『私の1960年代』

山本義隆著 『私の1960年代』




村上春樹は『ノルウェイの森』で1960年代後半の学生運動について辛辣に書いている。ミドリは小難しい言葉を振り回すばかりで、わからないことを質問してもまともに答えてくれないばかりかバカにするようなことを口にするだけの活動家を「こいつらみんなインチキ」だと思い、「新入生の女の子を感心させて、スカートの中に手をつっこむことしか考えてない」ような連中が四年になると髪を短くして大企業に就職して「マルクスなんて読んだこともないかわいい奥さんもらって子供にいやみったらしい凝った名前をつけるのよ」と毒づく。さらに「もっと頭に来たことがあるんだけど」としてこんな話をする。女性だけがおにぎりを作ってくるよう命じられたのを「完全な性差別」だと思うものの、波風立てるのもどうかと思っておにぎりを作っていくと、「小林のおにぎりは中に梅干しか入ってなかった、おかずもなかった」と言われたのだった。

こんなことを小説に書いた村上は学生運動に対して当初から一貫して醒めていたのだろうか。こちらに書いたように、83年に行われた五木寛之との対談を読むと、村上はむしろナイーヴなほど期待を持っており、それゆえに失望も大きかったのだと考えられる。

一方で、『ノルウェイの森』でセクシズムを批判したはずの村上だが、『海辺のカフカ』にはフェミニストを戯画化して嘲笑的に扱うという悪名高き場面がある。多くの人が指摘しているように物語的にあの方法しかなかったとはとてもいえず、僕もあれはひどいものだと思ったが、おそらくは村上の中に拭い難くこびりついた「運動」や「活動」といったものへの忌避感があれを書かせてしまったのだろう。

僕はそこまでの忌避感というのはないものの、やはり60年代という時代、そしてその学生運動については、いろいろと複雑な思いというのを持ってもいる。僕は70年代後半に生まれたので、むろん村上の感覚と比較することはできないが、音楽を中心に映画や文学も、60年代のものに夢中になった経験があるし、憧憬というのも人並み以上に強いとは思うが、それゆえにその「遺産」について考えるとかえって否定的感情にとらわれてしまうというのもわからなくはない。

もちろん、こういった感覚こそ70年代以降に体制によって刷り込みが図られたもので、まんまとそれに踊らされているだけだという見方もできるだろう。実際少し調べてみれば、あの時代の「遺産」に肯定的なものを見出すこともできるはずだ。

では、60年代後半の学生運動の波において象徴的人物として扱って構わないであろう、東大全共闘の代表であった山本義隆はあの時代をどのように振り返るのだろうか。本書は2014年に行われた講演に大幅に加筆した、山本による60年代の回想である。


「はじめに」を読んではっとさせられたのは、「六〇年安保闘争と言っても、今の二〇歳すぎの学生諸君にとってみれば、生まれる三十数年前も昔の出来事で、それは、私にとって日露戦争くらい昔のことだからです」としてあることだ。言われてみれば1941年生まれの山本にとって日露戦争は生まれるわずか(というべきなのだろうか)36、7年前の出来事なのである。96年生まれの人にとっては60年安保はそれほど遠いものであり、2006年生まれにとっては69年の安田講堂の攻防もまた、遥か遠い過去のことなのであるが、時代の隔絶という点では、山本のそれと比較することはできないだろう。

本書では言及されていないが、おそらく山本にとっては大いに不満があるであろう小熊英二の『1968』においても、微妙な世代の差によってもたらされる差異について触れられていたが、山本の世代というのは非情に微妙な時代に生まれたものだと思う。物心ついたときはまだ戦時中であり、それでいて学校にあがるのは戦後である。「一〇〇パーセント戦後民主主義教育を受けた最初の世代なわけです」としている。実態としては学校は民主主義的とはいえなかったのだろうが、それでも民主主義、平和というのは肯定的なシンボルとなっていた。また実家にテレビが来たことにはやはりある種の感慨があったように書いているが、60年代というのは経済的にも大きな変わり目でもあり、そういった点でも「きわめて特異」な時代でもあった。山本はその時代の中で二十代を過ごすことになる。


