『ひとびとの跫音』

司馬遼太郎著 『ひとびとの跫音』





アホウドリを追った日本人』(平岡昭利著)に本書に触れられた部分があり、『坂の上の雲』のスピンオフとでもいえるこの作品に興味を持って手にしてみた。不勉強を告白しておくと、『坂の上の雲』は未読であるし、ドラマも見ていない。


司馬は「忠三郎さん」の、長年の闘病の末の死と葬儀をめぐるちょっとした押し問答から回想を始めている。忠三郎は『坂の上の雲』の主人公の一人である正岡子規の養子である。正確に言うと子規の養子ではなくその妹の律の養子で、忠三郎は子規の叔父の加藤拓川の三男であった。子規の権利相続者である忠三郎の、実直とも奇妙ともとれる人生を追いながら、『坂の上の雲』の登場人物の子孫や、忠三郎ゆかりの人々の歩みを追っていくのが本書である。忠三郎は、これも『坂の上の雲』の主人公の一人である秋山好古の娘との結婚話が持ち上がったこともあったそうで、そういった点でも司馬にとっては二重三重に縁のある人物と感じられただろうが、それだけがこの長いエッセイを書かせたわけではないだろう。

本書は忠三郎の死を見届けるようにしてその直後に逝った「タカジ」の最期の言葉によって締めくくられる。そして読み終えた読者は、本書の主役とすべきは、忠三郎であるとともにこのタカジであるとの思いも強くすることになる。

『アホウドリを追った日本人』の感想で、あるエピソードについて「司馬が直視することを避けたあの時代の日本のある一面を映し出しているかのようだ」と書いた。『ひとびとの跫音』は小説というよりも回想といおうか、とりとめのないとすら言ってもいいようなスタイルのエッセイのようなスタイルで書かれている。時を行ったり来たりしながら、話があっちこっちに飛びながら進んでいくのであるが、文学的効果を狙ったものというよりは、綿密な構成をせずに行き当たりばったりであったようにも感じられてしまう。忠三郎にしてもタカジにしても極めて魅力的なキャラクターで、それこそ小説として描きたくなるような存在である。司馬がストレートに小説化しなかったのは、もちろん第一には夫人をはじめとする家族が存命中であり、未だ生々しく記憶の残る同時代人を小説にすることを避けたということがあろうが、また日本近現代史に対する司馬の微妙な心理が出ているとすることもできるのかもしれない。

本作は小説として扱われているようだが、回想的伝記エッセイとでもしたほうがいいだろう。作者である司馬がしばしば顔をのぞかせるが、小説世界における「語り手」としてではなく、またメタフィクション的に「語り」や「物語」の枠を揺さぶるための仕掛けでもなく、司馬そのものとして現れる。司馬の「小説」はそのようなものといえばそうかもしれないが、とりあえずここでは小説としては扱わない。


タカジこと西沢隆二は、「ぬやま・ひろし」というペンネームを持つ詩人でもあった。タカジの父西沢吉治はプラタス島に「西沢王国」を築こうとしたこともある山師的な面も持つ実業家であった。「司馬史観」によれば、日露戦争までの日本は明るく健全であった、しかしこれ以降道を誤ったということになるのであるが、実際にはすでに誇大妄想的な帝国主義、膨張主義を抱えていた。そして西沢吉治という人物はそれを体現するかのような存在である。しかしその息子のタカジは共産党員となり、敗戦までの12年間を非転向をつらぬき獄中で過ごした人物でもあった。司馬が西沢吉治のような人物を小説にすることを避けた一方で、その息子タカジの生涯をこうして追い続けるというところに、何かが見えるようでもある。


西沢吉治は台湾の基隆にいたときにもうけた息子に、基一、隆二と名づけた。妻は明石に帰省中に三男を生むが、すでに「島」を発見していた吉治は島三と名づける(戸籍上は志摩三)。
この「島」とはプラタス島のことで、資源のあるここに西沢は大量の労働者を連れて行くだけでなく、独自の通貨まで発行するようになる。 基一の家に残されたこの紙幣を見た司馬は、「品質は一国家の紙幣とすこしも変わらない」としている。こうして「王国」を築こうとした西沢であったが、「香港の沖」にあるプラタス島を日本人が私物化することを清が黙って見ているはずもない。日本と清との間で交渉が行われ、西沢は島を撤退するが、この処理を通じて西沢は秋山真之と知り合う。西沢は秋山のコネも使って南洋の島での開発も試みるがこれも挫折、最後はシベリア出兵に乗じて「北のほうの沿海州に一種の国をつくる」ことを考えたが、すでに零落していた西沢にこのような資金があるはずもなく、結局は経済的に逼迫した状態で、1933年(昭和8年)に死亡する。

