『評伝 松岡譲』

芥川龍之介とその時代』には夏目漱石の没後の長女筆子の結婚をめぐって起きた『破船』事件が取り上げられていたが、同じ著者による当事者の伝記、『評伝 松岡譲』には、晩年の譲や筆子から直接聞いた話もふまえ、この件についてより詳しく触れられている。



まずは著者が「不遇な作家」と呼ぶ松岡の歩みを追ってみよう。
松岡善譲は新潟県長岡市の松岡山本覚寺の長男として生まれる。跡取り息子として厳しく育てられるが、父とは激しく対立するようになる。これは単に父子の葛藤を越え、寺や僧に対する疑念になっていく。因習にまみれ、惰性に流され、信仰をないがしろにして金銭にあくせくする寺や僧の姿は、松岡には受け容れ難いものだった。ついには「善譲」といういかにも坊主然とした名前を「譲」と改名するにまでいたる。

長岡中学の卒業を控え、松岡家には跡取り息子に京都の宗門学校に進んでほしいという意向があったが、譲は高校への進学を希望する。意外なことに、父はどうしても高校に行きたいのなら一高を受験せよと命じる。譲は寺のこともやらなければならなかったという事情もあってか、中学の成績は平凡なもので、周囲は無謀なことだといぶかしんだ。あるいは父は、受験に失敗すれば諦めがつくだろうと考えたのかもしれない。中学卒業を控え、碁仲間であった中学の老書記に願書提出などを依頼していたが、この人物がなんと締切日を失念するという失態を犯したため譲は浪人生活を送ることになる。これ以降譲は碁石を握らないと決心したそうである。

同じ中学の堀口大學と東京で猛勉強を重ね、翌年見事一高に合格する。堀口の方は二度受験に失敗して結局慶応に進むことになるように、最難関の一高はハードルが非常に高いのであるが、中学時代は平凡な成績だった譲が合格できたというのは、彼の努力を惜しまない粘り強い精神力を表すものだろう。一方で父子の緊張がこれで解けたわけではなく、後に譲は精神的不調から休学しなければならない状態にまで追い込まれることにもなる。

一高では芥川龍之介、菊池寛、山本有三らと出会うことになり、わけても久米正雄とは親友となる。譲と久米は「合惚れの夫婦のよう」とまで呼ばれるようになる。東大進学後、芥川、久米らと「新思潮」を発行し、ついに漱石に紹介され、最晩年の弟子として木曜会に参加する。

芥川らは一足早く社会に出たため漱石邸からは足が遠のくようになるが、休学があったため卒業が遅れていた譲は足しげく通い、「越後の哲学者」というニックネームまで頂戴する。
漱石臨終の時、譲は漱石邸につめていたが、「時事新報」の記者になっていた菊池寛が夏目家とあまり親しくなかったことから邸内に入ることができなかったため、外にいる菊地に中の様子を伝えにいっている間に漱石は亡くなってしまった。譲はこのことを生涯悔やむことになる。

翌年、主任教授の桑木厳翼から提出をうながされ、譲はうっちゃっていた卒論にとりかかる。哲学科であったが、桑木は文学関連でも構わないとしてくれたものの、譲は以前からなじんでいたプラグマティズムをテーマに選び完成させる。著者は触れていないが、漱石がウィリアム・ジェイムスを読み込んでいたことは有名であり、このあたりの関係もあったのかもしれない。

大学を卒業するということは実家との関係に再び向き合わなくてはならないということでもある。譲は帰郷すると寺を継ぐことを拒み(改名はこの時に行う)、地元に残ってくれという父母を振り切って再度上京する。留学中だった親友成瀬正一の実家にやっかいになるつもりであったが、漱石夫人鏡子の勧めで、子どもたちの家庭教師という名目で夏目家に寄寓することになり、『破船』事件が起こる。


漱石没後も何かと理由をつけて夏目家に出入りしていた久米は、鏡子に長女筆子と結婚したいと申し入れ、鏡子もこれを拒まずに、筆子によく考えておくよう言い含める。久米はあたかも婚約者になったかのごとく振る舞い、後にそのように小説に書くようになる。そして自らを、親友であった譲に婚約者を奪われた悲劇の主人公へと仕立て上げていくのである。

そもそも筆子は当初から松岡に好意を抱いていた。ではなぜ最初に断らなかったのかといえば、それは家庭の事情だった。筆子は後に著者に、久米からの申し入れがあった時に母に松岡に好意を持っていることを伝えたと語っている。しかしまだ弟妹は幼い。夏目家は男手を必要とした。鏡子は寺の長男である譲を迎え入れることはできないと、筆子を諭したという。

ここで別の横槍が入る。小宮豊隆ら漱石古参の弟子たちが、筆子の相手が久米だなどというのは絶対に認めないと言い出した。小宮らは軽薄な久米は駄目だが、漱石に激賞された秀才芥川ならいいではないかとするのだが、芥川はすでに婚約中の身で、勝手に名前を出されたところでいい迷惑だったことだろう。

