『ヒップ』

ジョン・リーランド著『ヒップ』




まず読み終えた感想を先に書いておくと、非常に面白かった。
アメリカのポップカルチャー史に興味ある人などはぜひにともという一冊である。

「ヒップ(hip)」とはなんであろうか。
それはいわく言い難いもの。まるで両手で湧き水をすくうように言い足りないと同時に言い過ぎてしまう。
ヒップの語源となったのはウォロフ語の動詞「ヘピ(hepi)」(見る)ないし「ヒピ(hipi)」(目を開く)だという(p.3)。そしてこの語をアメリカで広めたのが西アフリカから連れてこられた奴隷たちだった。
このエピソードからもわかるように、ヒップと黒人文化とは切っても切れない関係にある。
同時に、この語はアメリカという文脈抜きにしては考えられない。元アフリカ人と元ヨーロッパ人、つまり「黒人と白人がともに踊るダンス」(p.11)である。

本書でも詳しく触れられるブルースやジャズの歴史を考えればよくわかる。
元々は奴隷たちの労働歌や霊歌であったブルースはいつの間にか白人に「盗まれて」いた。しかしブルースから発展したロックンロールをただの恥ずべき剽窃とだけ非難することはできないだろう。
歴史は繰り返される。ヒップホップは、狭いサークルでのみ通用していたある種内輪的なものであったのが、いつの間にか大きなコンテンツとなり、白人の経営するレコード会社から発売され、白人に消費される。
黒人たちが盗まれ続けているのは間違いない。一方で、白人は黒人を出し抜いたつもりでも、実は出し抜かれているのかもしれない。
これが「ともに踊るダンス」である。

ヒップとは出し抜くことなのかもしれない。人種を因習を体制をいかに出し抜くか。
一方で、ヒップとは回収され続けるものでもある。
体制に抗うものであったはずが、大衆へと回収され、それが体制へと返されていく。
こう考えるとヒップは弁証法的リニアーなものであるようにも思える。
しかしヒップはまた円環的なものでもある。
佐藤良明氏が解説であげている例を借りれば、パティ・スミスから入った人がボブ・ディランへ、ボブ・ディランからウッディ・ガスリー、あるいはビートへと遡っていく。円を描くように。
ヒップとはやはり捉えがたいもの。

ブルース、ジャズ、そしてヒップホップへと、アメリカの黒人文化を辿っていく本は多い。
本書の特徴は一般には必ずしも黒人文化とは結びつけられないような人々もその源流へと含めている。
例えばヘンリー・デイヴィッド・ソロー。奴隷制とメキシコ戦争に抗議して人頭税の支払いを拒否して監獄に入れられた「市民的不服従」の元祖。彼の行動は既成の価値観を揺さぶるものだった。その声はビートにまで反映している。
アメリカの国民的詩人ウォルト・ホイットマン。彼の詩はセクシャリティを越境するものであった。
既成の価値観、秩序を揺さぶり、そこを越えでていくこと、これもまさにヒップである。

ヒップは矛盾するものでもある。
例えばビートニクたちは規範からの脱却を試みたが、それはあくまで男に限られたものだった。
彼からホモソーシャルな世界を築き、女性はそこからはじかれていた。
ソニック・ユースのキム・ゴードンは「ヒップは絶対男のものだと思う」(p.381)としてその男性中心的マッチョイズムを批判する。その最悪の帰結がバロウズによる「ウイリアム・テルごっこ」で妻を射殺したエピソードだろう。これはパンクにもそのまま当てはまる。
しかしそのキムはまた、ヒップのアイコンでもあり男性中心性を批判したフェミニストパンクのライオット・ガールもまたヒップであるのだ。

ヒップは資本主義に反するものなのだろうか。
一般的にはそう見られるだろう。しかし必ずしもそうとだけは言えない。資本主義の欲望がヒップをヒップたらしめ、そこから逃れる、出し抜くことによってまた新たなヒップが生まれる。
かつてのヒップのアイコンたちは今やコマーシャルに登場する。ヒップとは最も無縁に思える存在であるマクドナルドと、ヒップの代表格ともいえるビートニクが歩を合わせていることをリーランドは皮肉めかして描く。ヒップと資本主義とはある意味では「ともに踊って」いるのかもしれない。
どっぷりつかってはならない、出し抜かなくてはならない、そしてそれもまた回収されていってしまう。

