『中濱万次郎  「アメリカ」を初めて伝えた日本人』

中濱博著 『中濱万次郎  「アメリカ」を初めて伝えた日本人』



アメリカ滞在時にジョン万次郎が洗礼を受けたのか否かというのは、万次郎のその生涯において一つの謎として残っている。

ジョン万次郎こと中濱万次郎の曾孫による伝記、『中濱万次郎  「アメリカ」を初めて伝えた日本人』には、「万次郎は、クリスチャンか、という質問をよく受ける」ものの、現地で「万次郎の洗礼証明書を探したが、教会が洪水にあって、当時の書類が流出してなくなっており、未解決に終わった」とある。

万次郎の親代わりとなったホイットフィールドは、フェアヘーブンでは教会で一般席とは違う、祭壇の横に家族席が用意されているような名士の一員だった。しかし万次郎をそこに連れて行くと、「黄色人種のため黒人と同じとみなされ、連れてきてはいけないと断られた。ホイットフィールド船長はそのような教会には行かないと言って、万次郎を受け入れてくれる教会を探した」。こうして一家は万次郎のために宗派まで変えてユニテリアン教会に通うようになる。確たる証拠はないものの、万次郎がこのような家庭に受け入れられて洗礼を受けなかったと考えるほうが無理というものかもしれない。

この頃日本からの漂流民はアメリカから暖かい扱いを受けることが多かった。一つには船乗りの仲間意識というのがあるだろうし、また開国を迫るためのカードとして漂流民を使おうと考えて人がいたことも確かだが、多くの場合キリスト教に基づく博愛精神が作用したのではないかとも思える。万次郎を我が子同然に可愛がり教育の機会まで与えてくれたホイットフィールドの行動はまさに無私のものであろうし、ジョゼフ彦も親切な人々に助けられた。

ジョゼフ彦は洗礼を受けていたことからそのまま帰国すれば身の危険があるかもしれないと懸念し、アメリカの市民権を得ることを選ぶ。これよりもさらに前に帰国した万次郎がクリスチャンと思われないよう神経を尖らせたことは間違いない。その後禁制が解かれると万次郎は聖書を手元に置き、これを読んでいたことは、その聖書が残っていることからも明らかである。

万次郎が形式上クリスチャンであったか否かはともかく、「その後の行動や考え方を見ていると、クリスチャン的である」と著者はしている(ちなみに著者はカトリックであるが、これは先祖代々というわけではないようだ)。

万次郎にはこんなエピソードがある。「万次郎はけちだ」という評判がたったことがあった。行きつけの鰻屋「やっこ」で食事をすると、残ったものは必ず折りに残さず入れさせて持ち帰ったことからこんな話が広まったようだ。ある日その店の仲居が使い走りの帰りに、夕闇迫る両国橋で人力車を止めて橋の下をのぞき込んでいる万次郎を見つけた。万次郎は「オーイ!ちょっと上ってこいや」と叫ぶと、「汚い身なりの乞食」が二人出てきた。万次郎は「この前はナ、やれなかったが、今日はお前たちの番だ」と、折りを手渡すばかりか親しげに談笑していたのである。これは「当時の一般常識ではとても考えられないこと」だった。

万次郎はこのようなことをあちらこちらでしていたようで、「乞食の親分が深川の万次郎の自宅に盆暮れに挨拶に来たという」。妻はこれを嫌がって、「だいたい乞食というのはなまけ者で仕事をしないで勝手にあのような生活をしているのだから」と文句を言ったが、万次郎は「それ位のことは知ってる」としつつ、「そのような運命に落ちた人たちが可愛そうなのだ」と妻を諭したそうだ。

中濱家にはこんな話が伝わっている。
明治3年にヨーロッパ出張が決まると、「政府代表として行く者が乞食とつき合っているのでは面目が立たない。そのような者へのあわれみはご無用」とある役人が言いに来た。すると万次郎は「あなたが立派な役人になったのは、あなたのもっている運命である。それと同じように、永代橋に群がる乞食たちは何のまちがいであんな運命になったのだろう。私は彼らをあわれむのではなく、本来人間は皆同じなのに、そのような運命になったという人生の無情を悲しむのだ」と返したという。


万次郎は晩年は長女の寿々と暮らした期間が長かったが、寿々の甥の鉄男は叔母から万次郎にまつわる話をいろいろ聞き、著者は鉄男からその話を教えてもらったという。
万次郎は酒は飲まず甘いものが好きで、トロとねぎをぶつ切りにして、たくさんの砂糖と少量の醤油で煮る「浜煮」が好物だったそうだ。トロの代わりに牛肉を入れたりもしたそうだが、こうなると完全にすき焼きである。
またウナギも好物で、鉄男が万次郎行きつけの「やっこ」に行くと、年をとったお婆さんが両脇を支えられてやっとのことで出てきて、「ご先代にはたいへんお世話になりました。勝様、たけち様にもお世話になりました」とわざわざ挨拶に来たこともあったという。

この「勝様」というのはもちろん勝海舟のことだが、「たけち様」とは武市半平太のことか。勝と万次郎は親しく、勝の子孫は「万次郎は家にもよく来たそうですよ」と言っている。

このあたりのエピソードを聞くと、ベイカー街遊撃隊を駆使したシャーロック・ホームズよろしく、勝海舟とジョン万次郎が江戸/東京に張り巡らせた様々なネットワークを使って事件を解決するなんて小説を、山田風太郎あたりが書いていそうな気がしてきてしまう。

攘夷派が意気盛んな頃、勝は自身の護衛にあたっていた岡田以蔵を万次郎の護衛にあたらせることにした。ある時墓地に「国賊!」という声が響き渡り、四人の壮漢に襲われた。以蔵は「先生、墓を背にまっすぐ立っていてください」と大声で叫び、「それから二人隠れています。決して墓の中央から動かぬように」と言った。二人の男が血しぶきをあげて倒れ、二人の男が逃げ出した。以蔵が「まだ動かないでください」と言うと、墓の後ろからも二人の侍が逃げ出した。

また団野源之進が警護にあたっている時には、夜道を歩いていると団野がそれとなく万次郎の右側に身体を移した。人影が近づくと季節はずれの蛍が飛び、万次郎が「珍しいことよナー」と言い終わるか終わらぬかのうちに、どさっと人が倒れた。光ったのは団野の刀であった。

どこまで真に受けていいのかは微妙だが、万次郎に身の危険があったことは確かであった。万次郎もカリフォルニアの金山では危険に備えて拳銃を二丁しのばせていた経験を持つなど、修羅場をかいくぐってきた経験を持つ。またボタンを押すと刀が出てくる仕込み杖が著者の家に残されているという。万次郎は江戸でもピストルを手放さず、仕込み杖でアメリカ式の護身術を実践していたようだ。このあたりは小説よりも映画向きかもしれない。

捕鯨船に乗っていたメルヴィルは「人食い人種」のタイピーに捕らわれたがそこから逃げ出してタヒチのすぐ横のエミオ島にたどりく。ホイットフィールドが万次郎を連れて帰る際にエミオ島に着いたのはメルヴィルの出発したわずか十日後であった。
もしメルヴィルと万次郎が出会っていたら、という物語もなかなか想像力を刺激する。

第二次大戦直後には「ホイットフィールド氏から中濱家の様子を見てくるように頼まれた」と何人もの軍人が家にやって来たほどホイットフィールド家と中濱家の結びつきは強く、両家は今でも交流があるそうだが、これなど物語の結末にうってつけだろう。


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佐藤太郎(仮)

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