鏡子はこうした動きに、逆に久米をかばうようになっていく。そして筆子は、一時は自分さえ我慢すればいいのだ、それですべてがうまくいくのなら久米と結婚してもいいとさえ思ったこともあったそうだ。

譲は夏目家の家族旅行にも同行し、筆子の相談相手となる。そして筆子の気持ちはますます譲へと傾いていく。自分を犠牲にしてもいいと考えたこともあったが、筆子にとってやはり久米は耐え難い存在だった。久米は「冴えない容貌」をしており、そのこともあったろうが、なによりも筆子が嫌悪したのは「その女々しさとフェアーでない態度」だった。久米は人目がないところで筆子にキスを迫るかと思えば、筆子の親友の名をかたって譲を中傷する手紙まで書いている。ただでさえ意に沿わない相手なのに、こんなことをされれば嫌悪感はさらにつのることだろう。

手紙といえばこんな一幕もあった。鏡子や筆子、さらに小宮豊隆らに「下手な女文字」で書かれた奇怪な手紙が届いた。久米の女性関係などの不品行を告発したもので、「読むにたえない「如何にも下卑た毒々しい手紙」」だった。これについて鏡子から問いただされた久米は「一々申し開きをした後、いろいろ心配をかけるので、筆子との件はもう諦めるとまでいい出す」。筆子も少しの間は久米に同情してしまったが、やはりまた同じ気持ちに戻るのだった。

この手紙について、1970年に著者が初めて会った際に、筆子は声をひそめて「あの手紙を書いたのは、山本有三さんです」とささやいたという。確かに譲の小説にもそのようなことがほのめかしているように読める部分もある。決定的な証拠はないものの、少なくとも筆子や譲からは山本は第一の容疑者として見なされていた。後に「人道主義作家、同伴者作家、明治大学学芸部長、そして貴族院議員」となる山本であるが、当時は鬱屈した状況にあった。山本は「偏狭ともいえる潔癖症」を持つと同時に「ずいぶんせっかちで、かんしゃくもち」でもあった。学生時代から久米を知るだけに腹に据えかねたということだったのかもしれない。しかし久米が筆子の親友の手紙を偽造したことを思うと、これも状況が不利と見た久米の一発逆転を狙った自作自演であったのではないかという疑念も湧かないこともないが……。

久米がすさまじいのは、このゴタゴタをほぼリアルタイムで次々と小説にしていったことだ。大正6年1月に「一挿話」という小説を発表し、ここに「私はいつもの通り約束の出来かゝつて居るE子の家へ半日を遊び暮らすために行つて居た」という箇所があるように、あたかも自分が筆子と正式に婚約しているかのような印象を進んでふりまいた。これには筆子のみならず鏡子も気分を害する。

筆子はついに意を決し、譲に愛を告白し、譲はこれを受け入れる。鏡子も譲を家に招きいれたように、もともと譲の「落ち着いた物腰や能筆やその事務処理能力を好ましく思って」もいた。鏡子も筆子の意志を尊重し、久米に夏目家への出入りを禁ずる。しかし二人にとっては、大変な事態が起こるのはこれからだった。

久米は親友に許婚を奪われたという態で小説を書く。もちろんこれは久米の勝手な主張で実態に基づかないものであるのだが、譲はこれに反論せずに十年間は沈黙を守ろうと決めたため、世間は久米の小説が事実であるかのように受け取った。このため松岡は親友の許婚を奪った卑劣漢というイメージを持たれてしまう(漱石の『こころ』の「先生」はまさにこのような「卑劣漢」のような行動を取ったことが心に引っかかり続けたのであるが、このパロディのようなことが娘夫婦に起こるとはなんたる皮肉かとも思えてしまう)。
譲が京都で友人に頼まれて寺の離れを借りようとすると、寺の妻は譲の名前を聞くとが悪人だからと断ろうとした。実際に会ってみると「噂に聞いた程の悪い人でも無ささうだと漏らし」たと知って笑ったと譲は書いているが、当人たちには笑い事ではなかっただろう。また譲と筆子の子どもが近所の子と遊んでいると、新聞記者だったその子の両親は「あんな悪党の子供なんかと遊んぢゃいけない」と聞こえよがしに言って娘の手を引いて連れ帰ったということもあったそうだ。

そして何よりも、譲は文壇から総スカンを食らうことになる。譲が再び小説の筆を取るようになっても文壇は徹底して無視した。現在譲の名は鏡子の話を聞き書きした『漱石の思ひ出』で一番よく知られているだろうが(というか、漱石の長女の夫という以外ではほとんど知られていないとすべきかもしいれない)、彼の小説は当時広く読まれ、評価されたものもあったが、読み続けられたものがあまりないのはこのあたりに起因している部分もあろう。

またこの『漱石の思ひ出』は小宮豊隆から徹底的に批判されることになる。漱石を神格化したい小宮にとって、この回想はそれを脅かすものと感じたからというのもあろうが、文壇においてもそうであったように、夏目家において特権的な地位に就いた譲にたいするやっかみというのもなかったとはいえないだろう。

