『小尾俊人の戦後  みすず書房出発の頃』

宮田昇著 『小尾俊人の戦後  みすず書房出発の頃』



みすず書房の中心的な創設メンバーであり、社を代表する編集者であった小尾俊人とはいかなる人物であったのかを、長年共に仕事をした著者が個人的回想も含めて描いている。

第一章では小尾がみすず書房を立ち上げるまでを、その生い立ちから探っていく。
小尾は1940年に長岡工業高校卒業後、岩波書店入社を目指して上京するが、岩波茂雄の紹介で羽田書店に就職することになる。ちなみにこの羽田書店というのは羽田孜の父武嗣郎が始めた出版社で、岩波と羽田が親しかったことから紹介されたようだ。またこの頃の下宿先はなんと小島信夫の家で、小尾は夜間大学に通いながらここで編集者としてスタートを切る。1943年には学徒動員で召集されるが、前線に送られることなく敗戦を迎える。

年表的に生涯をたどると流してしまいそうになるが、考えてみると奇妙なことがある。岩波書店はすでに日本を代表する出版社だった。岩波茂雄から羽田書店を紹介されているのだが、地方出身の高校出の若者がふらっとやってきて岩波茂雄に面会できたり、就職先を紹介させてもらえたりするものだろうか。著者は小尾の故郷の信州に行きその学生時代や人脈を調べるうちに、信州の教育環境や人のつながりなどを発見していくことになる(岩波も長野出身である)。このあたりは小尾やみすず書房に関心のある人ばかりでなく、岩波や信州という場所に関心のある人にとっても興味深いだろう。


第二章ではみすず書房立ち上げから、戦後に創業された出版社の多くが淘汰されていく中なぜみすず書房が生き残れたのかを、戦後間もなくの小尾の動きから探っていく。

みすず書房は1951年に、関係者が詳細を語るのを避けている「手形事故」によって存亡の危機を迎える。小尾はこれを乗りこえることで、編集者から「出版者」へと成長していったようだ。

著者は翻訳権関係の仕事で小尾と知り合った。「あとがき」にはこうある。小尾は「話題の書、ベストセラーの著作を低額、もしくは妥当な条件で翻訳出版契約」をすることができた。「なぜそれができたかというと、小尾が他に先んじて翻訳出版に名乗りを上げたことにある。/私は長らく、小尾の翻訳権の取得につきあってきたのだが、振り返って一度も他社と競り合ったケースはない。競り合いを避けたのではなく、競り合うまでもなく逸早く契約していたからである。海外の書評や反応を入念に自身で調べ出版に踏み切った。それが競争に持ち込まれず、適正な契約ができた大きな要因であった」。

一方で著者は第二章でこんなエピソードについても触れている。「小尾俊人は、けっして単なる硬質ものの編集者ではなく、出版者であった。時によっては勝負を賭けた。のちに、ある翻訳書の取得でみすず書房に先に権利を取られた出版社の社長が、ずいぶん高い前払い金を呑んだものだと嫌味を言うと、小尾は、「やるときはやる」と答えたという。それは、社運を懸けて生き抜いた出版者であったからこそ言えたのだろう」。

著者は「原色版 美術ライブラリー」の、みすずらしからぬ派手な新聞全面広告に当時はやや違和感を抱いたそうだが、これは講談社が出してきた「アートブックス」に対抗するためであった。両者はターゲットが異なるとはいえ、美術のアンソロジーシリーズという点ではかぶってもいた。小尾は大出版社である講談社の向こうを張るという賭けに出たのだった。
小尾は良書は売れるという信念を持っていたが、ただいい本さえ出していればどうにかなると思っていたわけではなかった。『夜と霧』などは当初はその派手な宣伝方法などが批判もされたようであるし、かつては今のみすず書房の刊行物からすると意外なけばけばしいタイトルのついた本もあったが、「出版者」としての判断だったのだろう。これは1951年前後の苦しい時期を乗りこえたからこそであり、このような小尾がいたからこそ、みすず書房は生き残ることができた。

すでに触れたように、小尾は小島信夫の家に下宿していたことがあった。みすず書房といえば学術書のイメージが強いが、文芸作品や小説家と縁がなかったわけではない。昭和二十年代後半には長谷川四郎『鶴』、小島信夫『アメリカン・スクール』、庄野潤三『プールサイド小景』など、錚々たる作品を刊行している。しかしみすず書房には文芸誌がなかったことや、また当時の権利関係、そして小尾の編集者としてのあり方を考えると、作家を囲って継続的に文芸作品を出していくことは難しかったかもしれない。おそらくは「出版者」の判断としてすぱっと切っている。簡単ではなかったはずのこういう判断を下せるところも小尾の強みだろう。


