『アホウドリを追った日本人  ――一攫千金の夢と南洋進出』

平岡昭利著 『アホウドリを追った日本人  ――一攫千金の夢と南洋進出』





司馬遼太郎は「長編歴史小説『坂の上の雲』を刊行後、死後の正岡子規に関わる人々を描いた作品」である『ひとびとの跫音』を発表している。この作品に登場する「タカジ」とは「ぬやま・ひろし」というペンネームを持つ「プロレタリア文学の詩人で活動家でもある西澤隆二」のことである。そして隆二の父、西澤吉治も紹介されているという。


西澤吉治は福井生まれで、「地質調査の給仕をしながら夜学に通い、後に伊豆諸島の開発に従事するが、一八九二年(明治二五)頃には結核に冒され、八丈島で療養生活を送った」。
当時の八丈島は島外への出稼ぎが盛んであり、その頃は丁度鳥島での「アホウドリ撲殺事業の絶頂期」でもあった。

療養生活を終えた西澤は、日清戦争が勃発すると近衛師団に食料や日用品を販売する御用商人として中国に渡り、台湾にも従軍した。日清戦争後は台湾で商売を始め、西島汽船を設立するなど「若くして有力な実業家になっていた」。

1907年になると西澤は鳥類捕獲を目的として汽船四国丸でプラタス島へ向かう。西澤はこの他にも「グアノやリン鉱、さらにボタンの原料としての高瀬貝などの採取も視野に入れており」、汽船は千トン級、労働者も八丈島から105人も雇用し、重機や設備も積み込んでいた。プラタス島に着くとすぐに倉庫や宿舎、事務所など十数棟を立て、小高いところに日章旗を掲げるとプラタス島を「西澤島」と命名し、桟橋や軽便鉄道まで建設した。翌年になると台湾や福建省からも労働者を募集し、かつては無人島だったプラタス島は400人ほどの労働者でひしめきあう「西澤島」となった。「カツオドリが飛び交う光景が描かれた私製紙幣が流通する、単一企業島「西澤王国」がここに形成されたのである」。

1909年になると、東京朝日新聞は「おそらく訛伝」としつつ、上海の有力紙が「一〇〇人余りの日本人が、突然、広東省の東沙島に現れ、中国漁船を追い払い、日本国旗を立てたりしたため総督が調査のため官吏を派遣した」という記事を掲載したことを紹介している。この記事はもちろん誤報などではなく、あの「西澤島」のことであった。

1908年に中国で起こった日本商品ボイコット運動に頭を悩ませた日本政府はこれが刺激となって再燃することを恐れ、プラタス島の領有権を主張したことはなく、「清の領有の確証が得られるならば、領有権を承認することを表明した」。これによって事態は収拾するかと思いきや、新聞各紙が「西澤島事件」として報道するうちに日本国内では強硬意見が台頭し始め、1909年4月1日には読売新聞が「日本はプラタス島から撤退すべきではなく、理由もなく占領を放棄すべきではないと報道した」。

元より日本側としては領有権の主張などできるはずもないということはわかっていたため条件闘争となるが、事態は「日本としては、もはや賠償金を得るどころの問題ではなくなっていた」。1909年6月に日本が「西澤島」の清の領有権を認めたうえで西澤が同島から撤退し、清が西澤の事業を買い上げるという解決策が浮上した。西澤島の財産を評価するため日清両国から調査船が送られることになり、日本側は巡洋艦音羽と明石を派遣した。音羽の艦長は鈴木貫太郎、そして明石の艦長は秋山真之だった。同年10月にようやく交渉が成立し、「ここにおいて「西澤島」は消滅し、清の領土「東沙島」になった」。


西澤吉治をモデルにした小説などあればすごく面白そうであるし、私製紙幣を発行し「西澤王国」を築くなどというのはラテンアメリカ小説の手法を借りてきてもいいのかもしれない。

もっとも日本人はこれを「面白い」話としてただ消費することには慎重であらねばならない。
日本は第一次大戦が起こるとドイツ領南洋群島へ軍を派遣する。「海軍は当初、南洋群島の占領によるアメリカとの関係悪化を懸念していたが、秋山真之軍務局長らの占領積極派に押され」、南洋群島の一時占領を決める。この時派遣された戦艦の水先案内人を務めたのは、「何十年間も太平洋の島々で、アホウドリなどの鳥類を追い求めてきた水谷新六」という男だった。

