ソラリスの羊

沼野充義によるスタニスワフ・レムの『ソラリス』新訳を……といっても十年以上前に出ていて、文庫化もされているが単行本の方をようやく。






飯田規和訳『ソラリスの陽のもとに』はロシア語訳からの重訳であるが、この新訳はポーランド語原典からの翻訳であり、またいくつかあった脱落箇所なども訳されている。そのあたりについて読み比べはしていないし(どこかににあるはずなのだが見つからなかったもので)、飯田訳を読んだのも二十年くらい前のことで完全な印象論であるが、飯田訳がピンとこなかった人は沼野訳で読み直してみるといいかもしれない(その逆というのもあるのかもしれないが)。

ちなみに僕は(そして少なからぬ人もそうかもしれないが)まずタルコフスキー監督の映画『惑星ソラリス』を観て、それからレムの原作を読むという順番だった。映画化の際にレムとタルコフスキーが解釈をめぐって喧嘩分かれしたというのは有名なエピソードで、訳者解説でもそのあたりについても触れられている。またソダーバーグ監督の『ソラリス』についても、レムが未見の状態で話を聞いて否定的な評価をした文章も収録されている(文庫版は未確認)。

沼野は解説で、レムとタルコフスキーが「鋭く食違った」のがソラリスの「他者性」の理解であったとしている。「タルコフスキーの映画『惑星ソラリス』は大筋でレムの原作を使いながらも、その理念においてほとんど正反対を向いていた」とし、両者の結末を比較している。「タルコフスキーが最後に結局、異質な他者との対峙を止めて、限りなく懐かしいものに回帰しようとした」のに対し、レムの原作は「異質な他者に対する違和感を保持しながら、それでも他者と向き合おうとしているのである」。

レムにとって一貫して大きなテーマがファーストコンタクトの問題であることはよく指摘される。まさにソラリスの海との出会いは、想像を絶するコンタクトが生じたときに起こる問題であろう。一方タルコフスキーはそのものずばりの『ノスタルジア』というタイトルの作品を撮っているように、「母なる大地ロシア」との結びつきに根差した、土着的ともいえる感覚を常に抱いていた。そのタルコフスキーは結局ソ連では映画を撮ることができず、あれほどロシア的なものと結びついていながら、映画を撮るために事実上の亡命生活に入り、そうして撮られるのが『ノスタルジア』である。こう考えると両者はまさに対極にあるようだが、久しぶりに再読してみるとまた違った感覚もあった。

タルコフスキーにとって、不可能なものを希求するというのもまたそのフィルモグラフィーを貫くテーマであっただろう。『ストーカー』はまさに直接的にそのテーマであるし、その他の作品においてもモチーフとなっている。不可能なものを希求することはある面では宗教的ともいえる崇高さを帯びるが、また別の角度から見れば狂人といってもいい存在となる(『ノスタルジ』もこの両方の存在を揺れ動く存在が登場する)。愚かな振る舞いによって愛する人を自殺へと追い込んだケルヴィンの前に死んだはずのハリーが現れ、彼女はあの彼女ではないということをわかりつつも惹かれていってしまうという『ソラリス』もまたそうだとすることもできる(これを思いっきり通俗化するとソダーバーグの『ソラリス』となってしまう)。

タルコフスキーが『ソラリス』、『ストーカー』とSF作品を撮ることになったのは別に彼の関心がそこにあったからではなく、当時のソ連で映画を撮るためのやむを得ない方法であったともされる。ちょうどイランをはじめとするイスラム圏で子どもをめぐる優れた作品が多く生み出されたように。
ではタルコフスキーにとってSF的設定は刺身のつま程度の意味しかなかったのかといえば、当人がどう思っていたのかはともかく、結果としてはそうではなかったのではないか。レムにおけるファーストコンタクトとタルコフスキーにおける不可能なものを希求するという関心事項は必ずしも「対極」にあるのではないとすることもできるのかもしれない。レムの場合はそれが「外」へと向かって開けていくのに対し、タルコフスキーはそれが「内」へと篭っていくことになる。もちろんタルコフスキーの立場は、ドストエフスキーがそうであったように、ロシア的なものへの憧憬と称揚という方向へとも向かいかねない危ういところでもあろうが。


……なんてことを考えながら読んでいて、昔は気がつかなかったが、ある場面でおやっと思った。

惑星ソラリスを観測する宇宙ステーションへとやって来たケルヴィンは異様な状態に迎えられる。ステーションに滞在していたスナウトは正気を失って錯乱しているようですらあり、友人だったギバリャンはケルヴィンの到着の直前に自殺をし、彼に謎めいたメッセージを残していた。そしてケルヴィンの前に、自殺したはずのハリーが現れる……というのが『ソラリス』のあらすじであるが、終盤にこんな箇所がある。