筆子は当然鏡子の回想を支持する。漱石の精神状態が不安定だった時は理由もなく殴られた。漱石は普段は子どもたちがいくら騒ごうが気にしないが、一度精神状態が悪化すると理不尽に暴力をふるった。「殺される!」と思ったことさえあり、伯父(漱石の兄)の家に逃げてしばらく帰らなかったこともあったと、筆子は著者に語っている。息子の伸六も当然同じ体験をしており、小宮による漱石の評伝は「上下姿のよそ行き漱石」」だとしている。小宮は『漱石の思ひ出』に対抗すべく師の評伝を書いたが、ここで漱石を聖人化するとともに悪いのは全て鏡子だと「悪妻」説を広めた。子どもたちにとってはこうした漱石像や母への中傷は容認できないものであり、またここには実像がどうだったかというだけではない感情的対立もあったのだろう。

では譲が筆子との結婚後夏目家において幸福な日々を送ったのかといえば、必ずしもそうではなかった。夏目家は男手を必要としていたということは、譲が雑務に追われることになるということになる。さらに若い夫婦にとって、姑や幼い弟妹たちとの共同生活がストレスとなったことは想像に難くない。譲たちは別居を望んだが、鏡子はなかなか了承しなかった。結婚後6年して、譲と筆子は京都に引っ越すことでようやく解放されることになる。


一方譲の実家であるが、父の没後は結局は弟が後を継ぐことになるが、この弟は日中戦争に召集され戦死することになる。甥が寺を引き継ぐことになり、譲は晩年にこの甥に「僕が死んだら頼むよ」と言っていた。譲は寺やその制度については厳しく批判していたが、仏教そのものを否定したわけではなく、また晩年には寺への反発も薄れていったようだ。

第二次大戦末期に松岡家は長岡へと疎開した。戦後、譲はすぐにも上京したかったが、様々な状況からそれができず、またもともと疎遠だった東京の文壇とはさらに距離ができ、「故松岡譲」と自虐的な紹介をするようになるほどで、東京へ戻るという意志も次第に失っていくことになる。

戦後間もなくは松岡家の経済状況はかなり厳しかったが、その中で貴重な収入源となったのが譲の書の腕前で、展覧会などで家計を助けることになる。これは悪筆であった父が自分の二の舞にはすまいと、スパルタ式に幼少期の譲に仕込んだおかげであった。このあたりも実家とある種の和解が訪れた要因かもしれない。ちなみに「筆子」という名前は鏡子が悪筆だったことから、娘はそうならないようにと漱石が命名したものであり、このあたりはきれいに収まる話になっているというか、因縁めいているというべきなのか。

「和解」といえばなんといっても久米正雄との和解である。1946年、久米ら一行が講演のために長岡にやって来ることになった。不足している米を仕入れるのも目的の一つだったようだが、久米には漱石の新しい全集を出すために譲の了解を得たいという目的もあった。 戦時中にも譲は文学報国会会長だった久米と一度会っており、あくまで実務的な用件であったが、両者の間にはすでにとげとげしい雰囲気はなくなっていた。久米が譲の間借りしている家に行くと連絡すると、譲はそれにはおよばないとして、久米の宿泊先を訪れた。久米に同行していた小島政二郎が間に立ち、世間に向けて共同で何かしたらどうかと持ちかけ、二人は了承する。

京都で漱石の俳句と漢詩をモチーフにして久米の絵と譲の書による二人会が行われ、また二人を招いての講演会も開かれた。この打ち上げの席上で、ここに同席した岡田正三の「松岡・久米両氏の和解」によると、久米は「僕はこれまであること無いこと君の悪口をまき散らして来た。すまん。許してくれ」と涙を流して頭を畳みにつけ、今後も合同展をやっていこうと申し入れた。譲は「やってくれるか。ありがたい。ああ、これで長年にわたる胸のつかえが、けしとんだ」と応じたという。

久米がこの通りに言ったのだとすると、僕のような心の狭い人間なら「あること無いこと」じゃなくて根も葉もないことだろーがよう、なんてむっとしてしまいそうだが、十代後半で出会い、一時は「合惚れの夫婦のよう」とまで呼ばれるほどの親友となりながら、二十代半ばで反目しあい、五十代半ばにして和解を果たすという状況は想像もできないことで、当人たちからすればもちろん言葉の問題ではなかったのだろう。


『破船』事件については、久米側の視点は『破船』で知ることができ、譲、そして筆子側は譲の小説『憂鬱な愛人』で見ることができる。未読なのでこれを機に目を通してみようかとも思ったのだが、どちらも入手はかなり困難という状況なので、どこかで復刊してほしいものだ。譲の小説では仏教のあり方に問いを投げかけた『法城を護る人々』や、『敦煌物語』あたりが代表作になるのだろうか。




譲と筆子の三女が松岡陽子マックレインで、漱石についての著作もある。四女末利子は半藤一利と結婚することになる。



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佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
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