1941年に生まれた山本は1960年に東大に入学する。60年代を振り返るというのは、山本の20代をまるまる振り返るということでもある。
まさに60年安保の年に大学に入学したのだが、山本は当時の自分を「ひたすら物理学と数学の勉強をしたかった」だけの、「ほとんどノンポリ」としている。もちろん山本もデモに参加し、クラスの代議員も務めていたが、「当時の学生の政治意識としては平均値を少し上まわる程度」だったという。

こういった学生たちですら、そして「大衆」までもが積極的にデモに繰り出していたのは、「岸信介という人物にたいする反感」、「言うならば戦前と戦後をとおしての反動を体現しているような人物そのものにたいする反感」が強かったということなのだろう。そして岸が体現しているものは、山本の専門とも関わってくる。これが山本がその後も学生運動を続けたことの背景の一つを成しているのだろう。

岸は1957年には現行憲法下でも核武装は可能と発言し、58年の正月には伊勢神宮ではなく東海村の原子炉を視察したのだという。そして原発の研究を進め原発を持つことは潜在的核保有の可能性を高めることになるのだとしていた。

日本における「科学技術」の進化は、常に軍事と一体化したものであり、戦後一時控え目になっていたそのような形態を臆面もなく前面に出してくるようになった時代が60年代でもあった。67年には日本物理学界が主催した半導体物理国際会議の費用の一部が米軍が拠出していたことが判明する。これに象徴されるように、1960年代中期は「官民あげての科学技術振興計画が着々と現実化し、自然科学そして科学技術の研究はその体制に組み込まれていっ」た。倫理的問いを避けた自己正当化と「体制側テクノクラートの合理主義に飲み込まれ」るという状況は、科学者の「思いあがり」や「現実不感症」によって生み出されていった。そしてその中心にあったのが東京大学であった。

また62年に大学管理法闘争が起こるように、「産学協同の推進」や学生運動潰しの動きの活発化も同時に起こっていた。大管法は大学の前近代性を問うものという性質も持ち、ボス教授の既得権を侵害する部分もあったことから当初は教授陣と学生との共闘という「牧歌的」な光景も見られたが、「大学当局は、学生にたいする管理強化の方針にはあきらかに政府寄りであり、学生自治会と教授会はたがいに異なる方向を向いていた」ので、すぐに緊張は高まっていった。

山本やその同世代の大学生・院生を動かしていたのは大学や学会の反動化への反発であったのだろう。60年安保闘争が安保条約の是非を越えて民主主義の擁護という主張につながっていったのは、戦前回帰が進められていくという危機感であったが(それを体現していたかのような岸の退陣によって潮が引いていったのはその表れであろう)、学生たちにとってはその危機は大学という舞台においてさらに高まっていっているように映っていたのだろう。

ではそれに対し「進歩的・民主的」な大学教授たちはどのような対応をしたのだろうか。大学当局と一体化し、積極的に処分を進めていったのは、実はこのような「進歩的・民主的」教授たちであった。

前にこちらにも書いたように、僕が60年代後半の学生運動へのシンパシーを失っていくきっかけの一つとなったのが、丸山眞男の『自己内対話』に残された、丸山への吊るし上げの光景である。学生たちは丸山を「そろそろなぐっちゃおうか」、「ヘン、ベートーヴェンなんかききながら学問をしやがって!」と吊るし上げた。これは体制への異議申し立てというよりも単なるルサンチマンの発露にすぎないのではないか、そのように思えて、なんとも寒々しい気分になった。

山本らからすればまた違った光景が見えていた。本書には山本が当時書いた丸山批判も収録されているように、山本にとっても丸山は批判すべき存在となっていた。「進歩的・民主的」な教授が処分を進めたように、「民主主義擁護」という一見すると正しい主張が、「場合によってはマイノリティを抑圧することになりかねない」という意識が広がっていった。公害問題において、「「国益」の名のもとに「総力戦体制」の矛盾」を隠蔽したことは、「お国のために命を差し出しなさい」と言ってきた戦前社会とどう違うのだろうか。