司馬はシベリア出兵についてここで「日本近代史上、国家的愚挙のはじまりであったことは、すでに評価がさだまっているといっていい」としている。「領土的野心」を持って「列強の顰蹙を買」ったシベリア出兵が「愚挙」であったことは当然であるが、しかし「国家的愚挙のはじまり」であったのだろうか。司馬が神格化に一役買った日露戦争の英雄秋山真之と結びつきの深かった西沢が「香港の沖」の島に、あるいは南洋の島に自らの「王国」を築こうとしたように、むしろ大日本帝国がその初期から抱えていた膨張主義との連続性を見るべきだろう。そして西沢や軍の一部が夢見た「一種の国」は所を変えて、「満州国」という形で実現したとも考えることもできる。西沢の野心は帝国日本のそれを体現したものであったのではないだろうか。


タカジは仙台の旧制二高に進み、ここで忠三郎と親友になる。二人は仙台でひたすら飲みあかした。忠三郎は5年かけて卒業するが、タカジは連続留年が規則に引っかかり中退する。タカジは私立大学でもいいから進学してくれという家族の頼みもきかず、詩に傾倒し始める。この頃は父との関係も悪かったようだが、後に息子が獄中にある中、死を迎えようとしていた吉治は次男のことを気にかけていたし、またタカジの方もこの「変なやつ」である父に悪い感情は持っていなかったようだ。1972年に刊行された『編笠』で、タカジは共産党に入党した際に、「この場合、たいへん力強かったことは、父と母と兄弟夫婦が、私の立場を、よく理解してくれていたことです」と書いている。死の間際、父は長男に「タカジはどうしている?」と、数年間会っていなかった次男を気遣ったという。

中野重治や堀辰雄らと共に文学的研鑽を積んでいくが、タカジはやがて左傾化し、ついに非合法政党である共産党に入党することになり、治安維持法で逮捕される。刑期を終えても予防拘禁として獄につながれ続けたのは転向しなかったためである。実は逮捕後に共産党はタカジをスパイとして除名していたのであるが、タカジの心が揺らぐことはなかった。

当時の左翼といえば語学に達者で、数ヶ国語をマスターしている人もめずらしくないというイメージが強いが、タカジは英語が苦手であったようだ。二高では「数学さえ勉強すれば学校ではなんとかやってゆけると思っていた」が、なんと数学も英語で講義されることがわかり、「だんだん教室に出るのが嫌になり、忠三郎と飲み歩くようになった」と振り返っている。タカジは獄中で子規全集を読むが、子規もまた英語に苦しみ、数学の授業も英語で行われていたために大学予備門を落第した。「獄中のタカジは、多量な活字量の子規全集のなかで、この部分ばかりは息を忘れるような思いで接したのではないかと思われ、蓋付き便器を腰掛代わりにして読んだというそのときのタカジの横顔まで浮かんでくるような気がする」。

戦後、タカジは徳田球一に迎えられる。家を世話してもらい、さらには徳田の義理の娘と結婚することにまでなる。妻となる摩耶子は画家徳田耕作の娘で、耕作の死後に母が耕作の従兄弟であった球一と結婚していた。

摩耶子は「もう一つ、よくわからないところがあるから」と、共産党員になることはなかった。タカジは本意ではなかったかもしれないが、「党に入る入らないは、個人の自由だ」として強制することはなかった。

二人は深く結びついたまま添い遂げるのであるが、これは苦労知らずであったということではない。タカジは徳田とともに中国へ脱出するが、妊娠中だった妻と長女の「みらの」は置いてきぼりをくらった。摩耶子は夫が「ミラノのつぎは、ナポリか」とつぶやいたことを憶えていたために、息子を「なぽり」と名づける。徳田は中国で客死、タカジも帰国することになり、さらには共産党から選挙に出ることになる。タカジは気が進まなかったが、二人の子どもを北京に送ってくれるなら、と了承する。タカジは子どもたちを高校や大学に進ませる気はなく、みらのは舞踏家に、なぽりは漁師の家にあずけるなどして労働者として育てようとしていた。しかしこうまでして出た選挙の経験は、夫婦にとって思い出したくもない記憶となった。