「ハリー!」と私は呼ぼうとしたが、そのとき、足音が聞こえた。誰かが近づいてくる。大きくて、重々しい、まるで……
「ギバリャン?」私は穏やかに言った。
「そう、私だ。電気はつけないで」
「でも……」
「必要ない。そのほうがわれわれのどちらにとっても、都合がいい」
「でも、もう生きてはいないんでしょう?」
「そんなことは、なんでもないさ。声で私だということがわかるだろう?」
「ええ。どうしてあんなことをしたんです?」
「そうするしかなかったんだ。きみは来るのが四日ほど遅かったな。もっと早く来てくれれば、あんなことは必要なかったかもしれない。でも、いまさら自分を責めてもしかたないさ。そんなに辛くもないし」
 (pp.219-220)


村上春樹の『羊をめぐる冒険』の終盤からいくつか引用してみよう(なお以下『羊』と『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の重要な部分に触れているので、未読でネタバレが嫌な人はお気をつけを)。


時計が九時を打った。九つめの鐘がゆっくりと暗闇の中に吸いこまれてしまうと、沈黙がその間隙にもぐりこんだ。
「話していいかな?」と鼠が言った。
「いいとも」と僕は言った。



鼠は闇の中、「僕」にビールを渡す。

「目が見えないとビールじゃないみたいだな」と僕が言った。
「悪いとは思うけれど、暗くないとまずいんだ」



「僕」と鼠は闇の中で話を始め、ついに核心部分へと近づいていく。

「できれば君の方から質問してくれないか? 君にももうだいたいのところはわかっているんだろう?」
僕は黙って肯いた。「質問の順序がばらばらになるけどかまわないか?」
「かまわないよ」
「君はもう死んでるんだろう?」
鼠が答えるまでにおそろしいほど長い時間がかかった。ほんの何秒であったのかもしれないが、それは僕にとっておそろしく長い沈黙だった。口の中がからからに乾いた。
「そうだよ」と鼠は静かに言った。「俺は死んだよ」



どうです、ちょっと『ソラリス』に似ていなくはないですか。
鼠は「僕」の来る一週間前に首を吊っていた。

「もし……」
「よせよ」と鼠が僕の言葉を遮った。「もうもしはないんだよ。君にもそれはわかっているはずだ。そうだろ?」
僕は首を振った。僕にはわからないのだ。
「もし君が一週間早くここに来ていたとしても、やはり俺は死んでいたよ。そりゃ、もっと明るくて暖かいところで会えたかもしれない。でも、同じさ。俺が死ななくちゃならなかったことに変わりはないんだ。もっとつらくなっただけさ。それにそういうつらさには俺はきっと耐えられないよ」



ギバリャンはケルヴィンがもう少し早く到着していたら自殺は避けられたかもしれないとしているのに対し、鼠は自分の死を避けられないことだったとしているが、あえて反転させたようにも見えてくる。


「羊は君に何を求めたんだ?」
「全てだよ。何から何まで全てさ。俺の体、俺の記憶、俺の弱さ、俺の矛盾……羊はそういうものが大好きなんだ。奴は触手をいっぱいもっていてね、俺の耳の穴や鼻の穴にそれを突っこんでストローで吸うみたいにしぼりあげるんだ。そういうのって考えるだけでぞっとするだろう?」


このあたりもソラリスが、記憶の奥底の、人にとって一番大切でありまた触れられたくないものを明るみに出すことも連想させる。ソラリスの「意思」は不明であるのに対し「羊」には明確な目的があり、それがギバリャンと鼠の反転となっているとすることもできるのかもしれない。


飯田訳『ソラリス』が最初に出たのは60年代のことで、当時の村上は翻訳小説を大量に読み漁っていた。文庫化されたのは70年代後半、村上が作家としてデビューする前のことだ。
僕の知る限りでは村上がレムについて言及していることはないと思うが、村上の読書傾向を考えると読んでいないとするほうが不自然であるようにも思えてくる。一方タルコフスキーに関しては、昔の何かのエッセイで(失念)、あまり面白くないし興味を引かれないというようなことを書いていたような記憶がある。これはレムへのリスペクトからということなのか、あるいは「影響の不安」がこう語らせた……のかどうかは知らないが、この箇所の類似性について指摘しているのはあまり見たことがないような気がするのでちょっと書いてみた(「そんなのすでにたくさんあるよ!」 ということだったらごめんなさい)。


タルコフスキーについて不可能なものを希求するということを書いたが、『羊』はむしろ不可能性をめぐる諦念とアイロニーについての物語でもある。

前にこちらに書いたように、村上のデビュー作『風の歌を聴け』は、なぜか当時も今も無視されがちであるが、戦後生まれ世代による親の世代の戦争というものに対して、その被害者性と加害者性をめぐって、とりわけ中国というファクターを通じての微妙にして複雑な心理が描かれてもいた。そして『羊』は紛れもなく、大日本帝国の野心と戦後日本を問い直すという問題意識のもとで書かれている。

