『芥川龍之介とその時代』

芥川龍之介、久米正雄、松岡譲らは夏目漱石最晩年の弟子であった。『芥川龍之介とその時代』(関口安義著)には漱石の死後に起こった『破船』事件に触れられている。




「センセイキトク」という電報を受け取ったものの、芥川は横須賀の海軍機関学校に就職したばかりで雑事がたまっていたせいか、上京して漱石山房に顔を出すことができたのは漱石の死の二日後のことだった。一方漱石没後に「宿直」と称して漱石山房に詰めていた久米は、漱石の死のわずか三ヵ月後に、漱石夫人鏡子に長女筆子を妻に迎えたいと打ち明け、筆子にも直接プロポーズを行った。鏡子は久米の迫力に気圧されたのか、夏目家に男手の必要性を感じたためか、これを受け入れ筆子にもこの申し込みをよく考えるよう諭す。

これに不快感を抱いたのが小宮豊隆、安倍能成、森田草平ら古参の弟子たちであった。彼らにとって久米は「軽佻浮薄な男」であった。この一年後に出た記事によると、「久米の様な後輩が夏目家の株を奪ふのは不快だ」と言ったとされている。ならば誰ならふさわしいのか。ここで芥川の名が挙がった。漱石に絶賛されて文壇に鮮烈なデビューを飾った芥川ならいいではないか、という声出たのだった。もっとも芥川はこの時すでに文と婚約していたのだから、こんなところで名前を出されたところでいい迷惑であったことだろう。結局この件は筆子が松岡に好意を持っていることが明かされ、松岡もこの告白を受け入れたことで一件落着した……のかといえば、そうではなかった。

久米はこの体験を元に『破船』をはじめとして次々と小説を書いていき、これが「事実小説」と喧伝され人気作家となる。寺に生まれ、入寺問題で父と対立し苦悩していた松岡にはさらなる困難が押し寄せることとなった。筆子と結婚することは親友が恋した人を奪うことであり、女性とまだ幼い子どもたちばかりの夏目家を切り盛りしていかなくてはならなくなるということでもあり、さらにはうるさ型の先輩たちとの関係もやっかいだ。久米はといえば「友情の名において恋人を譲る」と言い出したり、筆子の妹か漱石の兄の娘との縁をもってくれと哀願してくる始末である。松岡は久米が「自分の面目体裁といふやうな利己主義のみが押し合いへし合つて」いると判断し、「断固友と手を切る決意をする」。松岡は創作の筆も折り、十年間沈黙することを自らに課した。

一方久米は松岡の沈黙をいいことに、彼が文壇的抹殺を試みたかのように書き松岡を悪人に仕立て上げたり、あたかも自分と筆子とが正式に婚約していたかのような小説を書き、鏡子を激怒させている。

板ばさみになったのは芥川である。久米も松岡も一校時代からの親しい友人であった。「芥川はもともと久米と筆子との縁談の成立を望んでいな」かった。うまくいかなかったのは「やつぱり自然に背いた罰だと思ふ」としており、久米の小説について「愚だけに腹が立つ」と松岡への手紙に書いている。久米が夏目家への出入りを禁じられると「あれはああなるのが自然の意志だといふ気がする」とやはり松岡に宛てて書いている。同時に芥川の横須賀の下宿にまで現れて愚痴をこぼす久米に対する同情心も湧いてきて、婚約者の文には「久米は可哀さうです」とも書いている。
芥川は「久米の愚かながら純情な一面を理解」し、また「重厚で哲学者的側面をもつ松岡の存在も尊重していた」。芥川は松岡に宛てて「僕は今度の事件で或いは一番深い経験をしているのは久米よりも寧君ぢやないかと思つてゐる」と書いている。

そしてまた、「時々不良の女みたいな女流作家や作家志望者に遇ふとしみじみ文ちやんがあんなんでなくつてよかつたと思ひます」と文に手紙を書き、妹のような許婚を愛おしく思うのであった(ちなみに二人が始めて出会ったのは、芥川16歳、文8歳の時であった)。


漱石は『それから』や『こころ』に代表されるように、三角関係を執拗に書き続けた作家であったが、まさか自分の死後に娘をめぐってこんな騒動が持ち上がるとは思ってもみなかったことだろう。もっとも久米のやったことは筆子の気持ちを完全に無視した独り相撲の暴走なので、三角関係とすら呼べないものだとすべきかもしれないが。
久米は戦時中にかなり醜悪な行動を取ることになるので、筆子が松岡を選んだのは慧眼とすべきだろうが、もし古参の弟子たちが望んだように芥川と結婚していたらどうなっていたのだろうかという想像もついしてしまう。


