可読化して、総語約一五〇万語のデータを作成」し、「ヒトラーが演説において用いた語彙が時の流れとともにどのように変遷したかについて統計的調査を行っ」ている。

ナチスのスローガンといえば「血と土」を思い浮かべる人も多いだろう。この言葉がキーワードとして使われるようになったのは1930年に出版されたダレの『血と土に由来する新貴族」によってであるが、ヒトラーはこの5年前の1925年にはすでに「血」と「土」という語を、直接結合はさせてはいないが同じテクストに同居させている。しかし演説においては「血と土」という組み合わせは1933年に2回使っただけで、ヒトラーは「土」という語を演説では「土と土壌」という形で多く使用していたという。

細かいといえば細かい話ではあるが、こういったものはコーパス的手法で分析しないことにはなかなか見えてこないだろう。本書はこのような語彙やレトリックといった言語学的分析だけではなく、ヒトラーの伝記的事実やドイツの社会状況も合わせて、ヒトラーの演説を分析するとともにそれがいかに受け止められたのかを明らかにしている。


第一次大戦後、ヒトラーは帰還兵の啓発教育部隊委員となり、初めて聴衆を得る。兵士達の反ユダヤ的感情に訴えかけ反響を引き起こす。この頃のある書簡においてヒトラーは、「AではなくてB」という、「Aを引き合いに出して、そのAを否定してBを際立たせる」、「対比法」というレトリックをよく用いている。「しかし」という逆説もよく使い、「A、しかしB」という論法も対比法の一つである。「Aから予想されるのとは異なる帰結Bが存在することを明示し、白か黒かを明確にしている」。
右翼から注目を浴びつつあった1920年には「ペテン師」「高利貸し」といった俗語調の語彙を用い、「労働」「ユダヤ人」「民族、国民」「人種」といった語も多用している。このように、ヒトラーによる人心を煽る演説テクニックは初期の段階からその萌芽を見せていたとしていいだろう。

ヒトラーの集会に参加した作家のツックマイヤーは1923年にこう書いている。
「私たちのような者からすると、その男は激情に身を任せ踊り狂い、うなるように叫ぶ人間であった。しかし、彼は、葉巻の霞とソーセージのなかで無感覚にぼんやりと集まっている大衆を興奮させ、感激する術を心得ていた。煽動演説では、論理的な説明で大衆を支配することなどできない。だから、ヒトラーは人目を引く登場の仕方をしたり、俗物の大きなうなり声と金きり声で大衆を魅了した。とりわけ、聴衆の感覚を麻痺させる繰り返しという金槌をうまく叩いて、伝えたい内容をリズムよくことばにするのである。それは野蛮で原始的ではあるが、鍛錬された巧みなもので、恐ろしいほどの効果があった」。

ヒトラーはきっちりとした原稿は作らず、話の流れとキーセンテンスを書いた準備メモを作って演説を行っていた。実際の演説と比べると、「内容がメモ書きに沿っていることが確認できる」。ヒトラーは聴衆の反応に合わせて即興で言葉を重ねることができると同時に、感情にまかせてあっちこっちに脱線していたわけではなく事前の予定通りの内容でまとめる能力も持っていた。ビアホールに集まっていた中には娯楽を見るような感覚でヒトラーの演説を聞いていた人も多かったが、単なるウケ狙いの罵詈雑言を繰り返すのではなく、このような人を引きつける政治的誘導も行ってもいたのである。

ミュンヘン一揆によって逮捕されたが、法廷はヒトラーに対して同情的であり、ここでも対比法や「もし~だとすると」という仮定法、そして「~せねばならない」、「きっぱりと」といった語を多く使い、強い印象を与えることに成功する。とはいえワイマール共和国のインフレも一息つき、政情は安定化に向かう。ヒトラーはすでに終わった、過去の人間だと考える人が多かった。


出所後、ヒトラーは公開演説の禁止にもめげずに積極的な活動を行う。
ドイツ帝国誕生後、ドイツ舞台連盟が各地のドイツ語の発音を調査し、原則として北ドイツ(低地ドイツ)、とりわけハノーファーの舞台の発音を採用することとなり、1898年に『ドイツ語舞台発音』が刊行された。これはあくまで舞台用で日常生活における発音を拘束するものではなかったが、1922年にこれが『ドイツ語舞台発音・標準発音』と改題されると、標準的な発音の規範のように受け取られるようになった。ヒトラーはオーストリア北部やドイツ東南部の上部ドイツで育ち、この地域の市民層には公の場ではこの地方の方言を避けるべきという意識が明確だった。ヒトラーもこうして「標準」の発音法に従い、「自らの方言の特徴を残しながらも、演説家としてドイツ語圏全土でつうじる「正しい」発音に腐心した」。
また「正しい」発音がもともとは舞台用だったことも示唆的でもある。ヒトラーは当時の他の政治家とは異なり、ポーズをつけた写真のポストカードを売り出すなど、視覚的イメージも積極的に活用していく。

1920年代半ばはナチスにとって低迷期であった。この頃のヒトラーの演説はある警察の報告書では「なんら卓越したものには思えない」と酷評されてる。わざとらしい強調や繰り返しを使うことで変更不可能な事実であるかのような印象を与えるこの演説を、聴衆が「内容としては新しくないこの福音を拍手で受け入れる」ことに驚きをみせている。「この報告者は、ヒトラー演説を理性的、客観的に見る限り、何の価値もないと評価しているわけである。しかし、ヒトラー演説のこの程度の低さは、ヒトラーが大衆を理解力のない集団と認識していることによっている」。

