東京都青少年健全育成条例について思ういくつかのこと

○△を擁護する際にやりがちな駄目なことというのが、「もっとも私は○△ではないがね」と付け加えることだ。
例えば同性愛者の人権を守れ、と言った後にまあ私は同性愛者ではないんだが、とやってしまう。
もちろんこれは自分はそうは見られたくないという偏見の告白となってしまっている。

これはネット上によくあるものでソース不明なのだが、キアヌ・リーブスが「君はゲイやバイセクシャルなのではないかという噂があるが」と訊かれると「僕がその噂を否定するのは簡単だ。けれどそんなことをすれば僕はゲイやバイセクシャルの人間であると思われたくないということになるだろう?それはひとつの差別意識の表れだよね」と答えたという。

まったくもってキアヌは正しい!のだけれど、僕は今回あえてこう書く。
僕はオタクではないのになぜ東京都青少年健全育成条例の問題がこうも引っかかるのだろうか。

ウロ覚えなので間違ってたら申し訳ないが、斉藤環氏は『戦闘美少女の精神分析』で「オタクか否かを分けるのは二次元でヌけるかどうか」というような趣旨のことを書いていたように思う。
とりあえずこの分類を妥当だとすると、僕は二次元ではヌけない。というかヌこうという発想自体を抱いたことがない。
僕は漫画雑誌を買う習慣がなく、読むのは単行本になってからで、それもリアルタイムで読んでいたのは『ジョジョの奇妙な冒険』の6部あたりが最後だったような気がする。
アニメにしても、『エヴァンゲリオン』が流行ったときに見てみるか、と思ったものの最後まで見通すことができず、自分の中に小さなころにはあったであろうアニメへの耐性というものが失われてしまっていることを発見したような人間である(ちなみに小生は78年生まれです)。今ではアニメとは90年前後までのノスタルジーを楽しむものという感じとなっている。

ではなぜ例の条例というものが引っかかるのか。
これは簡単なことで、この問題の本質は漫画やアニメとはあまり関係がないということなのだろう。
最後に控えるは「表現の自由」なのであるが、これはそれ以外にもいろいろ考察する余地がありそうである。。
以下とりとめなく思いつくことを書いてみたい。

そもそもこの条例はいったいどこから出てきたのだろう。
僕の記憶が間違っているのかもしれないが、最初これはいわゆる「児童ポルノ」との関係からだったような気がする。
「被害者がいる実写のポルノと被害者のいない二次元とを一緒にするな」というような反応をよく見かけたような。
それが「子どもを児童ポルノから守れ」からいつの間にか「子どもにポルノを見せるな」へと変質してしまっている。
おそらくこれは推進派の意図的なミスリードなのだろう。
もう少しここに留まるのなら、「子どもの人権を守れ」と言う人たちはなぜ石原慎太郎都知事の数々の人権侵害発言に抗議しないのだろうか。

このような条例が東京で出てきたのは偶然のことではない。
ご存知のように石原知事は霊友会はじめいくつかの宗教団体の支援を受けて政治キャリアを重ねてきた。
この条例には公明党も熱心であるようだが、基本的に政治に積極的にかかわる宗教団体の多くは道徳的に保守的な主張をするところが多い。
そして、さらに石原都政は警察官僚の影響が極めて強いこともよく知られている。

この条例の背景には保守票だけでなく宗教票(多くの場合両者は重なるのだが)、そして警察関係のいわゆる治安利権が深くからんでいるのだろう。

曖昧な法律、条令などを作り、それを恣意的に運用する(あるいは運用するかのように見せかける)というのは権益を拡大したいお役人の常套手段である。
ああしてほしくなければわかっているだろう、ということである。
例えば今回の条例が通れば、業者や業界団体は直接に警察や都の職員の天下りを受け入れるようになるかもしれない。
おおいにありそうなのは自主規制団体などを作らせ、そこに天下りが入り込むということである。
役人とはこんなものである。
では、普段「公務員叩き」にご執心な方々はなぜこの問題にだんまりなのであろうか。
あまりにあからさまなやり口ではないか。
要するに彼らは自分の得にならないことには興味がないということなのだろう。
治安利権のたちの悪さは、世の中のほぼ全ての人間が治安の悪化など望んでいないことにつけこんで、そこに切り込むような人間は治安の敵だとレッテルを張り、反対しにくくさせることだ。
今回でいえば、小学生がポルノ漫画を読むことに積極的に賛成な人間などほぼゼロであろう。そして規制反対派は自分の快楽のために子どもを危険にさらす連中であるかのように印象操作する。
こういうことに政治家は非常に弱い。

まあこのようにおかしなことだらけでわかりやすいウラがあるにもかかわらず、それがマスメディアによってほとんどまともに取り上げられないというのが一番の怒りのポイントなのかもしれない。
石原知事の同性愛者や性的マイノリティーにかんする数々の差別発言はもちろん許しがたいのだけれど、それがほとんど問題とならないことのほうに大きな不安感を覚える。

この条例を成立へと動かすものは、利権と自分の利害と直接関係のないものごとへの無関心である。

加えてもう少し深く考えてみたい。

この問題の本質にあるのは、まず第一に差別心があげられる。
石原慎太郎やその周辺の人物のさまざまなマイノリティーへの差別。
さらには漫画やアニメ、正確にいうならその消費者への差別。
これまた有名な話であるが石原慎太郎著『完全なる遊戯』は内容を紹介するのもはばかられるほどのものである。
石原はなぜ率先して自らの本を規制にかけないのか。まるで合理的な説明などない。もちろん合理的説明などできようもないのだ。
石原慎太郎の小説を中学生が読むということはほとんどないだろうが、村上春樹の『海辺のカフカ』はどうだ。近親相姦を連想させる描写がある。自らの著書を絶版にし、『海辺のカフカ』を18禁にしろとでも主張すればある意味筋は通っているのだが。
差別主義者に筋の通った説明を求めるほうが無理な相談なのであろうが。

第二に、これは広くとれば「頭の中には立ち入らない」という原則への挑戦である。
今回とりわけ不快なのが、ある表現について道徳を持ち出しそれを根拠とすることである。
これは他人の頭の中へ立ち入るのと同じことではないか。
人はなにを考えようが自由である。
たとえそれが殺人であろうが近親相姦であろうがレイプであろうが。
いくらけしからんことであっても、それが権力によって規制されるのは、実際に行動に移した時である(予備的な行動をどこから取り締まるべきかはとりあえずここでは問わない)。
なぜ頭の中には立ち入らないという原則があるのかというと、これを認めれば最早なんでもありの世界となってしまうからである。
精神分析では、あなたがそれを否定すれば、それは認めた証拠である。
もちろん精神分析が気に食わなければ無視すればいい。
しかし権力相手ではそうはいかない。
お前の考えていいることは反社会的で非道徳的なことだと権力が認定したなら、それに抗うことはできないのである。

おそらく、この問題の大多数を占める無関心派の人々はこういう物言いを何を大袈裟な、という反応をすることであろう。
しかしこういう人は気付いていないのだ。権力というものは何をしでかすかわからないもので、暴走し始めると押しとどめることはできない。
近代とは、その危険な権力の暴走を思想や制度によっていかに防ぐかの戦いの歴史でもある。
そのわかりやすい例が人権と憲法であろう。

さて、ここまで長くなってしまったが、この条例をめぐって何がこうもひっかかるのか。
それは権力とはどういうもので、いかにそれを抑制するのかということにたいして、ひどく苦い経験をしたはずの国の人々が、まるで鈍感になっているということにあるのだろう。


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佐藤太郎(仮)

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