第三章、そして本書全体で著者と小尾との個人的な思い出が語られる。
小尾という人も、かなり不思議な人である。小尾が亡くなったのは2011年8月15日(敗戦の日であり、小尾が「先生」と慕っていた丸山真男の命日でもある)だが、「密儀、偲ぶ会なし」との遺言を残していたために関係者はとまどうことになる。遺族は会社関係者や友人にさえ小尾の死を伏せていた。ある偶然から情報が伝わり、みすず書房編集部長が「小尾は社会的存在だから(……)世に告知する必要がある」と説得し、メディアに死を伝えることにしたものの、お別れ会や偲ぶ会、追悼集刊行などをしないことを約束させられたようだ。公私ともに親しかったはずの著者も間接的に小尾の死を知ることになる。

みすず書房には小泉二郎という人物が勤務していたが、実はこれは小尾の実弟であった。「紛らわしくなる」ということでこう名乗ったようだが、それだけであっただろうか。後述するように小尾俊人ら創業メンバーが一斉に身を引くことになるのであるが、小泉二郎こと小尾亮は「突然姿を消した」。出社した人は小尾亮の机の上が「ちり一つ残さないぐらいなもなくなっていた」光景を目にする。「だれも彼が会社を辞めることを知らず、彼もまた挨拶もしなかった」という、「異様」な印象を与えるものだった。兄の意向なのか自らの決断だったのかはわからないが、兄の存在が影響はしているだろう。

「手形事故」によって危機に陥ったみすず書房を経営者として救い、社長を長らく務めてきたのが北野民夫だった。小尾は彼を「恩人」だと語っていた。その北野が1988年に亡くなると、後任となったのは小尾ではなく営業部長の小熊勇次だった。著者がおどろくと、小尾は「本人〔小熊〕がいちばんおどろいているのではないか」と、「こともなげに」言った。
さらに小尾はその2年後に退社すると伝えてきた。まだ早くはないかという著者に、小尾はある学者から「企画がマッチしなくなっている」、5年ほど遅すぎたと言われたとする。実は小尾はある企画が赤字を出したことを理由にしてすでに非常勤役取締役になっていた。といっても「名前だけの非常勤で、編集代表であることや仕事に変りはなかったが、役員手当てを返上して無給となって働いていたというのである」。さらには退職金までいらないと言い出し、周囲を困らせる。小尾はそればかりか、自分の退社と合わせて創業メンバーもほぼ同時に身を引くようにしていた。「創立時の経営陣総退陣について、常識を度外視した乱暴な人事だという批判」もあったが、著者は「乱暴な人事というより小尾らしい一徹な決断だと思った」という。

一方では「出版者」として存分にその能力を発揮しつつ、またいささか常識外れとすらできるような潔癖癖があるようにも思えてしまう。社における大物の弟が同じ会社にいれば周りはやりにくさもあるだろうし、創業メンバーが残れば若い社員に無用な重しとなってしまう危険性もあるだろうが、ここまでやるかという感じでもある。さらには退社後は意識的にみすず書房に関わらないようにしたようだが、気遣いといえばそうなのだが、過剰なようでもある。そして自らの死にあたっての無名性へのこだわりというのは、あまりに頑だ。

本書の作業を進めていくうちに、著者は小尾の違った一面も発見していくことになる。親しかった著者ですら、小尾の妻と会ったのは一度だけで、彼女が精神科医であることも長らく知らなかった。著者は、小尾が日中出版交流会に出発の見送りに表れた妻が、「一見して知的な婦人は、まるでやんちゃな弟を気遣い、そのケアを頼むような挨拶をした」ことに「彼のもうひとつの面が見えた気がした」。

2012年3月に開かれた『ロマン・ロラン伝』出版記念会は案内状に「小尾俊人氏へのオマージュを込めて」とあるように実質的に偲ぶ会という意味合いを持つものだった。小尾は著者との会話では家族の話をせず、著者は子息がいるのかどうかすら知らなかったのだが、ここで初めて小尾の息子と会う。東京芸術大学付属音楽高等学校の教諭を務めている彼は、「はじめて接する人間に身構えることもなく、自然体で接」し、こんな「子息が小尾俊人にいたというおどろきをまず感じた」そうだ。
「小尾は仕事に追われてはいたが、家庭を顧みないタイプとは違い、きちんと家庭で仕事の話をし、時には著者に会わせてもいた。また家族に意見さえ求めていたのである」。

本書には1951年の小尾の日記も収録されているが、若き編集者だった小尾はフランス語の勉強も重ねていたし、フランス行きはずっと夢だった。またいずれは研究者になりたいという希望もあったようだが、結局は編集者として生きていくことになる。しかしそういった屈折というのはあまり感じさせない。だが同時に、みすず書房にとっても小尾個人にとってもその存在が巨大だった片山敏彦であるが、ある時期の小尾宛ての書簡がすっぽり抜けている。どうやら小尾によるものらしく、明らかに逸脱行為であるのだが、「無名性」へのこだわりがそうさせたのだろうか。