海軍は南洋群島の占領経営について早くから秘密裏に検討を重ね、「南洋群島の経営は実業機関(民間)をして殖民させる」という機密文書が残っているという。秋山は派遣される松村龍雄司令官に「南洋群島のリン鉱島を占領すべし」と指示を出し、松村がその場合多くの日本人労働者が必要になると述べると、秋山は「今、実業家などと折衝中であるので、その点は安心してほしいと返答」した。
「秋山の念頭にあったのは、親しい関係にあった三井物産と、西澤島事件でプラタス島を引き揚げざるをえなかった西澤吉治であった」。こうして「秋山を仲介して西澤と三井物産が結び付くこととなった」。

三井物産の元社員らは西澤を代表として「南洋経営組合」を設立、この資金はシーメンス事件との関わりで三井物産を退社していた山本条太郎が多くを出した。南洋経営組合は ドイツ南洋燐鉱会社の設備やリン鉱を対価も支払わずに手に入れることになるが、「その許可の過程はのちに大きな問題」となる。八丈島をはじめとする日本から、そして中国から労働者を送り込み、、現地でも労働者を採用してリンの採掘を始めるが、これはすでにラサ島燐鉱会社を設立していた恒藤規隆にとってこれは容認し難いものだった。

シーメンス事件の余波がくすぶる中でのこの一件はメディアからも注目を浴び批判が集まり、西澤はプラタス島に続きラサ島でも挫折。中国から南洋へと商権の拡大を目指し、覇権を築こうとしていた山本条太郎などと三井物産の野望は消える。秋山は1916年に軍務局長の職を突然解かれると、欧州戦線の視察を命じられ八ヶ月間ヨーロッパに滞在。18年に「医療拒否による盲腸炎の悪化」のため51歳で死亡する。

西澤と秋山の関係は、司馬が直視することを避けたあの時代の日本のある一面を映し出しているかのようだが、このあたりは共産党員となる息子の西澤隆二を主役格として描くということに司馬の屈折した思いというのが表れているのかもしれない。


著者は八丈島から南西に直線で1200キロも離れた南大東島に八丈島系の住民が住み農業を営んでいることを不思議に思い、調査を重ねた。南大東島をはじめとする断崖絶壁に囲まれた島や、「人を寄せ付けない鳥島、尖状で岩だらけの尖閣諸島、逆に余りに低平で高潮に襲われれば、逃げ場もない南鳥島など、人間の居住が不可能と思われる島々」に日本人が進出したのはなぜだったのか。人が住めない環境は、アホウドリにとっては絶好の生息地となる。人を恐れず、飛び立つのに長い助走を必要とするアホウドリは「撲殺」という簡単な手段によって捕獲することができる。「棒と袋、さらに網があれば」、「一攫千金が狙え」たのであった。

無人島でアホウドリを撲殺しまくり、数が激減すると別の無人島を探すか、あるいはグアノ(鳥糞)やリンなど別の目的へと変化させていき、そして「行為主体も山師的な人々から、重機、汽船などを持つ資本力のある商業資本へ、独占資本へと移行」していった。アホウドリの捕獲という目的による、島を先に占有する「先占」は民間レベルで先行し、国家がこれを追認するという形で、「これらの島々の「帝国」日本への編入が行われるが、山師的な人々にとって、国土の拡大や国境などは問題ではなく、アホウドリなどの鳥類を捕獲し、外国商人に売却、大もうけすることが最重要であった。これらの人々は、無人島を狙って日本という領土の枠を超えて、続々と太平洋へ進出したのである」。

このような「バード・ラッシュ」はついにアメリカとの衝突も引き起こすことになる。領土のみならず、「糞」やその他の天然資源が肥料として活用できることを発見したアメリカとは実利的な争いも生じたが、そればかりでなく、「撲殺」という手法により鳥類を殺しまくる日本人は不興を買うことになる。セオドア・ルーズベルトは「日本人の北西ハワイ諸島への侵入を阻止するため」、「鳥類捕獲禁止令を発令し、違反する日本漁船を拿捕し、さらなる措置として「自然保護区」まで設立した。今日、世界最大の海洋自然公園である北西ハワイ諸島の「世界遺産」の「パパハナウモクアケア」(二〇一〇年)指定の原点は、日本人による鳥類密漁なのである」。