最後の方ではリーランドはヒップについて悲観的にもなっている。
チャールズ・バークリーのこの言葉を引用している。「終わってるよ。最高のラッパーが白人で、最高のゴルファーが黒人なんだから」(p.545)。
資本主義はヒップを積極的に取り入れるばかりか、自らそれを作りだし広めてまでいる。出し抜いたつもりでも、手のひらの上で踊らされているだけなのかもしれない。あるいはもう、潜在的ヒップたちは出し抜くことを試みることすら辞めてしまったのかもしれない。
しかしまた、そこに一杯食わせるのがヒップでもあるのだろうが。

本書は索引まで含めると605ページと厚いもので他にもいろいろと取り上げたい話が多かった。
ロスト・ジェネレーション、ハードボイルド、犯罪者たち、パンク、ドラッグ(ディー・ディー・ラモーンが目撃したグロすぎるエピソード!)。
その中で好きなエピソードは奴隷たちが言葉を反対の意味で用いていたというとこ。例えば「バッド(bad)」という言葉はこうも使われる。「黒人説教者が逃亡者を「バッドなニガー」とよんで賞賛するのを、奴隷の密告者が聞いたとしても、反対の意味で言っていたような気がするとしか主人に伝えられないだろう」(p.32)
言葉の意味をくるくる変えていく。昨日の「バッド」は今日の「バッド」ではないかもしれない。攪乱していくのはもちろんヒップだ。これは今日の、ほとんど一般には通じないようなスラングを駆使するラッパーにもつながるものだ。

佐藤良明氏の解説によれば著者のリーランドはインタビューで「この本で一番ヒップなキャラクターは誰ですか?」という質問に「マイルス・デイビスとジャック・ケルアックだろうかな」と答えているという。
姿を変えつつ人々を惑わすマイルス、そして黒人になりたかったというケルアック、やはりこの二人がヒップを象徴する人物なのであろう。

長くなったついでに脱線するが、この本を読みながら浅田彰氏の『逃走論』を思い起こしていた。
僕がこの本を読んだのは2000年前後であったと記憶しているが、1984年に出版された『逃走論』を今読むと、多くの人があまりのバブルのユーフォリアにあっけにとられることだろう。
おそらくここで浅田が称揚した「スキゾキッズ」とは「ヒップ」のことだったのだろう。資本主義を内部から攪乱し境界を越え軽やかに逃走線を引く。しかし実際には「スキゾキッズ」はバブルに踊らされただけで資本主義を出し抜くようなものではなかった。個人的には浅田氏が90年代以降、ある意味ベタな左派知識人を演じるのはスキゾキッズの喪に服しているのだと思っている。

リーランドの『ヒップ』を読めばわかるように、ヒップの多くが刹那的輝きの後陰惨な結果に至る。これは彼らが戦おうとした相手のでかさによるものであろう。人種や因習の重みから、そう簡単に逃走線を引くことなどできないのだ。

毛利嘉孝氏の『ストリートの思想』は、その点ではスキゾキッズからバブルのユーフォリアを抜いた、地に足のついた抵抗の橋頭堡を獲得しようというものであるのだろう。ここで描かれた抵抗の姿勢はヒップともつながるものである。僕としても基本的にはシンパシーを抱いている。
が、日本においてこういうものがある程度でも受け入れられる日が来るのだろうかというと大いに疑問である。日本人がスクワッティングやカルチャージャムなどを認めるだろうか。
日本が駄目で欧米がいいということではなく、やはりこれらの動きをそのまま日本に持ってくるということはどこか不自然さや無理がつきまとうものでもある。

じゃあどうすればなんてことを考え出すとさらに長くなってしまうのでこのへんで。







プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
カテゴリ
twitter
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR