『海軍の日中戦争  アジア太平洋戦争への自滅のシナリオ』

笠原十九司著 『海軍の日中戦争  アジア太平洋戦争への自滅のシナリオ』




「パナイ号事件」を中心に「海軍善玉論」の実態を明らかにした『日中全面戦争と海軍』をさらに進め、1920年代から英米との戦争に突入するまでの海軍の「自滅のシナリオ」が扱われている。

「はじめに」で、「海軍反省会」と題された座談会から豊田隈雄の証言が引用されている。豊田は「陸軍は暴力犯。海軍は知能犯。いずれも陸海軍あるを知って国あるを忘れていた。敗戦の責任は五分五分である」と語っている。

「知能犯」の中には豊田自身も含まれるべきであろう。豊田は日独伊三国同盟が締結された直後に駐独日本大使館付武官補佐官として敗戦まで勤務し、「太平洋戦争中、ドイツに駐在して連合国との戦闘や作戦に参加していないことで戦犯として起訴される恐れがないことから、日本の敗戦直後に、海軍の極東軍事裁判(東京裁判)対策の中心となった」。

東京裁判において嶋田繁太郎の極刑を回避するために、口裏あわせや証拠隠滅を行い海軍上層部の責任が追求されないよう図り(「上を守って下を切った」とされるように、捕虜の殺害などを現場の独断であるかのように見せかけることで、「BC級戦犯裁判による海軍の将校・下士官の死刑者は二〇〇名であったのに対し、艦隊司令官以上の死刑はゼロであった」)、米内光政とマッカーサーとの「談合」により東条英機ら陸軍に全責任を負わせることに成功し、メディアなどを使って「海軍善玉論」を作り上げた。その中心的役割を果たした一人が豊田だった。


1920年代前半から海軍は国際協調を重視する勢力と、ワシントン会議において主力艦・空母の保有量の対米七割という主張が通らなかったことを恨み、巻き返しを図る勢力との二つの立場に割れていた。後者はワシントン会議で世論を味方に引き入れることがでいなかったという「教訓」から、ロンドン軍縮会議を控えて言論機関や実業界などへ働きかけを積極的に行い、「対米七割の維持は絶対に譲れない、という異常なまでの世論固め」を行った。

「海軍善玉論」において米内などと並んで英雄視されることが多い山本五十六はロンドン会議の次席随行員を務めていた。『両大戦下の日米関係』(麻田貞雄著)によると、山本は「条約派」と見なされてきたが、実態は若槻などの全権を「はげしく突き上げ」、「日本の主張が認められない場合は」、「不祥事を惹起する」と「不気味な警告」を発するなど、「下克上的な強硬発言」を行っていた。
このように海軍の「自滅」の先鞭をつけた一人が山本であった。また下野していた政友会は「統帥権干犯問題」を持ち出して浜口内閣を攻撃したが、これは政党政治にとっても「自滅」であった。こうして日本は自滅の坂を転がり落ちていく。

「満州事変」後に陸軍の予算が一気に増加したことから、海軍も機会を窺っていた。盧溝橋事件以降日中が全面戦争に突入していく状況は渡りに船だったどころか、全面戦争へと引きずり込んでいったのが他ならぬ海軍であった。その渦中に起こったのが「大山事件」である。著者は『日中全面戦争と海軍』において「あたかも和平工作を粉砕するための謀略であるかのように大山事件が発生した」としていたが、その後発掘された資料や証言から、本書においてこれを一歩進め、海軍による謀略であったと結論づけている。死亡した大山注意は「お国のために死んでくれ、家族のことは面倒見るから」と「密命」を受け、あえて丸腰で殺害されたのだとしている。この著者の主張の妥当性について評価する能力は僕にはないが、「トラウトマン工作」の打ち切りなど海軍が主導的な役割をはたして日中戦争を拡大させていったことは確かとすべきだろう。

予算獲得と並んで海軍のもう一つの目的が、来るべきアメリカとの戦争への備えであった。航空経力・兵員の拡充を図るとともに、重慶などへの執拗な空爆、あるいは「援蒋ルート」の遮断を名目とした鉄道などへの爆撃は、新しい戦争の形である航空戦への実戦訓練でもあった。

それにしても理解し難いのは、資源の大部分をアメリカからの輸入に頼りながらアメリカを第一の仮想敵国とし、実際にアメリカとの戦争に転がり込んでいったことである。やはり「海軍反省会」において高田利種は、「南部仏印進駐で、あんなにアメリカが怒るとは思っていなかった」としているが、この結果在米日本資産の凍結と対日石油全面禁止ということになる。極度の自己中心的考えがこびりつき、根拠のない楽観主義に支配されたことで、まともな情勢判断ができなくなっていたのは陸軍だけの話ではない。

盧溝橋事件後、石原莞爾は不拡大方針であったが、拡大を試みる勢力から石原が中心的役割を果たした「満州事変」を持ち出されて反論できなかったというのは、歴史の皮肉というよりも底なしの愚かさの表れとでもすべきだろうが、このような「下克上」は陸軍のみならず海軍も支配していた。
真珠湾攻撃で第一空艦隊の空中攻撃隊の総隊長を務めた淵田美津雄は戦後に、「二十六日に出発したときは、司令部の方では戦争がはじまるかどうかが、まだ分からない状態だったらしいが、われわれとしては百パーセント戦争だと思っておったね。あのとき戦争はやめだといって引き返したら、長官を海にでも放りこんでやろうかと……」と語っている。

「これまで、対米決戦にそなえて猛烈な訓練を重ねてきた海軍各部隊の将兵たちの戦意は非常な高まりを見せ、その勢いは、日米戦争反対者も少なくなかった海軍中央にはもはや制御不可能になっていた。もともと日米戦争には反対であった山本五十六連合艦隊司令長官もその勢いに乗る以外に術がなく、海軍の最高指揮官として「自滅のシナリオ」の道を突きすすんだのである」。
山本もこの好戦的空気を作り上げた張本人の一人であったことは既に述べた。


本書を読んでいて憂鬱にさせられたことの一つは当時の新聞報道である。大山事件発生直後の読売新聞1937年8月11日の夕刊には、「冷静な我陸戦隊」「支那自らが危局を招」(本書に載っている写真はここで切れているが、「招く」か)と見出しがつけられている。近年でも中国や韓国との摩擦や、あるいは捕鯨問題などでも、「冷静に対応する日本、それに対し……」という紋切り型は依然として右派系のみならず少なからぬメディアで用いられているが(おそらくは外務省がブリーフィングや記者レクでこういった方向へ誘導しているのだろう)、こういった過去と照らし合わせると、本質的な部分で日本という社会に本当に変化があったのだろうかという疑念を抱かざるをえない。

本書ではやはり海軍が中心となった海南島占領についても一章が割かれている。これについてフランス、アメリカが懸念を示すと、1939年2月に日本は軍事的野心はないと回答した。しかし同年3月には、フランス大使を外務省に呼ぶと、「三九年三月三〇日付けで南シナ海に浮かぶ約一〇〇の小さな珊瑚礁の島々からなる南沙群島(スプラリー諸島)が日本の領土であることを宣言し、台湾総督府の管轄に編入したことを通告した」。

このあたりの地域が領有権問題を抱えているというのは昔からのことであるのだが、とりわけ日本においては、日本のこういった歴史的経緯もふまえなければならないはずだが、主要メディアにおいてこういった視点が完全に抜け落ちているというのも、戦後の日本が依然として「大日本帝国」と地続きであることを表しているかのようでもある。



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