チャップリン演説再び

Soldiers! don’t give yourselves to brutes - men who despise you - enslave you - who regiment your lives - tell you what to do - what to think and what to feel!

兵士たちよ! 獣どもに身を委ねてはいけない。奴らはあなたを見下し、奴隷にし、生き方まで統制して、こうしろ、こう考えろ、こう感じろとまで命令するんだ!


ご存知チャップリンの『独裁者』のあの有名な演説より。




今これを聞くと、兵士たちへの呼びかけをアメリカ市民に、あるいは日本を含む多くの国の市民に置き換えてもそのまま通じるように思えてきてしまう。

「理性の基準に従わない世界の様々な動向を、主体的な努力によって制御することができる」と信じた啓蒙が、「過酷な現実が延々と広がる一様性」しか認めず、「勇気をかなぐり捨て、あらゆる積極性をはなから欺瞞と決めつけ、ひたすら無事に生きることに徹する頑なで曖昧な賢さ」となり、理想に対して侮蔑や嘲笑を浴びせかけるようになるまでに変質していく過程を描いたスローターダイクの『シニカル理性批判』を読んでふと思い出したのが、この演説だった。

『シニカル理性批判』の感想の中で、日本におけるシニシズムの一つの表れとして啓蒙を「口うるさい学級委員長」といった程度のものへと矮小化しようとする「80年代的感性」をあげたが、それは僕自身がまさにこの中で育ってきたからでもある。日本の「80年代感性」においては、チャップリンのこの演説に素直に感じ入ってしまうことほど恥ずかしいものはないだろう(「チャップリンなんてあんなものお涙頂戴じゃないか」となる)。

芸能人になんて説教されたくない、ましてやそれが「正しい」ものであればあるほどムカつく、という感性は、いつの時代にもどの地域にもあることだろう。『チャップリンとヒトラー』(大野裕之著)によると、公開当初はアメリカでも批評家筋にはこの最後の演説は圧倒的に不評であったようだ(これには内容そのものさることながら、あえて映画文法を逸脱させたその手法への冷ややかな視線も含まれているだろう)。

チャップリンのこの演説は啓蒙的というよりも、素朴なヒューマニズムに根差したものだとした方がいいだろう。それだけ率直にして切実な訴えであると受け止められると共に、その分だけ「恥ずかしい」ものと感じる人も出て来ることになる。

啓蒙によって懐疑精神を得た人間は、世界を変えていこうという理想をも懐疑するようになり、「人間的な文化が生んだ様々な理想に言及するにしても、嘲笑か無効宣告という形でないかぎり、もはや耐えら」れず、「過酷な現実」の前に「ひたすら無事に生きることに徹する頑なで曖昧な賢さ」によって身を守ろうとする誘惑にかられ続けることになる。

スローターダイクが書くように、これは近年になって突如生じたものではなく、長い年月に渡って繰り返されてきたことだ。しかしだからこそまた、チャップリンの素朴なヒューマニズムに基づくメッセージもまた普遍性を持つことともなる。


Then - in the name of democracy - let us use that power - let us all unite. Let us fight for a new world - a decent world that will give men a chance to work - that will give youth a future and old age a security. By the promise of these things, brutes have risen to power. But they lie! They do not fulfil that promise. They never will!

さあ、民主主義の名の下に、この力を使おう。みんな団結するんだ。新しい世界のために戦おう。人びとに働く機会を与えてくれる、若者には未来を、老人には安心を与えてくれるまともな世界のために。こういうことを約束して、獣どもも権力を持った。でも奴らは嘘つきだ!こんな約束など守ってくれはしない。奴らは決してやりはしない!


シニシズムにとり憑かれた人びとやそれに煽動される人びとに、啓蒙やヒューマニズムによって対抗できるのかは、近年の世界各地の動きを見ると心許ないというのが正直なところでもある。しかしチャップリンの演説が教えてくれるのは、働く機会が与えられ、若者が未来を夢見ることができ、老人が安心して暮らしていける社会こそが昔から多くの人が望んでいるものだということだ(貧困家庭出身のチャップリンは何よりもこのことを強く感じていたことだろう)。

アメリカでは1930年代にF・D・ルーズヴェルト政権によりニューディール政策が始まり、イギリスでは45年に労働党が保守党を破り福祉国家へと一気に舵を切った。アメリカでもイギリスでも共和党/保守党への政権交代はあったが、ニューディール体制、「揺りかごから墓場まで」の福祉国家は維持されていった。最大の理由は有権者がそれを望んだということだが、もう一つ重要なファクターは、共産主義の拡大を防ぐことであった。完全雇用と分厚い社会保障は、国民世論の左傾化への防波堤としても機能した。

多くの人が「革命」に希望を託すことができなくなると、右派は安心して福祉国家を破壊し、完全雇用と分厚い社会保障を葬り去ることに一切のためらいをもたなくなった。それがサッチャー/レーガン以降の英米であり、多くの国がそれに追従した。こうして破壊されたのは、左傾化への防波堤ではなく右傾化への防波堤であった。不安と猜疑心に支配された「過酷な現実」である世界は、歯止めなく右へ右へと落ちていくし、これこそが右派の狙いであった。