ある大きな仕事を一度は引き受けながら前言を翻して断ってきた人物について、小尾は学徒出陣なのではないかと思った。後に確認すると、戦中に潜水艦に乗っていたという。小尾は「彼は怯んだのではないか。生き残りの復員組は怯むのですよ」と言った。小尾自身も生き残った復員組である。著者はこの人物、この世代について、「そこには、多くの友人を戦いで失ったサバイバーズ・ギルトもあったのだろう。自己の卑小化と、これ以上の傷は避けたいとする、失敗や責任を取ることの恐れがはたらいたのだと思う」としている。この頃はわずか数年の年齢差で経験が大きく異なる。著者などは、小尾もそうである少し上の世代から仕事を丸投げされ、歳のわりに大きな仕事をまかされることになったというが、小尾の複雑な心理にこのあたりが影響を与えてもいるのだろう。

本書を読んでいても小尾はエゴの強いエキセントリックな人間という印象はあまりないのであるが、ある種の事柄になると過剰さというものも滲み出てくる。もちろん言うまでもなく、人間というのは多面的な生き物であり、そういった面があるからこそ深みも生まれる。
著者は小尾からよく昼食に誘われたが、その際小尾はおすすめの食事処の新聞の切抜きを持っていて、そこに連れて行ったそうだ。ここから著者が知ったのは、小尾が通勤時に夕刊紙やスポーツ新聞まで買っていたということである。「おそらく小尾にとって、食事処は副産物で、買い込んだ新聞の社会欄やゴシップまで斜め読みし、市井の空気を感じとっていたと思う」。硬派な編集者としては意外な姿のようでもあるが、著者も書くように、この「なまなかでない好奇心」がその仕事を支えたのだろうし、いささか不思議な人柄もその「土台」となったのだろう。


その他にいくつか。

本書には小尾の51年の日記と月間「みすず」の編集後記が付録として収録されている。
6月19日にはこんな記述がある。「葦原〔英了〕氏が紀伊國屋で本を注文するとき、同じ本を買った人のことをおそろしく苦にやむ。また買った本が、他人にも購われよまれることは洋書読者?階級にとって、耐えられない苦痛のようだとは、店員の話である。日本の文化を考える場合、何かを象徴しているようだ」。

このあたりは時代状況を考えなくてはならないだろう。当時は日本に入ってくる洋書自体が少なかったため、その希少な本をめぐって「洋書読者?階級」はライバルでもあった。他人が持っていない本を手にして読んでいるというのは、それだけで優位にたつことができた。戦後十数年に欧米について博覧強記的な知識を誇った人というのは本を手に入れる勘に優れていたということでもあった。○○って××の単なる受け売りで今となってはたいしたことはない、なんてことが言われたりすることもあるが、この「受け売り」ができるということこそがある時期には重要であり、それだけに自分が買った本を他人も買っていると知ったときには複雑な気分になったのだろう。記憶が定かでないので名前を出さないが、ある大物文学者が書店で洋書を手にしたところ、やはりその本を狙っていた面識もない若者が「やられた!」という顔をした。するとその大家は「これはあなたが買いなさい」と譲り、後に有名な作家になるこの若者はこの恩を生涯忘れなかった、なんて感じの話を前にどこかで読んだことがある。逆に意地の悪いようなことをした人もいただろうし、本をめぐって性格というのが表れてしまった時期でもあったのだろう。


それから本筋とは関係ないが面白かったのが、ちょっと名前が出るだけなのだが、翻訳家の宇野利泰について。
宇野はゴシップ好きで「早川書房がいまの建物に改築したとき、どこで知ったのか調べたのか、あの敷地の何坪が早川家のもので、何坪が借地で、改築にあたって何坪か買い取るのに苦労したと話す人である」。

宇野は東京帝大を出て武蔵小杉に大きな工場を持つ稼業を継いだが、「文学や海外ミステリーに入れあげ、あげくの果てにその工場を他社に売却したという前歴をもつ人である。また、牛が食べているという理由で野菜をいっさい食せず、両切りのピースのチェーンスモーカーであったことなど、異色な人であった」。

たまにウサギじゃあるまいし葉っぱなんか食べられるかとか、キノコなんて菌だぞ、どうしてそんなもの食べられるんだとかいう人がいるが、 東大を出て「文学や海外ミステリーに入れあげ」て自分の工場を売りはらう羽目になったというまでの合わせ業を持つ人はそうはいるまい。
ウィキペディア情報であれだが、小林信彦の『虚栄の市』と『夢の砦』には宇野をモデルにした人物が登場しているとのことである。


プロフィール

Author:佐藤太郎(仮)
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