『日中全面戦争と海軍  パナイ号事件の真相』

笠原十九司著 『日中全面戦争と海軍  パナイ号事件の真相』



「海軍善玉論」というのを見聞きしたことのある人は多いはずだ。これは敗戦後に海軍幹部が意図的にそのようなイメージ作りに励んだ結果として広まったものとすべきだろう。これは裏を返せば、海軍にそれだけ後ろ暗いところがあったことを自ら告白しているともとれる。

本書はパナイ号事件の真相を追うとともに、その前後の状況を詳述することによって、海軍が日中戦争の全面化にいかなる役割を果たしたのかを明かしている。本書を読めば、海軍善玉論なるものがいかに虚偽と欺瞞に満ちたものかが明確になることだろう。


「海軍中央には、海軍省の枢要ポストを占めていた行政・事務手腕にたけた秀才型のエリート士官で構成する「軍政派」と、軍司令部の中枢を形づくる純武人タイプの猛者で構成される「統帥派」の派閥が伝統的に形成されてきた」。
1920年代末までは「軍政派」が「海軍エスタブリッシュメント」を形成し、ロンドン海軍条約では条約反対の強硬論に染まる「統帥派」を押さえて批准に踏み切った。しかし「統帥派」は加藤寛治を中心に巻き返しをはかり、ロンドン海軍条約に反対する東郷平八郎を後ろ盾に勢力を拡大していき、1932年には「皇族部長」として伏見宮博恭を軍令司令部長につけるなど成果をあげていった。満州事変、5・15事件、2・26事件といった時流にも乗り、反英米感情をつのらせる海軍拡張論者が主導権を握るようになる。

盧溝橋事件からしばらく、政界・陸軍は一応は不拡大方針を取る。しかし「海軍は日中全面戦争を、航空戦力を中心とする海軍軍備の近代化・拡張をすすめる絶好の機会として利用し、米・英・ソの動向にも対抗できる海軍戦略の拡充をめざすことを考えていたのである」。
満州事変以降陸軍の予算は一気に増加した。これにならえとばかりに、海軍は日中戦争を激化させることによって予算獲得を目指した。さらに南京をはじめとする都市に加えた爆撃は、来るべき戦争に備えての研究、演習という面も持っていたのである。

近衛内閣は中国に対しては強圧的姿勢を取りつつも宣戦布告は行わなかった。宣戦布告なき海軍による南京空爆に対し、米英独仏伊はこれに抗議し、国際社会における日本への批判は高まった。しかし海軍はこれを歯牙にもかけず、また新聞は無批判に戦果を称え煽り立てていった。日本は「膺懲」を掲げ、具体的な目的も出口もないままに中国との全面戦争にのめりこんでいくのであった。

もちろんこれは海軍のみの責任ではない。「下克上」の雰囲気に包まれている陸軍の現地軍にとっては望むところと考えた者は多かったし、近衛文麿などの政治家は優柔不断な態度でズルズルと引きずられていき、昭和天皇もブレーキを踏むどころかアクセルをふかせることとなる。そしてメディアは蛮行の数々を一切無視して、文字通りのお祭り騒ぎを繰り広げ火に油を注ぎ続けた。


1842年の南京条約、60年の北京条約により南京等が開港となり、アメリカは長江流域での商業活動の保護を名目に揚子江警備隊を創設した。日本軍が「南京城一番乗り」を競って「膨大な死傷者をだしながらも壮絶な突撃戦を敢行」していた時、揚子江警備隊のパナイ号は、日本軍包囲下の南京に留まって難民救済にあたっていた宣教師やジャーナリストなどのアメリカ市民を保護するためにここに停泊していた。しかし日本軍による爆撃が激しくなり、周辺に爆弾も投下されるようになったことから上流へ移動し、「陸上からの砲弾と、空からの爆弾に追われるようにして、少しずつ南京から遠ざかって」いった。武漢にアメリカ大使館を移動させた後も南京にはジョンソン大使らが残っていたが、日本軍の攻撃により危険が迫ったため南京城内を引き上げ、パナイ号内に臨時の大使館分室を置いていた。その他にもスタンダード石油のタンカーなどが長江にいたため、日本軍にこれらの位置を伝え攻撃しないよう要請した。駐日大使グルーはこの状況を逐次広田弘毅外相に伝え、アメリカ人の生命・財産を攻撃しないよう要請していた。しかしパナイ号の「誤爆」は起こってしまった。さらには爆撃後に機銃掃射も加えられ、パナイ号が沈没するのみならず、アメリカ人に死者も出た。

このパナイ号事件について日本側は一貫して「誤爆」と主張したが、著者は様々な史料を比較検討した結果、「パナイ号撃沈「誤認」の程度は、日本の「通説」にいう中国船と「誤認」したという初歩的なミスではなく、海軍機はアメリカの艦船であることは判別したうえで、中国部隊を輸送、護送中と「誤認」して撃沈した確信犯的なものであった」と結論づけている。これは「アメリカ側からすれば、艦船の星条旗を承知で爆撃したのであるから、アメリカの艦隊に対する「故意爆撃」ということになる」。


パナイ号事件の後の反応は、ある意味では極めて日本らしいものであった。責任者の処分は「対外と海軍内部向けを使い分けたダブルスタンダード」で、外務省はアメリカ国務省に「誤爆」の責任者を免職し、召還したと伝えたが、実際にはこの海軍少将は「栄転」していた。

「米内海相は、アメリカ政府に対して海軍航空隊責任者の譴責処分を実施したと通達する前日、支那方面艦隊に対しては心配無用という「激励」の電報を打っていたのである。その譴責処分というのも、すでに見たように、アメリカ政府と外交上の決着をつけるためのポーズにすぎなかった。海軍中央の対応にも、パナイ号事件が将来の日米関係に重大な影響を及ぼす軍事的過失であったという認識が欠けていた。/いっぽう、陸軍は陸軍で、パナイ号事件に不関与であったことを強調し、責任処理を海軍におしつける姿勢をみせた。もともとは現地陸軍司令部からの要請にもとづいて航空部隊を出撃させたのが原因となって、事件を引きおこすことになった海軍は不満だった。その憤怒の発露が、山本海軍次官の「橋本〔欣五郎〕なんか弾丸にあたらないか」というさきの言葉だった」。

日本はイギリスとアメリカの海軍は分断できるという希望的観測を持っていたが、 橋本欣五郎はパナイ号事件と同日にイギリスの艦船を攻撃するレディバード号事件を起こしており、このことが英米海軍の協調を促進したのであった。また「海軍善玉論」ではしばしば米内光政が美化して語られるが、「海軍善玉論」が何を意図しているかはこの海軍と陸軍の責任のなすりつけあいを見れば明らかだろう。

またメディアの反応とそれが引き起こした謝罪運動もまた日本的なものであった。「南京陥落」に沸き返るなか、パナイ号事件は12月14日の第一報に小さく掲載されるのみだったが、15日には国際問題化していることについて大きく報道するようになった。すると日本では「民間でアメリカに謝罪する運動が自然発生的にはじまった」。早くも15日の午前には「東京の文化学院CSクラブの女学生七人が教師に引率されて麻布のアメリカ大使館を訪れ、グルー大使に面会して事件のお詫びをした」。翌日に新聞各紙はこれを写真入りで大きく報道し、「パネー号お詫び 優しい大和撫子 文化学院生 米大使館へ」「乙女の“純情外交”パネー号事件で真心の訪問 グルー米大使も感激」といった見出しをつけた。しかしこれはグルーをひどく不快にさせていた。グルーが一緒に写真に収まることを拒否したため、学生だけが大使館前で写真を撮り大きく報道されたことは、「お詫びの気持ちよりは、報道されたいがために訪れたのだと私には思われた」と日記に書いている。

この後パナイ号撃沈への謝罪運動が繰り広げられるが、その一翼を担ったのが学校関係者であり、「女学生や幼稚園児、小学生がわずかな小遣いを出し合って見舞金を集め、お詫びの手紙をそえて米大使館、海軍省、外務省、新聞社を訪れて寄託」した。新聞では心を痛めた幼稚園児などが自発的に行ったとされたが、「じっさいには園長・校長・教師がこどもを動かしたものであろう」。また女性・婦人団体も積極的にこれに関わった。「謝罪運動に参加した人たちの善意は別として、「女性と子供が謝れば相手の気持ちも和らぎ、容易に許してもらえる」といった、日本人社会の論理がアメリカ政府や国民にも通じると甘く考えていたことも事実だろう」。

その他にも海軍省や親米団体、学術・文化・産業界の有識者が謝罪運動を担った。有識者の訪問にはグルーも感激したことを日記に書いており、民間外交としては一切効果がなかったとまではいえないだろうが、しかし謝罪運動が繰り広げられる一方で真相究明や再発防止、あるいは日本の軍事行動が国際社会からどのように見られているかといった観点での報道や議論は行われなかった。

その後日本ではアメリカが「誤爆」であることを受け入れ、これにて一件落着、「円満解決」したという形で報道がなされた。12月27日の読売新聞は「可憐な真心は通じて」「その純情に泣かされた」との見出しをつけている。
しかし「クリスチャン・サイエンス・モニター」紙が「日本は喜ばしげにパナイ号事件が終結したといっている」ことを批判する社説を掲載したように、アメリカでは日本への不信感はむしろつのっていったのであった。

日本ではパナイ号を「パネー号」と誤記する例が多数あるように、このパナイ号事件を重大事件と考えられてはいない節がある。しかしグルーは日本との断交や日米開戦の可能性まで考えるほど深刻な事態として受け止め、またアメリカでは南京虐殺の報と合わせて日本の暴走が認識された。「REMENMBER The PANAY!」というポスターが掲げられ、日本製品のボイコットが呼びかけられる大きな要因ともなった。

グルーがアメリカ政府の最終回答文書を手渡すと、広田外相は涙を浮かべて感謝した。しかしグルーは暗い気持ちを日記に書いている。
「日米戦争の危機は本当の危険として存在する。それは、日本国民のだれ一人として政府とは異なる軍部の無責任さに気づいていないためである。そのため将来の予測ができない。私は外務省の建物を後にしながら、パナイ号事件の決着という我々の満足は、一時的にすぎないことを知りすぎるほど知っていた。そして私がこの五年間に築きあげようとしてきた日米関係の強固な楼閣も、瓦解して相互不信の瓦礫と化すであろうことも」。

「北支事変」後、目論見通り海軍は「国民の重たい軍事費負担によって、念願の海軍軍備拡張、なかでも航空兵力の拡充を実現させた」。当時外務省東亜局長であった石射猪太郎は日記に「海軍は今度の事変を機にうまくやっているらしい」と書いている。
本書では石射の、近衛や広田、軍部への歯に衣着せぬ評価を書いた日記が数多く引用されている。石射は1937年9月にこう書いている。「米国の一新聞いわく、日本は何のために戦争をしているのか自分でもわからないであろうと。そのとおり、外字新聞を見ねば日本の姿がワカラヌ時代だ」。

グルーの予感通り、日本はアメリカとの戦争へなだれこんでいくことになる。「パナイ号に致命的な第一弾を投下した村田重治大尉は、四年後の一九四一年一二月八日、少佐に昇官して雷撃(魚雷攻撃)隊総指揮官となり、自らも九七式三号艦上攻撃機を操縦して真珠湾攻撃に参加、最新型戦艦ウェストヴァージニアに魚雷攻撃を行」うことになるのである。


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佐藤太郎(仮)

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