丸山が『自己内対話』にこう書いているのを山本は引用している。「国家はたんに多数者の利益の代表者であってはならない。それはまた少数者(少数民族、異端、その他社会的偏見の犠牲になり易い存在)の保護の機関でなければならぬ。社会的圧力にたいして国家の強制力が対抗しなければ、こうした少数者の保護は十分保障されないだろう」。

これに対して山本は「しかし戦後の「民主主義国家」で国家が自発的に少数者や異端を保護した例を、私はほとんど思い浮かべることができません」と辛辣に応えている。「体制の支配機構にビルトインされ制度化された民主主義は、少数者の権利を保障し防衛する強力な機構なり市民のあいだでの理解を欠いているならば、少数者としての当事者の正統な権利を多数者の総意として「民主的」に抑圧する機構に転化することになります」。

他ならぬ丸山がこのことを認識し訴えていた。そうであるからこそ60年安保において、そして戦後民主主義の擁護において象徴的存在となったのではなかったのか。学生たちは丸山が発言するのを待ったが、丸山は沈黙を続けた。そしてようやく口を開いたと思えば、人権擁護の名において学生たちを批判したのであった。

山本は69年に書いた文章で、丸山の「『である』ことと『する』こと」を取り上げている。丸山はここで理想的な社会や制度を一つの模範として、静止的に想定することを批判している。こうして現実のあり方を問わずに制度を神聖化するようになると、「日本は民主主義国である以上、この秩序を破壊する行動は……」といった論理で労働運動や大衆運動を抑圧することになってしまうと、丸山はしている。はたしてこれを書いた丸山は、自身の思想に忠実であったのだろうか。

山本が批判しているように、「日本ファシズムの思想と行動」における悪名高き(としていいであろう)「擬似インテリゲンチャ」と「本来のインテリゲンチャ」の分類に代表されるように、丸山に権威主義的傾向があったことは確かだろう。そしてそんな丸山にとって、「東大は居心地がいいところ」なのだろうと、山本には思えた。

同時に山本も書いているように、丸山よりも遥かに醜悪な言動を取った教授はたくさんいた。村上が学生運動についてそうだったように、丸山に対する期待が高かったゆえに裏切られたという思いがよりつのったというところもあったのだろう。

山本は「今でもたまに読むと、丸山眞男の永続的市民革命の主張など、いいことを言っていると思います」として、『自己内対話』からこんな箇所を引用している。「デモクラシーが生々した精神原理たるためには、それが絶えず内面から更新され、批判されなければならなぬ。デモクラシーがこうした内面性を欠くとき、それはひとつのドグマ、教義として固化する。かくしてそれはファシズムへの最も峻厳な対立点を喪失する。現代日本はデモクラシーが至上命令として教典化される危険が多分に存する。それはやがて恐るべき反動を準備するだろう。デモクラシーは決して理想乃至善の代名詞ではない」。

しかし、やはり『自己内対話』収録の日記から、「全共闘の“いい気になっている”指導者たち」というところを引用し、「俺のことを指しているのだろうか、などとつい考えました」ともしているが、ずっと後に生まれた人間からすると、世代や気質の違いもあって不幸な行き違いをしてしまったようにも感じられてしまう。


「全共闘」と聞いて多くの人がまず思い浮かべるのが安田講堂の占拠であろう。
68年1月、「東大医学部と青医連が医師法一部改正・登録医制度に反対し、研修協約の獲得を目標に掲げてストライキに入った」。
登録医制度は「長期に渡る医学生の闘争によって破綻した」。無給のインターン制度にかわって、厚生省は研修医制度を持ち出したのだった。これは「インターン制度をめぐる闘争で力を発揮した青医連の弱体化を狙」うとともに、「早い話、不足している医療従事者を低賃金で確保することを目的」としたものだった。

