『歩道橋の魔術師』

呉明益著 『歩道橋の魔術師』



1961年に建設された、「台湾で初めてのショッピングモール」である中華商場。「忠」、「考」、「仁」、「愛」、「信」、「義」、「和」、「平」という八棟から成り、そのうちのいくつかは巨大な歩道橋で繋がれていた。幅の広い歩道橋は単に移動のための道というだけではなく、そこもまた商業の場となっていて露店などが立ち並んでいた。92年に閉鎖されたこの中華商場を舞台にした、あるいはその記憶を持っている人びとを描いた連作短編である。

この小説を読みながら、僕は子どもの頃のある記憶を思い出してしまった。夜布団にもぐりこむ時に、明日になると自分以外のこの世界の人間はすべて入れ替わっているのだと想像したことがある。親も、近所の人も、クラスメートも先生も、姿かたちは同じように見えるが、実は中身は別ものになっているのだ、と。もちろんこれはただの妄想で、現実には起こりうるわけがない。そのことはわかっているし、一種のゲームとしてそんなことを考えてみるのだが、しかしかすかに、もしそれが本当に起こっていたらという、一抹の不安(もしくは期待)がよぎることもあった。

『ボディ・スナッチャー』という映画を知った時には、自分の想像力が過去においてあらかじめ盗まれていたかのような奇妙な感覚になったものだった。オリジナルは冷戦・赤狩り時代の猜疑心とパラノイアを表している政治的隠喩としても論じられるが、その後も繰り返しリメイクされていることを考えると、これは多くの人が抱いたことのある普遍的な妄想や不安を描いたものとすべきなのかもしれない。

道路にチョークで線をぴっと引いてみる。この線を飛び越えたら、世界は崩壊するのだと想像してみる。馬鹿げたことだとはわかっているが、もしかしたら本当に世界が終わってしまうのかもしれないという気にならなくもない。飛び越えるのにかすかな恐怖心を覚えると同時に、飛び越えることによって世界の崩壊を目にしてみたいという誘惑にもかられる。普通はこういった現実と妄想との境目が曖昧になっていくという感覚は、成長するとともに失われるか飼い馴らされるかしていくことになる。逆にいえば、このような境界を見失うことや、不安や恐怖に捉われたままになってしまうことは、深刻な事態をもたらすことともなる。

『歩道橋の魔術師』で描かれるマジカルな世界とその残滓は、イノセンスな記憶を呼び起こすものであり、また幼少期の不安や恐怖と、にもかかわらずではなくそうであるからこそ、それに魅了されてしまう心理、あるいはそういったものが失われていくこと、それを懐かしみ、また一方でそれに捉われ続けてしまうとどういったことになってしまうのかが、リリカルに描かれている。


文字通りに魔術師が登場し、超現実的なことが起こる。エピグラフにガルシア=マルケスが引用されていることから、マジックリアリズムとしてこの作品を捉える人もいるかもしれない。しかし、ジュノ・ディアスも言っているように、マジックリアリズムとは奇想天外な出来事を描くことが目的なのではなく、南米の複雑な政治・社会情勢を「リアル」に描くためにはマジックを召還せざるおえないことから生じたものなのであろう。その点では、『歩道橋の魔術師』は台湾現代史をふまえているとはいえ、よりパーソナルな記憶に直結している。この作品はラテンアメリカ文学的であるというよりは、とりわけ80年代の村上春樹的肌触りに近いように感じられたし、そのものずばり村上への言及もある。ある作品で「カラス」という綽名を持つ人物が村上春樹を好きだと言うのだが、これは『海辺のカフカ』への目配せかもしれない。

ばたばたと、突然に人が自殺していくというのは『ノルウェイの森』を想起させるが、本作は村上からの影響云々というよりは、なぜ村上が台湾を含む世界の多くでこれほど読まれているのかがよくわかるものであるようにも思える。

村上作品は「(擬似的なものを含む)近代化」によって生じる様々な摩擦をその背景としているともされることがある。「近代化」への憧憬と恩恵と適応、懐疑や不信とともに、そこからこぼれおちて取り残されていくものへの愛惜や不安とが共存している。これこそが村上作品の代名詞ともされる「喪失感」の正体であろう。

『歩道橋の魔術師』で描かれる1980年前後の台湾は、飢えの恐怖にさらされるほどは貧しくはないが、しかし小学生が店番に立つなど親の労働を補助することが当然と考えられているように、それほど豊かだというのでもない。貧しさが残っていると同時に視線の先には豊かさもある。村上作品はある国や地域で経済が一定水準に達すると読まれるようになるともされるが、本作はまさに台湾のそのような時代とその後を描いている。

一方で村上作品と較べると、より具象的ノスタルジー性がストレートに表されている。僕の子どもの頃の記憶について書いたように、イノセンスな想像(妄想)力についての小説であり、またイノセンスを失うことについて、あるいはそれが固着してしまうことの恐ろしさや、それらへの不安についての小説でもある。

昔読んだ子ども向けの小説を思い起こすと、翻訳ものを含めて、ある日子どもたちのなじみの世界に見知らぬ大人が闖入してくるという物語が数多くあったように思う。子どもたちは探偵よろしくこの闖入者の正体を探ろうとする。闖入者は、ある場合には子どもたちの守護天使であり、また恐ろしい悪魔的人物であったりもするが、たいていは人畜無害なただの大人であることが判明する。

中華商場で育った人々は、「魔術師」をはっきり記憶し、その存在に強い影響を受けている人がいるかと思えば、記憶にすらないという人も登場する。この「魔術師」とは、子どもの想像力の隠喩であり、そのマジカルな存在を再現するのに、近代性と前近代性とが同居する中華商場という空間はうってつけのものだろう。


あれこれ理屈をこねくりまわさずとも、幼少期の甘酸っぱさと苦さの記憶を持ち続け、「あの頃」にもう一度帰りたいような、二度とごめんだと思うような、複雑な思いを抱えたまま「後期資本主義」社会を生きる人たちにとっては、強く感情をフックさせられる作品であるだろう。


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佐藤太郎(仮)

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