ここで行われるようになったことを右翼的グローバリゼーションとでも呼んでもいいのかもしれない。サッチャーやレーガンがまず血道をあげて取り組んだのが労働組合の弱体化であり、社会保障の削減だった。失業者や貧困者が社会保障を受け取ろうにも、19世紀に逆戻りしたかのような過酷なミーンズテストによって尊厳が傷つけられ、スティグマ性は高められた。失業しているということは、貧しいということは、同情ではなく再び蔑視の対象とされるようになってしまった。失業への恐怖心は高められ、仕事を失いたくなければ低賃金、劣悪な労働環境、不安定雇用を受け入れるよう迫られる。頼れる組合はもうなく、それどころか組合は雇用の敵だという考えすら植えつけられる。国境を越えて労働者を入れ、国境の外に仕事を出して企業は利益を出すが、経営者や富裕層は税金を払うことすら拒み、自らの手にその利益を抱え込むだけで、とりわけブルーカラーの労働者たちは国の指数でどれだけ景気が良くなろうともその恩恵をまるで感じることができない。政治家や経営者たちは矛先がこちらに向かわないように、「移民が仕事を奪った、外国人によって社会保障が食い荒らされている」という世論を作り出す。移民やアウトソーシングのおかげで自分たちは利益をあげ、労働者を締め上げて、労働者や貧しい人びとを反目させ合い、連帯を阻み、孤立化させ、わかりやすい「敵」をでっちあげることで政治的に吸い上げていく。サッチャーやレーガンをはじめとするいわゆる「ネオリベ」の政治家が総じてナショナリズムを煽りたて差別的政策を取るのは偶然ではない。

またこういった政治家は往々にして国家への奉仕を求め、「伝統的価値観」を擁護し、個人主義の「行き過ぎ」を批判するのであるが、実際にやっていることはといえば、中産階級以上の階層に「もうこれ以上社会保障を手厚くすることはできない、そんなことをしようとすれば税金が上って馬鹿を見るのはあなたたちだ、失業や貧困に陥るのは自己責任による自業自得であり、外国からあなたがたの税金にたかりに来る連中になぜカネを与えなければならないのか」と、失業者や貧困者、移民、さらには難民までをも蔑むよう誘導し、保身を第一に政治行動を取るよう促す。


右傾化への防波堤が何であるかは言うまでもない。とはいえ、確かにニューディール体制やイギリス型福祉国家を現代にそのまま蘇らせることは困難だろう。しばしばし指摘されるように、福祉国家は政治的には国境が閉じられていることが前提となっていることが多く、北欧諸国が高福祉を実現できたのもその影響が大であろう。北欧諸国も右派によって移民を制限するか福祉国家を放棄するかという選択が持ち出されるだろうし、すでにその兆候は表れてきている。

偏見に凝り固まり、差別に煽動されてしまう人の多くが被害者意識を抱いていることだろう。確かに慣れ親しんできたつもりの社会が大きな変化を迎えると、不安にかられるのは当然のことだ。しかしだからといって、不公正な社会を改善するためには啓蒙の理想に基づく社会を築く夢を放棄し、社会的不公正よりも経済的不公正に集中的に取り組むべきだという「戦略」をとることは極めて危うい。アメリカの「白人ブルーカラー層の声も聞け」という主張そのものは正しい。そして被害者意識によって差別や偏見を正当化する人びと(もちろん白人ブルーカラー層のすべてがそうだというのではないし、ミドルクラス以上の階層にもこういう人は大勢いる)にどう声を届けるかというのは左派にとって重要な課題であるが、しかしその答えは差別や偏見に目をつむれということではないはずだ。そこを転倒させて、「あれかこれか(社会的不公正と経済的不公正のどちらに優先的に取り組むか)」という「戦略」を取ることは、一見すると「現実的」なようで右派の罠に落ちているにすぎない。

「decent world 」を築くのだという意志と勇気を失い、強欲と憎しみと不寛容に屈しては、世界は「獣ども」の手にむざむざと落ちていくだけとなってしまう。


Dictators free themselves but they enslave the people! Now let us fight to fulfil that promise! Let us fight to free the world - to do away with national barriers - to do away with greed, with hate and intolerance. Let us fight for a world of reason, a world where science and progress will lead to all men’s happiness. Soldiers! in the name of democracy, let us all unite!

独裁者どもは自分たちは好き放題やり、大衆を奴隷にする! さあ、まともな世界を築くのだという約束を実現するために戦おう! 世界を解放するために戦うんだ。国を遮る障壁を取り払おう、強欲と憎しみと不寛容を払いのけよう。科学と進歩が全ての人間を幸せにする理性ある世界のために戦おう。兵士たちよ! 民主主義の名の下に、皆で団結しよう!


青臭い? 気恥ずかしい? まあね。でもそう言われ嘲笑われることを恐れるあまり「賢しら」になることこそが「獣ども」の望みであるのだから、むしろ今こそ堂々とヒューマニズムと啓蒙の旗を掲げ、カントが希望を抱いていた「みずみずしい性質の勇気」を再び持たなければならないのだと、久しぶりにこのチャップリンの演説を見て、自分自身にそう言い聞かせている。


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佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
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