当時の東大医学部教授豊川行平は厚生省の役人出身で、助教授時代には防衛庁の研究にもたずさわっていた。日中戦争勃発の翌年の「厚生省の創設は戦時下総力戦体制形成の一環だった」。

東大医学部は伏魔殿といっていいほど腐敗し退廃していたという証言は多いし、医学生たちの主張はもっともなものであろう。そして臆面もない反動化を危惧する人々にとっても、東大医学部で起こっている事態は、単に医学部の問題にとどまるものではないと思えただろう。

「東大闘争は、今から顧みたとき、戦術的な問題はいろいろありますが、それはさておき、もっとも重要なことは二点、ひとつはバリケード内に解放空間を形成し、一時的ではあれ、学生間の新しい共同体を創り出し、ささやかであれ自己権力への一歩を踏み出したこと、そしていまひとつは、科学あるいは科学技術にたいして、そしてその進歩にたして、それが絶対善であるという、明治以来の日本の近代化を支え、大日本帝国の敗北によっても無傷で継承されたイデオロギーにたいする批判を大衆的なレベルで始めたことにあります」、と山本は振り返っている。

僕も「解放空間を形成し、一時的ではあれ、学生間の新しい共同体を創り出し」とか言われると血が騒ぐようなところがあるし、戦前と戦後の連続性という問題は今でもアクチュアルなテーマであるとも思う。しかしそう思えばこそ、「戦術的な問題」がいろいろあったことを「それはさてお」いていいのだろうか、という思いにもなる(実際にはこの引用の仕方はちょっとアンフェアで、山本も「それはさておいて」と自己正当化に務めているのではなく、その手法に反省もしている)。

68年から69年にかけての状況を考えると、もし自分があの時代に大学生であったなら、さぞ高揚したことだろうと思う。そしてこの高揚感もまた、学生運動の勢いをそぐ結果になったというところもあるのではないだろうかと、個人的には思えなくもない。

東大医学部の学生の要求はまっとうなものだった。また「本当の意味での「全共闘」を作りあげたのは日大です。これは文句なしにそうです」と山本はしているように、日大全共闘は機動隊や右翼からの激しい暴力にも屈指なかったし、また日大の伏魔殿っぷりも凄まじいものであった。こうした闘争は共感を拡げやすいであろうが、一方で「解放空間」や「新しい共同体」といったたりはどうだろうか。本筋を見失っている、あるいは目的が抽象化して何を要求しているのかわからないと受け止める人もいたかもしれない。

ともあれ、高邁な理想を掲げながら卑小な現実が明らかとなれば、山本らが丸山眞男に失望したように、村上春樹が社会運動に忌避感を抱くようになったように、その理想が高ければ高いほど反動として潮の引くスピードも速くなる。

山本も書いているように、学生運動への共感が薄れていった背景には新左翼間の内ゲバも大きく作用したことだろうが、さらには警察とマスコミとの一体化の問題もある。マスコミは安田講堂がいかに破壊されたかを書きたてたが、これはおそらくは警察に誘導されてのことだった。また山本は69年9月に逮捕されたが、起訴は別の罪状であった。つまり公安は「起訴するのはとても無理」な件であっても逮捕ができるのであり、また「起訴すべき犯罪行為があったから起訴したのではなく、起訴するために犯罪行為を探しだしたとしか思えない」ような状況だった。山本は逮捕後にしばらく、留置場に入れられるのでもなく小部屋で延々と待たされていた。私服警官はときどき「もう揃ったか」と外の様子を窺っていた。2,3時間すると「もう揃ったようだな」と口にして腰縄で歩かされると、フラッシュの嵐に見舞われた。警察はマスコミが揃うのを待っていたのだった。このように警察とマスコミとの「持ちつ持たれつ」の関係によるイメージ操作も、学生運動への支持を減じさせる要因となった。

