『プリンス昭武の欧州紀行  慶応3年パリ万博使節』

宮永孝著 『プリンス昭武の欧州紀行  慶応3年パリ万博使節』



1867(慶応3)年、将軍徳川慶喜はパリ万博に日本が参加するにあたって、実弟である当時14歳の昭武を名代として派遣することに決める。昭武はこの他にも親善大使として欧州各国を訪問し、その後に3年から5年ほどフランスに残って留学生活を送るはずであった。しかし海を渡ってわずか1年半で、幕府の崩壊という政変を受けて帰国を余儀なくされたのであった。

昭武の名が「こんにちあまり知られていない」のに対し、一行の中ではなんといっても渋沢栄一が一番有名であろう。渋沢は会計責任者兼書記のような立場を務め、厳しい財政事情をやりくりするだけでなく、投資まで行うなどしてヨーロッパの資本主義を直に体験し、これの経験をもとに様々な事業を行うようになる。


本書はなんといっても、まだほとんどなじみのなかったヨーロッパが幕末の人々にどう映ったのかが楽しめる。

途中で寄港した上海は欧米諸国の半植民地と化しており、そのたたずまいはヨーロッパとほとんどかわらなかった。「当時の日本では石油ランプでも珍しく、ローソクを用いるのがふつう」で、「地中に管を埋めガスを導くことなど想像におよばず、ましてや電線によって通信できるとは」という状態だったため、後に渋沢はこれらを「キリシタン・バテレンの妖術のように思えた」と振り返っている。
また激しい貧富の格差や、中国人のクーリーが西洋人に牛馬のごとくムチをふるわれている光景も目にしている。

スエズ運河はまだ開通していなかったため、一行は工事中の運河を横目に陸路アレキサンドリアまで渡ることになる。上陸する際には「100メートルの長さがあろうかと思える小さな家が動き出すので、不思議な気がした」が、それは一行が乗ることになる蒸気機関車だった。

船での食事について、渋沢はパンにブール(バターのこと)を塗るとして、この「牛の乳の凝たる」ものの味が「甚美」であるとしている。

こうしてフランスへ着き、フランス語を習い始めると、一ヶ月ほどで片言の会話はこなせるようになった。この時のものと思われる、渋沢が単語や日常のかんたんな言い回しを書いた手帳が残っており、そこにはpaix(平和)を「太平」、sincere(まじめ)を「無虚飾」と訳し、bonjour(こんにちは)という挨拶には「わたしは貴下に好き日〔ボンジュール〕を祈る光栄を有す」と記している。

一行にとって外出先での用足しが「いちばん切実な問題であったようで、「便所はどこか」「わたしは便所に行く」がフランス語で四とおりも記されている」そうだ。その中には「わたしも王様も一人きりでいくところ」という婉曲表現も含まれているという。昭武は「大君」の弟であり、体面を保たなければならないと考えられた。その結果出費がかさんでピンチとなるのだが、はばかりごとだけにあけすけに言うのははばかられたということだったのだろうか。

一行は開明的な人物ばかりではなく、それどころか警護役を務める水戸侍は、水戸であるだけに「融通のきかない国粋主義者」が多く、これにも振り回されることになる。このあたりも含めてスラップスティック調の映画を作れそうでもある。
ヨーロッパ各国の親善訪問を終えた昭武は勉学を開始し、フランス語をある程度みにつけ、その練習のために日記をフランス語で書くようにまでなっていたが、これから本格的に学問に入ろうとしたその時に、幕府崩壊の報を受け、帰国することになるのであった。


もちろん当時の日本の状況を考えれば、この渡欧には様々な思惑が交錯していたことは想像に難くない。

万博への参加と昭武を名代として送り出しそのまま留学させることは駐日フランス公使ロッシュの進言によるものだった。当時ナポレオン三世は政治に倦み疲れていたこともあって日本の情勢に「深い関心や領土的野心をもたず、対日政策はもっぱら外相のルイにゆだねられ、同人とロッシュが連繋して、その外交政策をすすめ」ていたのだが、幕府側としてはそんなことは露知らず、「ロッシュの態度や行動は、まるでナポレオン三世の意志をそのまま具現しているかのように日本人一般に受けとられていたよう」だ。