タカジと摩耶子は世俗的な成功には関心がなかった。タカジは純粋といえばそうなのかもしれないが、浮世離れしたというか、常人にはなかなか理解し難い精神を持つ人物でもあった。結局タカジは分党活動をしたとして共産党を除名されることになる。しかし反動化することもなく、革命家としての信念が揺らぐこともなかった。

司馬はタカジとのこんな会話を憶えている。タカジは「自分は、まず日本の資本主義をちゃんとしたものにしたいのだ」と語った。この時党を追われてすでに9年ほどたっていたが、タカジは依然として革命家だった。「かれにとって資本主義をつぶすのが革命であるはずだが、しかしそうではなく、日本の資本主義の不合理を匡し、筋骨の堂々としたものにしたい、というのである」。そしてタカジはこう言った。「そのあと、社会主義革命をおこす」。
「たしかにその図式はマルクスが指し示したとおりのことであった」。「かれは西洋の資本主義が生んだ個人の確立と自由と合理主義をまず日本で育てねば、たとえ社会主義へ移行しても官僚専制だけの最悪の社会になってしまう、といった」。


「タカジ」と司馬がカタカナでその名を記すのにはわけがある。彼は誰からも「タカジ」と呼ばれたがった。妻も彼を「タカジ」とよんだ。タカジは獄中でこのよび名を思いつくと、兄の基一夫妻はもちろん、その子どもたちにも「タカジ」とよんでくれと手紙で頼んだ。甥っ子たちが「タカジ」とよぶと、うれしそうに語ることになる。司馬はこれを知って、「この人はこういう形で未開ばなれをしようとしているのだ」と考えた。『ゲド戦記』などにもあるように、名前のタブーというのは世界に広く見られた現象であろう。タカジはこれを打ち破り、個人であろうとしたのだった。孫たちにもおじいちゃんなどではなく「タカジ」とよばせた。「タカジ」と「よばれる場合、タカジ以外のなにものでもない。その呼称に付属した尊卑の衣裳が少しもなく、人格がくっきりしていて、のがれようもなく個人そのものが名指されている」。

しかしこれには限界もあった。司馬家のお手伝いの若い女性はタカジに好感を持ち、「自分の敬愛の心をあらわしたいために平素以上に茶目になっていた」。
タカジは「君のお父さんやお母さんは、君をどういう名でよんでいる」と訊いた。「はいっ、マサミであります」とジーパン姿の娘は直立不動の姿勢で答えた。「じゃ、おれはこれからマサミとよぶ。おれのことをタカジとよんでくれ」。
しかしこの娘は祖父のように年齢の離れた相手をよびすてにすることはできず、ぬやまさん、ぬやま先生とよびつづけた。そのためタカジも「マサミ」とはよべなかった。「かれが考案したこのよび方の方式は、一方だけが古代律令制の側にいる場合、どうにもタカジだけが相手の名をよぶわけにはいかないという都合の悪さがあった」。

この名前の件と並んでタカジという人をよく表しているのが、こんなエピソードだ。
学生運動が盛り上がると、タカジはかれらに会いたいと連絡をとり、バリケードの中に入れてもらった。全学共闘会議の本部である教室にたどりつくと、「その教室に、数人の学生がいて、秋田明大という学生もいたよ」と後に振り返っている。タカジはそこを、最初は「プロテスタントの田舎の教会のようだと思」い、雑談をしているうちに「これは初期の築地小劇場のふんいきにそっくりだと思うようになった」。大人にできることといったら酒を差し入れることくらいだという意識があったのか、酒を差し入れようと言うと、「私どもは、ここでは酒を飲まないのです」と学生たちは言下にことわった。
「かれにとって、酒のない青春というものは考えられなかったのだろう」。「飲まないんです」「飲まないのか」というやりとりを繰り返し、その理由を尋ねると、一人の学生がはにかむような表情を見せてこう言った。「本部で酒を飲んでいるようでは学生たちがついてきませんし、闘争などはできないんです」。
この言葉は、「それまで職業革命家としてもっていたタカジの日常感覚の一部を、土砂を崩すようにさらってしまった。/それ以来、かれは一滴も酒を飲んでいない」。
「よく考えてみると、革命というのも酔っぱらいなんだ」とタカジは言った。「酒も酔っぱらいだ。二つの酔っぱらいが一つの体に入るはずがないよ」。

