『浅田孝  つくらない建築家、日本初の都市プランナー』

笹原克著 『浅田孝  つくらない建築家、日本初の都市プランナー』




「ところで、浅田孝っていう名前知ってる人はどれくらいいるかな…。名前は知ってるけど、何をした人までかは知らない人が多いみたいだね。それもそのはず、浅田さんは有名になるのが好きではない人でね」。

「序」には師である浅田孝について語る田村明の講演が引用されている。「つくらない建築家」「行動する文明評論家」「大風呂敷の人」「座談の名人」「メタボリズム・グループをつくった人」など様々に評される浅田について、田村はこう語っている。

「たとえば「建築家」というと丹下健三を知らない人はいないだろう。黒川紀章君も知っているね。でも私からすれば、この人たちよりもはるかに偉い人。「天才」だとか、「鬼才」だとかいわれるけど、私にとっては一番「不思議な人」です」。


浅田家は代々高松藩漢方医の家柄であった。孝の父弘太郎は東大医学部を経て松山の赤十字病院に勤務した。孝には弟が二人おり、次男敏雄は医師で東邦大学学長を務め、三男亨は大阪で産婦人科を開業した。この亨の息子が浅田彰である。

孝は兄弟の中で一人医学を学ばず建築の道を選んだ。戦時下に東大工学部を繰り上げ卒業すると海軍に召集され、1945年8月6日は「広島の山奥の戸河内町で海軍専用発電機とダムサイトの防衛の任務で「設営隊長」として駐屯」しており、「窓から狭い谷間のはるかな空の先にゆっくり盛り上がるキノコ雲を見た」。浅田は原爆投下直後の爆心地に救援のために入り、その惨禍を目の当たりにした。「特に晩年の浅田は環境開発センターのスタッフに会うと、必ずといっていいほど広島の話をしていた」そうだ。

戦後大学に戻り、丹下研究室の一員として広島平和記念記公園の三施設の設計にあたる。浅田は「丹下や大谷〔幸夫〕らが不得意とする設計の渉外的作業を担っていた」。浅田は28歳の時に「建築家とモラル」という論考を書き、その中で「建築家は社会の価値観をつくる責任がある」としているが、強い自負をもってこの仕事にあたったようだ。

丹下の代表作ともされる広島平和記念公園や、またやはり評価が高い香川県庁舎にも丹下の共同設計者として浅田の名前がクレジットされている。その他にも瀬戸大橋のプランニングに深く関わるなど、錚々たるプロジェクトに名前を連ねている(「南極の赤鬼」という異名もあるが、これは昭和基地を設計した際につけられた)。当人が「有名になるのが好きではない」にしても、無名でいることの方が難しいような立場にいたにも関わらず、なぜ専門家以外にはその名が広く知られていないのだろうか。

一つには浅田が「在野の人であり続けた」ためだろう。浅田は大学院終了後に特別研究生となっているが、これは将来「講師、助教授、教授につながるポジション」であったが、「浅田はその道を選ばない」。また官僚になることも可能であったがそうはならず、大企業に就職することもなかった。浅田が作った環境開発センターも大きな企業に育てるのではなく、「所員と直接顔を合わせていられる規模の組織環境を求めていた」。

浅田彰は叔父についてこんな発言を残しているという。

「気宇壮大なヴィジョンを語ってやまなかったこのスタイリストは、結局失敗した建築家だったというべきだろう。だが、それは純粋なモダニストの宿命なのではなかったか。モダニズムからの転向者たちがきらびやかな建築をつくり続ける傍らで、あくまで理想のヴィジョンにこだわり、あまりにも厚い現実の壁の前に当然のように敗れ去っていった浅田孝。その軌跡のなかに、私はモダニズムというものの弱さを、そして栄光を見る」。

このような浅田孝の「気宇壮大なヴィジョン」がよく表れているのが、横浜港北区の「こどもの国」に携わったときのエピソードだろう。浅田は「何でもない空地、変哲もない原っぱは、子供の遊び場の最高のものである」という信念のもと原案を作成したが、当然ながらとすべきか、「原っぱ」にするという案はそのまま受け入れられることはなかった。