漱石は幼少期に塩原家に養子に出されるが、その後籍は残したまま夏目家に戻ることになり、最終的に夏目に復籍するものの、自伝的小説『道草』に書かれるように、ゴタゴタは長く続くことになる。龍之介は実母の発狂によって母の実家の芥川家で育てられることになり、その後正式に養子に迎えられている。漱石は夏目家にあっても自分を余計者のように感じたことだろうし、これはトラウマ的体験であったことだろう。芥川は子どものなかった養父母や生涯独身であった伯母に溺愛といっていいほどの扱いを受けて育つ。一方で母の妹が龍之介の父の子を身ごもる(当時としては驚くようなことではなかったのかもしれないが、現在から見るとやはり少々ぎょっとしてしまう関係でもある)など、生家の新原家と芥川家の縁は切れたわけではなかった。龍之介は母とも顔を合わせ続け、回復することのなかった母から頭をポカリとやられたりもしている。トラウマに大小をつける必要もないが、澱としてたまっていったものでは漱石のそれとの比ではないかもしれない。

芥川家は経済的には没落していき新原家に依存していったが、また新原家も次第に困窮していき、芥川の死の頃には年老いた養父母や伯母、自分の妻子に加え、姉の夫が弁護士資格停止中に起こった自宅火災が保険金目当ての放火と疑われたことに抗議するとして自殺したことにより、姉一家の面倒まで見なくてはならなくなる。
さすがに芥川の最後を漱石が予見することはできなかっただろうが、芥川の生い立ちについて漱石がどの程度知っていたのだろうか。


漱石と芥川の間にはさらにいくつか共通点がある。二人とも英語教師の経験があった。東大卒業後漱石が教壇に立った頃は自分が職業作家になるなどということは想像だにしなかっただろうし、自身に教師としての適正が欠けていると思いつつも、こちらに書いたように熱心にこの職をこなした。一方芥川はといえば、東大卒業後に海軍機関学校で英語教師を務めるが、あくまで糊口をしのぐためであった。英語教師芥川龍之介については、1918年に「文士の生活振り」としてこんな記事があったそうだ。

「第一時間目の授業は英文の講読。芥川氏は歯切れの好い発音ですらすらと、自然なアクセントで読んで、さて講義にかゝる。時々芸術的な訳方をしたり、拙訳と巧訳との例を対照して、全く生徒をチャームしてしまふ。休みの時間には文学好きな生徒に取巻かれて、芸術談をやる。二時間目には和文英訳。ふと昨夜の夢の事が気にかゝり出す。そして、英語のセンテンスを間違へる。でも生徒はその通りに覚えてしまふ」。

また芥川の没後三十年ほど後の回想では、芥川はいきなり教科書を開かせるのではなく、まず五分ほど雑談をして生徒の興味をひきつけてから授業を始めていたようだ。ポーやツルゲーネフ(当然英訳であろう)を教科書に用い、「授業は大変熱意があって、内容も面白く有益なもの」とされている。芥川自身による自伝的作品「保吉の手帳から」には、「教科書には学校の性質上、海上用語が沢山出て来る」ために「教室へ出る前に、必ず教科書の下調べをした」とある。
「自己に適した仕事ではなかったかも知れないが、とにかく若き日の芥川龍之介は精いっぱい教育に立ち向かっていたのである」。

ストレスをためつつも授業には熱心で生徒にも好評であったが、時おり創作のことが気にかかるのか集中力に欠けることもあった、といった感じだろうか。慶応大学への移籍話はうまく進まなかったものの、変わりに毎日新聞への就職が決まり、最後の授業を終えると教科書など一切合財を焼き払ったというのは有名なエピソードである。彼なりの誠実さで全力を尽くしたとはいえ、やはり芥川にとって英語教師という職は耐え難いものであったのだろう。『英語教師 夏目漱石』という本が書かれているが、『英語教師 芥川龍之介』という本は残念ながら書けそうにない。


芥川は関東大震災については様々な文章を書いているが、文は『追想 芥川龍之介』でこのような回想をしている。
いつもはお昼に息子が「とうちゃん、まんま」と呼ぶのが習慣であったが、この日は芥川は一人だけ先に食べ終えていて、お茶碗にはすでにお茶がついであった。そしてぐらりと来ると「地震だ、早く外に出るように」と言って門の方に走り出した。文は二階に次男が寝ていたのでとっさに駆け上がり、子どもを抱えて階段を降りようとしたが建具が倒れるなどして階段がふさがれてしまった。気ばかりあせる中なんとか外へ逃れると、舅が長男を抱いて外へ逃げてきた。文は芥川に「赤ん坊が寝ているのを知っていて、自分ばかり逃げるとは、どんな考えですか」とひどく怒ると、芥川は「人間最後になると自分のことしか考えないものだ」とひっそりと言ったという。