タカジの根っこにあったのはロマンティシズムかもしれないし、それは危うい方向へ容易に向かいやすいものでもある。しかしタカジという人のその純粋さには、「楽屋裏」というものがなかった。かれは孫ほども年の離れた司馬家のお手伝いと、「タカジ」、「マサミ」とよび合いたかったのだろうし、それは上辺だけの自己装飾などではなく、そうすれば対等の個人と個人として向き合えるのだと思っていたのだろう。言うまでもなく、司馬はタカジの政治的主張に共感を寄せたのではない。生前は司馬も「ぬやまさん」とよんでいたようだ。それでもこうして「タカジ」と書くところに、その滑稽とも思えるほどの純粋さを肯定的に捉えていたということが表れているようでもある。


タカジについてばかり書いてしまったが、本書は忠三郎をはじめ、何人もの肖像が描かれている。忠三郎の実父加藤拓川は中江兆民に師事してフランス語を学び、思想的にも傾倒していたとおぼしいが、外務官僚となる。拓川は思想に殉じたのでもなく、また反動化したのでもなかった。能力からすればどの立場をとるにしても名を残してもおかしくなかったのだろうが、どこか冷めたところがあった。そんな中で彼の思想の一端をうかがうことができるのが、パリにおける体験から生まれた「愛国論」だ。拓川は「実にや愛国主義の発動はとかくに盗賊主義に化」するとし、愛国心が「あらん限り天下太平は望みがたし」、「愛国の臣たらんよりは寧ろ盗臣たれ」とまで書いている。

病気で退職する際には、あと少しで外務大臣になれたのにと惜しむ声が出るほどだったが、陸羯南はそのような声を諌め、「大臣になろうとするような野心のある男じゃない」、「淡白というのはあの男のためにある言葉だ」とした。退官後、拓川はジャーナリズムの世界に入る。彼は「言論の人でありたかったことが、いつの時期であれ、あったにちがいない」。しかし「愛国論」を書いた頃からと比べると、「身を挺して世上に訴えるほどの情熱も内容も、かれの内部から希薄になってしまい、名文ながら、どこか気がぬけていた」。

病気がちなった拓川は周囲に押されるままに衆議院議員になったり、原敬の好意によって貴族院の勅撰議員にもなったが、彼の思想を考えると「衰えのなかの現象」だったのだろう。拓川の命を奪うことになる食道癌を患っている中、松山市長にかつごうという動きがあったのも、「崩れるような拓川の後半生のとりとめのなさといっていい」。
それでも、石井菊次郎らから宮内省の葡萄酒を贈られると、「尻から飲んだ」という「お礼の電報を垂死のなかから打たせたのは拓川らしい」。一方で旧藩主が見舞いに来ると、ほとんど動けない体になっていたにもかかわらず紋服に着替え、端座して迎えた。「拓川の本質は、結局はそういうところにあったのかもしれない」。


そして忠三郎の生涯も、実父のそれを連想させるようである。養母の律からは、忠三郎には何の期待もしていませんと言われるほど世俗での成功には無頓着だった。小学六年の時に後継者のいなかった正岡家に養子に入ったものの、生活は加藤家で続けた。しかし学資は律が負担することになる。二高ではタカジと飲み暮らすが、もともとは酒が好きなわけではなく、訓練して飲めるようにしたのであった。その後も酒を飲み続けるが、家では飲まなかったように、飲酒は依存的なものというより彼の反抗心の表れであったのだろう。

タカジは親の没落によって学費にも困るようになり、忠三郎も同じだったと振り返るのだが、実際は律がきっちり学費を払っていたのでそのようなことはなかった。タカジが誤解したのは、加藤家の家計をめぐってであろう。拓川の健康が衰えると、母のひさは天理教にのめり込むようになり、全財産を寄進したのであった。後に忠三郎が阪急に就職すると、ひさは「天理教」と染め抜かれたはっぴを着て小林一三を名指しで乗り込んできた。「あんなはずかしかったことはない」と忠三郎は語っている。