こういった「 つくらない建築家」としてのみの姿であれば、むしろより伝説化していたかもしれない。しかし浅田は同時に横浜市長となった飛鳥田一雄のもとで都市計画を担い、また美濃部良吉都政にもブレーンとして加わっている。さらにこういった革新首長だけではなく、保守政治家とも人脈があり関係も良好だった。丹下研究室では実務的な作業も担ったように、理想主義者という面だけではないプラグマティスト、実務家という一面がその存在をマイルドなものにし、それも無名性につながったのかもしれない。


浅田は大阪万博にも途中まで参加しており、その時に撮られたものか、岡本太郎とのツーショット写真が収録されている(岡本とは丹下研究室時代から親交があったそうだ)。またイサム・ノグチとの写真もあるが、ノグチの庵治村のアトリエは浅田の仲介によって生まれたのだそうだ。浅田は自身でも故郷の庵治村に事務所を移すことを考えたこともあったようだ。

このように写真も多数収録されているが、正面からの写真では彰とそう似ているようには見えないが、角度によってはやっぱり親戚なんだなと思わせるものもある。

YMOが世界を席巻すると、こちらに書いたように大岡昇平などは坂本龍一というのはあの坂本一亀の息子なのかと驚いたそうだが、当時の若い世代からすると坂本龍一の父親は有名な編集者なのかと、こちらも驚いたのかもしれない。浅田彰が颯爽と登場した時にも、あの浅田孝の甥なのかと感慨にふけった人もいたことだろう。

建築についてはまるで知識のない僕がこの本を手にしたのはもちろん浅田孝が浅田彰の叔父であるからなのだが、そういった視点でいうと興味深かったのがクリストファー・アレグサンダーについてだ。

アレグサンダーは「古くて自然にできあがった都市と人工の都市とを分けて分析し、この両者を区別している秩序の法則や抽象的な構造を見つけ」、「都市はツリーではない」という論考を発表している。「人工的かつ静的に作られた都市」は「ツリー型の構造である」とし、「自然にできあがった活気ある都市」は「セミラティス型の構造である」と分析している。

浅田孝は1968年に「クリストファー・アレグザンダーのシステム論」でこれを高く評価しており、ツリー型とセミラティス型についての直筆スケッチも残されていてこれも収録されているが、68年ごろといえばフランスではまさにドゥルーズが時の人となっていく頃であり、浅田の『構造と力』はドゥルーズ論も含まれている。このアレグザンダーの「ツリー型」と「セミラティス型」はドゥルーズの「ツリー型」と「リゾーム型」も連想させるが(孝のスケッチを見ても、まさに「リゾーム」の説明であるかのようだ)、僕は無知なものでアレグザンダーの影響力というのがどれほどのものなのかは知らないのだが(『千のプラトー』は一応目を通したけど、「読んだ」とはとても言えないうえにずっと前のことなもので)、彰に叔父からの影響というのはあったのだろうか。あるいは孝はドゥルーズを、あるいは甥の文章を読んでいたのだろうか。孝と「メタボリズム・グループ」で一緒だった黒川紀章が翻訳した(ということになっている)ジェイコブズの『アメリカ大都市の生と死』を読んでもわかるように、このあたりは都市論としては常識化していくのであるが、もともと「モダニズム」や「ポストモダン」は建築用語であるように、建築関連からの影響というのは当然強いのであるから、別に叔父がどうこうということは関係ないといわれればそうかもしれないが。


それにしても、孝の孫である浅田真理の文章も収録されているが、こういう家系に生まれることを「うらやましい」と感じる人もいるのかもしれないが、これはこれでさぞ大変なことだろうというのが先立つ。70年代生まれで親戚に浅田彰がいたら、周りからの目というのはかなりしんどかったのではないだろうか。代々医者の家系とか親戚一同法律家ばかりみたいな人がいるけど、そういう家に生まれていたら僕なんかまず耐えられなかっただろう。浅田彰が長らく現在の大学ならありえない妙なポジションにい続けたというのは、一般的には「甘やかされた」とされることが多いのだろうが、あるいは浅田家の重圧みたいなものを彼なりに感じていたがゆえの「逃走」だったりしてね。


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佐藤太郎(仮)

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