慶喜はフランス贔屓で、兵制などもフランス式を導入しており、またフランス側では生糸貿易の独占などを目論んでいた。当時西南雄藩と深い関係にあったイギリスであるが、生糸貿易を独り占めしてもおり、ロッシュの巻き返しにイギリス公使ハリー・パークスは歯噛みしていた。
幕府の親仏状態をこの渡欧を機に親英にかたむけようと策動したのが、「パークスとその日本語通訳官アレキサンダー・フォン・シーボルト」だった。

長崎の出島に滞在したあのシーボルトの長男であるアレキサンダーは、ちょうど賜暇を得てプロシアへ帰省するところであったことから、昭武らに同行して通訳やその他の用務をはたしてもよいと申し入れた。シーボルトはドイツ語、オランダ語、フランス語、英語、さらには中国語や日本語の文語と口語にも通じていた。幕府からすれば願ったりかなったりの申し出であり、パークスの承諾を得てとりあえずパリまで同行を頼むことにした。

幕府方のロッシュと薩長寄りのパークスは、「二人とも自国の政策をはなれて、意地づくの競争に熱中し、秘策を練っていた」。ロッシュの後ろにはメルメ・ド・カションという腹心のくわせものの神父がいた。「カションは幕府の外交にどのよな小細工を弄するか知れたものではない」。

昭武一行の動向を探り、彼らをイギリス寄りにもっていくのに、シーボルトはうってつけの人材だった。「イギリス政府の回し者として昭武一行の船に乗り込んだシーボルトは、公子をはじめ向山駐仏公使や山高ら側近を丸め込むことに成功した」。そして「シーボルトは一行の動静をつぶさに観察し、それを逐一、イギリス外務省のハモンド事務次官に報告していた」のであった。
ロッシュから聞いていた話と扱いが違うことなどもあって、一行の中にはフランスに反感を持つものが出てくるように、「シーボルトの作戦は、大きく功を奏した」。

一行は上海や香港、シンガポールではイギリス側から冷めた扱いをされるが、マルタ島を昭武が訪れると、一転して王侯貴族のような大歓迎を受ける。これはシーボルトが外務省に働きかけた結果だった。また昭武のイギリス訪問の際には、「ご注意願いたいのは、儀式ばらぬようにといった趣旨の手紙をだしましたが、虚礼を廃すとかれらはたいへんがっかりするということです。東洋人のすべてはがそうであるように、日本人は大いに外見にこだわるのです」と助言している。昭武は「軍事に関するものがとくに好き」で、「実際かれが本当に好きなのは武器であるようです」とし、造船所や兵器工場訪問には陸軍士官を付けて専門的な説明ができるように、としている。

もっとも「イギリス政府は、当初、昭武一行にもっと国内の諸施設をみせるつもりであったが、昭武らはイギリスの暗うつな冬空と寒さに閉口し、謝絶し、早々に帰途につ」くことになってしまうのだが。

また万博においては幕府と、出品者として参加していた薩摩との間でひと悶着起こるが、この背後にいたのはベルギー貴族のモンブラン伯爵であった。モンブランはフランス外務省の依頼で科学調査のために来日し長崎や鹿児島に滞在したが、その際白川健次郎をひそかに連れ帰り、忠実な秘書とした。白川は渡欧後ジラール・ド・ケンと名乗っていた。薩摩藩が万博に参加することにした真の狙いは、モンブランと契約した「日本=ベルギー会社」設立協定にあった。


このように昭武一行の渡欧を様々な陰謀渦巻くポリティカル・サスペンス風味の小説にでもしても面白いのかもしれない。

それにしても、この頃の日本のその後はまさに無数の可能性があったものだと思う。もし公武合体に成功して徳川家が引き続き大きな政治力を保持することができていたなら、昭武はフランスで学んだ学芸を生かして兄の補佐役として重要な役回りを果たすことになっていたかもしれない。

慶喜と昭武は仲のいい兄弟で、二人は「よく一緒に釣りや狩猟を行った」。本書にも収録されていてわかるが、昭武にはなかなか絵の才能があったようで、「慶喜も写真が珍しかった時代、みずからハンド・カメラやステレオ・カメラを用い、写真をとっている。昭武も趣味として写真をとり、かたわら製陶を好んだ。この兄弟は、ともにハイカラ趣味があったようだ」といったあたりを読むと、二人にとってはこの人生もなかなか悪くないように思えていたのかもしれないけれど。


プロフィール

Author:佐藤太郎(仮)
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