『わが闘争』の口述筆記などを通じ、荒削りであったヒトラーの演説は、政治的には低迷期と見られていた1925年には完成していた。「ポイントを絞り、繰り返す」こと、また聴衆のフィードバックを重視し、演説を行う時刻にも気を配った。そして支援者に広告戦略に長け成功した実業家がいたこともあって、商業広告の手法も取り入れていた。1925年12月の演説を詳細に分析すると、この日の「ヒトラー演説は弁論術、レトリックの観点から見て、極めて巧みであったことがわかる」。

1920年代後半にはラウドスピーカーを用いて大規模会場での演説も可能にするなど、テクノロジーも積極的に使ったが、ラジオは政権に独占されていて利用できなかった。ラジオを利用するようになったのは政権獲得後で、「ゲッベルスの口」とも呼ばれた小型受信機を普及させるなどプロパガンダに用いた。もっとも演説をひたすら流すことはかえってマイナスだとわかり、娯楽番組に切り替えなければならないという面もあった。
1930年ごろにはヒトラーの演説に「憲法」「政府、統治」「指導」「内閣」などの言葉が増えているように、政権奪取を意識していることは明らかである。過半数を得ることはできなかったものの、政治的駆け引きの結果としてついに1933年にヒトラーは首相となる。

「全権委任法」をめぐっての審議では、社民党がナチ政権下で最後の自由な演説となる反対演説を国会で行ったが、事前にこの内容を掴んでいたヒトラーは巧みな反撃を行う。「国民革命」というキーワードが使われ、これは「永遠の世界帝国」を建設するためでロシアの革命とは本質的に異なるとした。国民を同質化し、組織的に「人間を改造する」ことを目ざし、「個人的幸福の時代は過ぎ去った」、「熱狂した大衆のみが管理可能であり、感情のない鈍感な大衆は共同体にとって最大の危険である」とし、「平和か戦争かの決定を下してほしい」と演説を結ぶと、「大喝采が起こり全員起立で国家が斉唱された。これは、その後の国会の姿を先取りする光景であった」。

1930年代半ばには、それまでナチスに批判的であったり懐疑的であった人々までが、ヒトラー政権を歓迎するようになっていった。
国際的にはヒトラーは軍縮などを訴え、「平和」を強調した。1933年5月の「平和演説」では、「平和」と「軍縮」が11回使われた。実際にはこの演説は、「民族、国民」が47回使われているように、国際連盟の脱退を示唆したものであったのだが、「ヨーロッパ」、「同権」、「平和」、「軍縮」、「解決」、「用意」といった言葉をちりばめることによって「諸民族協調の代弁者というイメージを創り出」すことに成功し、『わが闘争』で書かれている通りに行動するのではないかと恐れていた各国を安心させた。

1935年と36年には「平和」という言葉を数多く口にしていたヒトラーだが、ベルリンオリンピック終了後の37年の演説では「「平和」への言及は一気に減少する。ヒトラーの心のなかで、いよいよ戦時体制への意識が高まったことを示している」。

1940年、『独裁者』が公開される。この作品をチャップリンが初のトーキー映画にしたのは、最後の6分間の演説のためであった。「チャップリンは、演説というヒトラー最大の武器を用いてヒトラーを糾弾するという手に出たわけである」。
「このチャップリンの「独裁者の結びの演説」には、「私たちは機械よりも、人間を必要としています。私たちは賢さよりも、優しさと思いやりを必要としています」のような対比法と平行法の組み合わせ、演説後半の「~しましょう」(七回)、「~してはいけません」(五回)という繰り返し、「私たちはお互いの幸福によって生きたいのであって、お互いの悲惨によってではありません」といった対比法や、「豊富」と「欠乏」、「暗闇」と「光」といった対比的語彙が見られる。さらには、「貪欲が人間の魂を毒しました」、「あなたたちは家畜ではない」のようなメタファー、「人間の憎悪が去り、独裁者たちは死ぬ」という断定的表現、「機械の心を持った機械人間」(machine men with machine minds)という表現のm音による頭韻法なども見られ、レトリックとして巧みな演説文に仕上がっている」。

「皮肉なことに」、「チャップリンの『独裁者』が公開された頃からほどなく、ヒトラーの演説はその効果を決定的に失いはじめる」。
ドイツ国民はヒトラーを支持してはいても戦争への支持は高くはなかった。緒戦の快進撃の高揚が去ると、ヒトラー自身も心身の状態が一気に悪化していき、演説は冴えないものとなっていく。もともとヒトラーは聴衆のいないラジオで原稿を読み上げる形の演説は得意ではなく、このような方式は避けられるようになっていたのだが、開戦後は比喩的にも文字通りにもヒトラーは聴衆を失っていく。戦況が悪化する以前にすでに人心がヒトラーから離れ始めたことを示すかのように、公然と侮蔑する者も現れはじめる。

「ヒトラーの巧みな弁舌力が、そしてそれを伝えるメディアが聴衆にもたらしたのは「パン」そのものではなく、いわば実体のないまま膨らまされた「パンの夢」であった。ヒトラーから与えられたものに実体がないと受け手が明確に気づいた後は、ヒトラーの演説は機能停止するほかなかった」。

これは言葉を変えれば、「パン」の実体がなく「パンの夢」であった事実に、ドイツ人は戦争が始まるまで向き合えなかったということでもあろう。ヒトラーは政権を掌握してすぐに反体制派の弾圧に乗り出し、収容所送りとなったり海外に亡命せざるをえない人々が続出した。さらにはユダヤ人をはじめとするマイノリティーへの迫害は公然と行われてきた。それでも、戦争という「普通」のドイツ人にも避け様のない暴力が迫るまで、「普通」のドイツ人は「パンの夢」を見続けたのであった。



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佐藤太郎(仮)

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