北海道は沖縄と並ぶ植民地であったすることもできると同時に、漱石夏目金之助の徴兵を回避するために夏目家が一時的にこの末息子の戸籍を北海道に移したように、大日本帝国の一種のアジールとしての存在でもあった。しかしもちろん、アイヌの人々にとっては紛れもない帝国による収奪の場であった。日本での居場所を失った人が「大陸浪人」として中国に活路を見出そうとしたが、その多くが侵略の先駆けや先兵と化していくことになり、漱石の作品にも大陸浪人的人物は影を投げかけている。羊が北海道に導入されたのは大陸の寒冷地進出にあたっての防寒具のためという軍事的な理由もあり、それが徹底的に管理されたものであったというのは『羊をめぐる冒険』において詳述される。そして羊男の正体は徴兵忌避のアイヌの青年である可能性が高い。戦後になぜか戦犯として裁かれることなく野に放たれ、中国における「児玉機関」でたんまりと儲けた金で政財界、メディアにも強い影響力を及ぼした児玉誉士夫が羊憑きの先生のモデルであることは周知の通りだ。

しかし『羊』において、「僕」は、あるいは村上は大日本帝国の「影」と正面から対決はしない。より正確にいうと、そうすることはもうできないのだという諦念に支配されている。ささやかな抵抗は試みるが、それはあくまで局地戦であり、大局に何ら影響を及ぼさないことは嫌というほどわかっている。「革命」の理想がついえた80年代に、不可能と思われていることを希求する蛮勇はもうふるえない。「僕」にできることといえば、センチメンタルなノスタルジーにかられて、懐かしき故郷の光景が破壊され様変わりしていることにめそめそと涙を流し、「僕」と鼠の代父である中国人のジェイに汚れた金を渡して、これで借金を返して僕らを共同経営者にしてくれと言うことだけである。

この結果辿り付くのが次作の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の結末だと考えることもできる。ここで「僕」は「影」とともに脱出せずに、「街」に残るという選択をすることになる。一角獣の頭骨を「街」の図書館で解放するのは、物語を紡ぐことのメタファーであることは明らかだ。「僕」が自らの「影」と離れ「街」に残るのは、現実社会を直接に変革することを目指すのではなく、自分のやるべきこと、できることとはあくまで物語を紡ぐ小説家として生きていくことなのだという宣言ともとれる。『ノルウェイの森』では主人公ワタナベは「革命」に背を向け、パーソナルな世界に引き篭もるかのようでもあるが、村上は『ねじまき鳥クロニクル』において再びアジアへの侵略と地続きの戦後へと向きあうことになる。

先頃アンデルセン文学賞を受賞した村上は、「自らの影、受け入れなければ 村上春樹さん、デンマークで語る」にあるように「影」から逃げずに、「自分自身の一部として受け入れなければいけない」と語っている。ここで村上のいう「影」とは、個人、社会、国家に必ず付随する、頬かむりをして目を背けることが許されない負の部分といった意味合いであり(例えば大日本帝国の「影」もそうだ)、一方「世界の終わり」における「影」はalter egoであって邪悪な存在ではなく、むしろそれは「ハードボイルド・ワンダーランド」の「やみくろ」などが担っているので、文脈的には異なるものとすべきだろう。しかしかつては「影」とともに行動するという結末を拒んだ(これは「ハードボイルド・ワンダーランド」の「私」が自らの意思によらないある運命に対し、悪あがきもせずに粛々と受け入れるということでもある)村上が、「影」を受け入れなければならないとしているのは興味深い変化とすることもできる。

一般的には村上は政治や時事問題を口にすることは避けていたというイメージが強いだろうが、こちらに書いたように、五木寛之との対談にあるように村上は80年代前半は自らの政治信条等をかなり率直に語っていた。村上が口をつぐむようになったのは『世界の終わりと』が書かれた80年代半ば以降のことである。これは一つには作家としての存在感が大きくなったことで慎重になったということもあるだろうが、また「革命」への諦念に包まれていた村上は、政治や社会システムの変革を目指すのではなく、物語を紡ぐという、自分のやるべきことに傾注すべきだとも考えたのだろう。

当人も書いているように、90年代以降の村上は自身の作品が世界的に読まれるようになったことから「日本人作家」としての責任意識も芽生え、とりわけ日本のアジアへの侵略、加害責任については海外メディアとのインタビューでは積極的に発言するようになっていった。公の場に出ることを好まず、政治的に「利用」されることへの警戒心が強かったはずの村上があえてそのような言動を厭わなくなってきているというのは、村上自身の変化もさることながら、世界全体がそんな悠長なことをいっていられなくなってしまったということでもあるのだろうが。

タルコフスキーにおける不可能なものの希求はもちろん政治的なものではなく、むしろ積極的に非政治的なものであり、それは結果的に政治的なものともなる。村上における不可能なものの希求への諦念は政治への諦念ともなり、現状追認の微温的保守主義者と見なされがちであった。90年代半ば以降の村上の言動の変化にも関わらず、とりわけ『1Q84』のBook3は「現代社会の闇に挑む」といった凡庸な期待を積極的に裏切ることを狙って書かれたかのようでもあった。『1Q84』は明らかに『ねじまき鳥クロニクル』の「語り直し」を意図して書かれたものだが、Book3では『ノルウェイの森』を反転させたかのような構造が侵入してきているし、その点ではむしろ後退したという評価もできるだろう。

村上の作品がその言動の変化を反映させることになるのか、あるいはそれを脱臼させていこうとするのか、とりあえずは間もなく発表される新作長編を待ちたい。


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佐藤太郎(仮)

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