退学に追い込まれたタカジと違い、忠三郎は高校を卒業して京大に進む。そしてなんだかんだ言いつつきっちり学費を納めてくれていた「律への義理」だったのだろう、ちゃんと京大も卒業している。一方でほとんど大学に姿を現すことがなかったのは、「このひとのスタイルとしてとるべき精いっぱいの姿勢だったかと思われる」。富永太郎は彼を知的放浪者のスタイルをとっていると評したが、このように文学的なネットワークの中にいつつも、そこから抜け出るように阪急に就職した。当時東京では「半給」と勘違いされたように、全国的にはまだ無名の企業であった。「ボヘミアン」のような性質を持ちながら、忠三郎はサラリーマンとしての人生を選ぶ。

正岡子規の権利継承者であったが、これによって財産を築こうとはしなかった。貴重な原稿等は図書館に寄贈し、手元に置いておいたのは金銭的な価値がそれほどないものだけだった。世俗的成功を追い求めず、金銭欲にもかられなかったばかりか、意図的に無名のままであろうとしたかのようにも思えてくる。阪急に就職したのも、東京を逃れようとしたということだったのかもしれない。といっても、正岡家の養子というプレッシャーに押し潰されたのではないだろう。忠三郎はその役割を引き受け続けた。同時にそれを活かして名をあげようともしなかった。結婚したときは無一文であり、生活に困ることなく夫婦は暮らしたが、忠三郎が死ぬときにはまた無一文になった。


天理教にのめり込む母から逃れるためもあって、忠三郎の妹は修道女となった。「ユスティチア・たへ」は、「ほとんど希少なほどに古典的な修道女としてあり続けた」。彼女に頼れるのは兄だけであり、兄もまた妹を頼った。信仰心があるようには見えない忠三郎が洗礼を受けたのも、妹を思えばこそだったのだろう。

忠三郎の妻あや子は、この兄妹をめぐって「鮮明に残っている情景」があった。
「太平洋戦争がはじまり、日本軍が四方にばらまかれ、やがてフィリピンに上陸し、その要所を占領した」。日本は「思いつきのままにさまざまなことをやった」が、その一つが「フィリピンがカトリック国であるというところから、日本の修道女たちを現地に送って、布教ということを看板に、親日感情を持たせようとした」ことだった。「同時に、かれらは、べつの女性も贈らねばならなかった。/駐屯地の兵隊のための慰安婦であった」。
司馬は「修道女と慰安婦の徴用が同時に行われたというのは、なにやら侵略という深刻な用語を使いかねるほどに、粗末な発想であったかと思える」としている。

女性たちは大阪に集合させられると、そこから下関まで列車で行き、船でフィリピンに送られた。
「当時の大阪駅の灰色のプラット・フォームの上に、黒衣を着、白布で耳をかくした修道女たちがびっしりとならんでおり、そのなかにユスティチアもいた。忠三郎さんは、見送りというよりも、尼僧たちのためにこまごまとした用事を果たしてやるべく人ごみの中を駆けまわっていたという」。

「何の用事だったのかは知らないけれど、ともかく忠三郎はフォームを走りまわっていましたよ」とあや子は振り返っている。「走りまわるという表現がおよそ忠三郎というひとに似つかわしくないだけに、このときのあや子さんから見れば、亭主の姿が異常な印象としてのこっているようであった」。


「子規全集を出したいんだ」、タカジは司馬にこう持ちかけた。これは忠三郎への「保護者意識が根」にあったのだろう。確かに子規の全集は戦前に出たきりであったが、いざ全集を刊行しようとなると、経験豊かな編集者と専門の学者の協力は欠かせない。司馬は作家として名を成していたが、そのどちらでもない。さらに最大のネックは資金であるが、タカジは忠三郎の友人がある銀行の総帥であり、そこに社会還元のためとしての基金があることを新聞で知っていた。友人をこのようなことに巻き込むのは忠三郎が嫌うことであるが、また忠三郎は正岡家の養子として、子規の仕事を伝えていかねばならない立場でもあり、渋々ながら了承した。