このエピソードは世界的にも有名で、映画『フレンチアルプスで起きたこと』の元ネタとなった……ということではもちろんなく、こういう話というのはどこにおいてもありふれているということなのだろう。


関東大震災は火災によって大きな被害を出したが、大学図書館の貴重な資料も多数失われた。これについて芥川は、「大学が古書を高閣に束ねるばかりで古書の覆刻を盛んにしなかつたのも宜敷くない」とし、覆刻して広く一般に公開せず囲い込んで、その結果灰燼に帰さしめてしまった学者を批判している。
山本義隆の『私の1960年代』には丸山真男をめぐるあるエピソードについて触れられている。1960年代後半、丸山は一部の学生が研究室を荒らすようになったため、病弱であったにも関わらず研究室に泊まり込んで貴重な資料が破壊されないよう守り、体調を崩すことになる。これは美談として語られているが、そんなに貴重な資料ならばきちんと覆刻して一般に公開すればいいではないか、なぜ一部の研究者しかアクセスできないような状態にしているのか、そちらの方が問題であったのではないかと、山本は疑問を呈している。山本のこれを読むまでは僕も「美談」としか思っていなかったのだが、言われてみれば確かにそうでもある。このあたりの山本の問題意識はここでの芥川と共通するものがあるだろう。


芥川は内気で人見知りで神経質なところがあったとはいえ、英語教師芥川についてユーモラスな記事があるように、快活で社交的なところもあり、若い頃は病的であったり、狂気の兆候を感じさせるようなエピソードはない。つまり関東大震災の後の二十代後半から、心身の健康がおそるべきスピードで失われていったということである。

芥川は中国への長期旅行の後、食べなれない油っこい食事が災いしたのか胃腸の不調に苦しむようになる。さらに「神経衰弱」からくる不眠、そして痔にも悩まされ、大量の薬を摂取するようになる。「歯車」のような作品は、まさに狂気を描いたものなのか、あるいは肉体的な病を描いたものなのか、あるいは薬の副作用による幻覚の影響であったのかは医師などによっても様々な解釈があるようだが、とりわけ睡眠薬に依存せざるをえない状況が心身に大きな負担をかけたことは間違いない。

僕が十代の頃、思春期にありがちなというべきか、「狂気」をロマンティサイズするようなところがあった。「狂う」ことに対するある種の憧憬と恐怖とがまとわりついていたが、そういう人間にとって最後の一年ほどに生み出された芥川の作品はあまりに生々しすぎた。それだけに、芥川の最期というのは必然であり、避け難い運命づけられた悲劇のようにも思ってしまっていたのだが、今こうして芥川の年齢を越えて彼の最期の日々について書かれたものを読むと、何とかならなかったものか、何とかできたのではないかという気にもなってくる。

すでに書いたように芥川は経済的にも追い詰められていき(死の間際の異様なまでの創作欲は、金銭上の都合から来るという面もあった)、睡眠薬の過剰摂取や肉体的な衰えは周囲の目にも明らかであり、また女性関係にも神経をすり減らした。芥川は自殺を実行する以前にも何度か自殺未遂を起こしているが、言葉を換えればこれはSOSを発していたということでもある。著者は、芥川の死の少し前に九州大学に招聘されるという計画があったらしいことに触れ、これを承諾していたら芥川の人生も変わっていたかもしれないとしている。また友人からはヨーロッパ行きを強く勧められ、芥川も前向きでもあったが、結局はこれも実現しなかった。年老いていく養父母、さらには、とりわけ彼を溺愛した伯母を置いていくことは、芥川にはできない相談であった。芥川は老人たちとの共同生活に「ヒステリー」を起こすこともあったが、「人間最後になると自分のことしか考えないものだ」とうそぶきながら、徹底してエゴイストになることはできず、その結果として、怯えていた母の狂気をなぞることを自ら進んで引き入れようとしたかのようにも思えてしまう。

文をはじめ周囲の人間は、芥川が危機的な状況にあることをわかりつつもどうすることもできなかったのだが、あの状況にまで追いつめられた人間をどうすれば救えるのかといわれても答えはないのかもしれない。死を決意したであろう後、形見分けをするかのように友人たちに物を配り、狂気に陥った友人のその後に気を配るなど、親切を尽くした姿を見せられると、芥川を襲ったものが精神医学的な意味での「狂気」とは違ったものであったのではないかという気にもなってくる。
それだけに 、芥川の最期の日々について考えると、何とかならなかったものかという気持ちになるとともに、どうすることもできなかったのだろうという絶望感と諦念とが交差することになる。


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佐藤太郎(仮)

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