このように、共感の退潮の少なからぬ部分が警察などが意図的に作りあげたものとすることもできる。さらにこの後には道交法改正などによりデモに制限を加え、そして文字通りにデモを警官が囲い込むことによって、歩道を歩く「普通の人」と、警察に囲まれて車道を歩く交通を妨げる「迷惑」で政治に関心を持つ「変わった人」との分断を図り、それが「成功」した。デモに対する警察の対応がいかに恣意的なものであるかは、警察が共犯と化しているといってもいい近年のヘイトデモの蔓延で明らかになったが、これについて主要メディアはここ数年の警察の対応を批判的に検証することには及び腰のままだ。

しかしまた、60年代を生きた人のその後によってそのネガティブなイメージが増幅されているところもあるのかもしれない……というのも要注意で、実際には地道な活動をしっかりとやっている人も多くいるのだが、現在の社会における苦境というものに鈍感なまま大上段からお説教をかまされたり、あるいは醜悪に反動化したりしている人たちを見ると、やはり「う~む」という具合になってしまう。


そんな中で、僕は山本義隆という人に対しては否定的な感情というものを抱いてはこなかった。

63年1月、山本が立て看板を作っていると、「五〇年代の活動家という雰囲気を持っていた」、通りかかった大学院生が「タテカンを作るときには釘は少し曲がっているものを使ったほうが抜けにくく、したがって倒れにくいと教えてくれた」。この大学院生は廣松渉だった。

山本はその気になればアカデミズムの世界に戻ることはできただろう。それどころか、日本を代表するような物理学者になっていたかもしれない。山本は物理学を捨てたのではない。「その先も物理学の研究は続けるだろうと思っていました。と言うより物理学の学習は止められないだろうと思っていましたが、しかし研究室に戻るつもりはありませんでした」、としている。

生活に困っていた74年頃、知人がやっていた従業員一桁のコンピュータのソフトウェア関連の小さな会社に拾われた。宇宙開発事業団の仕事を受注した富士通の孫請けの仕事をしていた。富士通は建前としては孫請けを認めていなかったので、山本の存在はばれていなかったのだが、書類が上に渡ってしまうと会社が調べあげられ、富士通との契約は打ち切られてしまう。公安がやって来ては事務所の大家に「あの会社は過激派で爆弾を造っているというようなめちゃくちゃなデマを言いに来る」ようになり、会社を去らなければならなくなってしまった。そしてこの頃に予備校の仕事を紹介された。

宇宙事業団関連の仕事をするために天体力学を学んだことは後に解析力学の本を書くのに役に立ったし、また同じ頃にカッシーラーの翻訳にも取り組み、廣松の世話になることになる。

その廣松は、山本が保釈された後にこのような言葉をかけていたという。「山本君、あなたは立場上、今後いつまでも注目され、いろんな人からいろんなことを言われ、大変でしょうけれど、ひとつだけお願いしたいのは、評論家のようなものにはならないでください」。
評論家になどなるつもりもなかったしそんな能力もないと思っていたのでその時はピンと来なかったが、「後で、廣松さんのあの忠告は、まともに学問をやりなさいという意味ではなかったのかと、考え直しました」。

山本は評論家と化して軽薄に時評を撒き散らすことはないが、社会的発言を一切慎んでいるのでもない。居直った自己正当化に務めるのでもなければ、反動化して過去を切り捨てたのでもない。厳しい環境にあっても「学問」を続け、また『東大闘争資料集』を完成させるなど、あの時代の記録の保存、継承にも取組んでいる。同時に、「はじめに」で「回顧談のようなものを公にする気にはこれまでなかなかなれなかった」どもしている。

こういった姿から浮かび上がってくるのは山本の真摯さであり、ただ高揚感にうかれて「いい気になっている」だけではなかったことがわかる。そしてこうした姿を見ると、やはり心を動かされてしまうことにもなるのである。

あの時代というのに少しでも関心を持っている人は目を通しておくべき回想であるし、また単なる懐古趣味ではなく、現在について考えるうえでも貴重な証言になっているだろう。


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佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
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