しかしこの件はオイルショックによって立ち消えになってしまう。結局講談社が子規全集を刊行することになり、司馬とタカジもこれに名を連ねることになる。タカジが出版社を探さずにいきなり司馬に話を持ち込んだのは、一刻も早く全集を刊行したかったからだった。学者などがからむと厳密さを優先させて時間が喰われるかもしれない、タカジはそれを恐れた。というのも、タカジはもう忠三郎が長くは持たないと考えたのだ。忠三郎は脳卒中の後遺症で自宅療養を続けていた。「タカジは、正岡忠三郎という、かれにとって地上でもっとも敬愛している人物が、生涯なにごとをしたわけでもないままに、一期を了えようとしていることに、激しい感傷を持っていた」。

なんとか忠三郎が生きているうちに、子規全集を一冊でも刊行したい、それがタカジの願いであった。編集を担当した松井勲は自らの体調悪化を気にも留めず、すさまじい執念でこの仕事に打ち込んだ。「そのうち忠三郎が死ぬよ」とタカジは苛立ちを見せたが、また松井の人柄もたまらなく好きになってもいた。松井はすでに自分が長くないと悟っていたのか、周囲の静止を振り切って仕事を続け、54歳で亡くなる。

忠三郎の存命中に子規全集の刊行が始まるが、タカジには物が飲み込みづらいとう症状が出るようになっていた。食道癌だった。長年療養を続けた忠三郎に対し、タカジは年齢を感じさせないほど若く元気であったが、松井の死の後に忠三郎が息を引き取ると、それを見届けるようにしてタカジも亡くなる。

死の直前、すっかり体の衰えたタカジは酸素テントの中で荒い呼吸をくりかえしていた。不意にタバコが吸いたくなったようで、しぐさでそれを伝えるが、付き添いの女性は火をつければ酸素が爆発するかもしれないと身ぶりで知らせた。するとタカジは、「おどろくほど大声」でこういった。「勝手にしやがれ」。これがタカジの最期のことばだった。


繰り返しになるが、『ひとびとの跫音』は一応は小説とされてはいるが回想的伝記エッセイとでもしたほうがいいだろう。それはつまり、司馬が忠三郎やタカジを小説として描くことはなかったということでもある。これは同時代人であるがゆえの配慮だとしても、西沢吉治を、あるいは加藤拓川を小説にするという選択肢はあったはずだ。

秋山兄弟は息子を軍人にすることなく、また娘を軍人に嫁がせることもなかった。司馬は好意的にこのことを書いているように、ファナティカルな国家主義を嫌悪し、ある時期以降の日本軍を厳しく批判した。

司馬は日露戦争後に日本は道を誤ったとしたが、これは言葉を変えれば、それ以前の日本は正しかったということになる。大きな仕事を成すことなく死んでいった加藤拓川は、あるいは兆民の衣鉢を継いで、幸徳秋水とはまた違った形で日本の左翼の可能性を示したかもしれず、それはもう一つの、実現することのなかったあったかもしれない明治を幻視することとなるが、それを描けば国民国家を無邪気に言祝ぐ司馬的な「明るい明治」とは対立せざるをえないだろう。そして何より西沢吉治のような人物を小説化することは、自らが作り出した明るい明治像を根本から否定することになり、とりわけ『坂の上の雲』で神格化した秋山真之に批判的にならざるをえなくなる。司馬にはやはり西沢吉治のような人物を小説にするわけにはいかなかったのだろう。そこに司馬の限界が見える一方で、この『ひとびとの跫音』を書いたように、現在の右派と違って都合の悪いことに完全に頬かむりを決め込んだというわけでもなかったとすることもできる。

『ひとびとの跫音』は洗練された作品ではない。雑誌連載時は仕方がないにしても、単行本として刊行するにあたり、もう少し構成を見直したり、書き直すなりしてはどうかと思えるようなところも散見される。しかしこのいびつとも思えるような出来が、今となってはかえって司馬の惑いなどを表しているように感じられなくもない。以前こちらに書いたように、個人的には司馬の歴史認識に対してはかなり否定的なのであるが、それでも彼の呻吟というのは、現在の「保守」と比べると貴重なものにも思えてきてしまう。


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佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
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