『無人島に生きる十六人』(須川邦彦著)は、1899年に龍睡丸がハワイ諸島に遭難、無人島に漂着し、様々な試練を乗り越えついに救助され、一年後に日本に帰国したというノンフィクションであるが、著者はある推理を働かせる。千島列島で開拓を行っていた報功義会の龍睡丸がハワイ諸島に漂着したのはなぜなのか。しかも長期間の無人島生活に耐えうる十分な食料まで携えて。

千島での開拓事業は国の援助も少なく厳しい状況だった。産業基盤を整備する必要から農業や牧畜、缶詰や皮革製造と並んで渡り鳥の羽毛採集も行うようになる。利益が大きいと考えられた南洋での鳥類捕獲にも乗り出し、ハワイ沖に向かった龍睡丸は座礁したとされる。しかし龍睡丸の動きはなんとも妙なものだった。

東京を出航して間もなく龍睡丸は台風によって被害を受けるが、修理のためなら近くの小笠原に行けばいいものを、西風か吹いていたからとわざわざ一ヶ月以上かけてハワイのホノルル港に入港しており、「当初からからハワイ行きが目的であったと推察できる」。

ホノルルを出航するとまたしても台風のため座礁し、龍睡丸を放棄し小さな無人島に上陸することになる。この島では「労働し、以てウミガメ、また、鳥類を捕獲してこの島より本島へ運搬することを職務のようにした」とあるように、「漂流生活というよりも、救助を前提として高値で売買されるウミガメと鳥類の捕獲作業を行っていた」。

そして帆船的矢丸が現れ全員救助される。フカ猟漁業を行うという名目で多額の援用漁業奨励金を得てハワイ沖に進出していた帆船的矢丸の真の目的は鳥類捕獲であり、帆船的矢丸は龍睡丸の乗組員と共に二ヶ月間に渡ってこの島で鳥類の捕獲を行うのである。つまりこの一連の出来事は予定通りの行動で、「意図的な漂着」であったようなのだ。「当時、船体破損などの事故が発生した場合、漂着を装い無人島に上陸することは、日本の密漁船の一つの手段でもあった」。
この的矢丸の船主は、南鳥島の発見者であり、また日本海軍が南洋群島に派遣された際に水先案内人を務めることになるあの水谷新六である。

こうして密漁という事実が伏せられたまま冒険譚として語り継がれ、さらにはナショナリズムを掻き立てる道具として使われた。最初に龍睡丸の漂流記が雑誌に発表されたのは日清戦争後の海軍増強が叫ばれていた1900年のことであり(しかも龍睡丸は日清戦争での清からの戦利品でもあった)、刊行されたのは日露戦争前年の1903年のこと。さらに長い間を置いて太平洋戦争中に再び取り上げられるようになり、1941年から翌年にかけて雑誌に連載され、43年に単行本として再び刊行されることになる。

なお龍睡丸を率いた郡司成忠大尉の実弟は幸田露伴であり、露伴は「兄の影響もあり、いくつかの海洋小説を執筆しているが、この龍睡丸事件に着目し、一攫千金の鳥類捕獲事業も含めて、これらを題材とする長編小説『天うつ浪』を構想」したが、未完のままに終わった。


もちろんアメリカがハワイを領有することになるのも帝国主義の一環であり、ハワイ周辺での日米の対立は帝国主義と利得の結合した欲望のぶつかりあいだとすることもできる。そして犠牲になるのは貧しい労働者たちだ。アホウドリなどの捕獲は資本家にとっては一攫千金であったが、無人島に住み込んでの捕獲はあまりに過酷で命を落とす者も少なくなく、さらには置き去り事件も頻発したのである。本書を読むと、殴り殺される哀れなアホウドリの姿と共に、資本家に単なる道具として切り捨てられ、自らが殺した鳥の腐肉に囲まれながら病気や栄養失調で野垂れ死にしていく貧しい労働者の姿もまた浮かんでくる。そしてこれは、この数十年後に南洋で起こる、侵略者として降り立ち祖国に見捨てられて餓死していく日本兵の姿を予告するようでもある。



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